「先輩のストレス発散の方法って何ですか?」
 前にそう聞かれたとき、何て答えたか西川は覚えていない。
 社会に出て分かったのは、『世間は数多くの建て前で成りたっている』ということだった。本音など誰も見せはしない。自分を守れるのは、いつも自分だけだった。数字さえ残せば、見える業績さえあれば、会社は何も文句は言わない。そういうものだ。それでいいと思っていた。
 ただ、自分のなかの汚泥を吐きだす手段は必要だった。「理性的で頼りがいがあり、仕事ができる」と思われている自己を形成し続ける手筈が。

『こんなのって、ひどくない?』
 液晶画面に映しだされたメッセージに目を落とす。知るかよ、と西川は思った。
 なぜかその瞬間、数年前に消えた『彼女』のことを考えた。素直でまだ何も染まっていない、新雪のような女だった。だからこそ、汚しがいがあった。彼女が、当時の捌け口(﹅﹅﹅)だった。このどうしようもなく歪んだ世界の片隅で、まともに生きていくための。
 誰しも少なからず、そういうものは必要だろう。それが、思えば効率の良い「ストレス発散」の方法だった。西川は例外なく、他者から「優しい」と思われる。けれどその実、全然優しくないことを西川自身は知っていた。
 利己的な側面を見抜かれるのか、付きあった女はいつも片端から離れていった。西川は「別れ」が苦手だった。ひきとめるためなら、どんなことでもした。そう、どんなことでも。自分のなかの劣情を引き受けてくれる相手が、どうしても必要だったのだ。だから、付きあった女を抱くとき、西川は必ず痕跡を残した。
 撮らせてくれる相手にはスマホで、それが難しい場合は隠し撮りも厭わなかった。そうすれば――相手の弱みさえ握れば、あとは良いように操れる。「別れ」を防ぐこともできる。

『こんなのって、ひどくない?』
 メッセージアプリに残された言葉。
 ――もう終わりにしたい。
 そう言われた直後、この女の裸の画像を西川はSNSに流した。
(たぶん、そのことだろうな)
 そう思いながら、煙草に火をつける。
『じゃあ、もう一回ヤらせろよ』
 片手でフリック入力する。
 死んでもむり、という返事に西川は唇を歪ませる。
『なら、顔もさらすしかないな』
 そう送ると、『それだけはやめて』と、相手は一転従順になった。
(おとなしく喰われていれば良いんだよ)
 性欲を満たす手段は手近にあった方がいい。
『じゃあ、もう一発な』
 西川はそう送って、スマホの画面をオフにする。

 この手段さえあれば、どれだけ現実が過酷でも、生きていくのがたやすくなった。ふいにまた、数年前同じように扱った女の顔が目に浮かぶ。あの一件があってから、西川はSNSで女を漁ることを覚えた。年収さえちらつかせれば、相手に困ることはなかった。もっと早くこうすればよかったと思ってしまうほど。
 ――と。
 喫煙所の扉が開く。無意識に自分の顔が仕事モードに切り変わる。
 入ってきたのは、「仕事の鬼」と呼ばれる上司の大倉部長だった。礼をして退室しようとすると、背後から声をかけられた。
「お前、樋口っていう社員のこと覚えているか」
 心臓がギクリと音をたてる。
 今しがた、その女のことを思いだしていたところだった。心をのぞかれた居心地の悪さを、西川は乱暴に飲み下す。
「そんな人いましたっけ」
 西川が予想した以上に、白々しい声になった。
「一時問題になっただろ」
「そんなこともありましたね」
 西川はあたりさわりなく答える。
 あの女との繋がりは、誰も知らないはずだった。
 西川は無言で会釈する。途端、スマホがポケットで振動する音がした。