彼女をもう一度見かけたのは、企画書を作り直してデータを送信し、駅へとむかう途中だった。人込みにまぎれる彼女を見つけた瞬間、僕は話しかけていた。
「あの、先日はありがとうございました」
そう告げた後、
(いったい何を言ってるんだ)
そんな思いが急に湧きあがって、顔が火照った。
一度きりの些細なことだ。覚えているはずもない。どうして呼びとめてしまったのか。
彼女はしばらく僕を見つめて、「ああ」とゆっくり微笑んだ。
思いだしてもらえた安堵で、知らず笑顔になっていた。
「あのときは助かりました」
実際、社員証がなければ会社に入れないところだった。紛失するなんて事態は避けたい。それで終わるはずだったのに、彼女は僕を見つめると、思わぬ言葉を口にした。
「あの、よかったら、今少し話せませんか」
まだやるべき仕事はある。それでも、僕は彼女の誘いを断ることができなかった。彼女と言葉を交わした瞬間、小さな光をもう一度垣間見ることができたような、そんな錯覚に陥って、視線をそらせなかったのだ。
「土曜も仕事なんですね」
スーツを着ているからだろう。彼女が僕を見てつぶやいた。そう言う彼女も最初と同じ、グレーのパンツスーツだった。
僕が言葉を返す前に、
「分かります」
と彼女は言った。
「私もそうだったから」
(まただ)
と、僕は思う。
僕はなぜか、彼女から目を離すことができなくなる。彼女の瞳のなかにある、暗い光を見ていたくなる。
「私、広告代理店で働いてたとき、『この仕事を乗りこえた先に何があるんだろう』って、ひとりでよく思ってました」
風が吹く。
街路樹の木の葉がざわめいて、落ち葉が数枚、空に舞った。
僕は、薄っぺらい共感を彼女に示したくはなかった。
僕も同じ気持ちだった。でも、あまりにも深く共感したことで、かえって言葉にできなかった。僕はただ彼女の隣で、自分と同じことを思う人がいた事実に静かに打ちのめされていた。
そして、なぜか僕は彼女を知っているような気がした。
そんなことがあるわけないのに。まるで以前から知っていて、色んな偶然が重なって、また話しているような、そんな気持ちにおそわれる。僕のその考えは、ある意味においては当たっていた。でも、僕はそのときはまだ、何にも気づけていなかった。
僕が目を離せなくなった、その本当の理由さえも。
僕たちは公園のベンチで、ふたり並んで腰かけていた。本当は自販機でコーヒーでも買いたいところだったけど、あいにくそばに飲み物が売っていそうな場所はなかった。僕らは並んで座ったまま、十一月初めの澄んだ空気を味わった。なんだかまともに呼吸するのも久しぶりのような気がした。
朝起きて、仕事に追われて、上司に否定されて、会社からは飽くことなく営業利益を要求されて、家では泥のように眠る。そんな日々が果てしなく続くような気がしていた。彼女がそこから抜けだせたなら、それは一方では喜ばしいことなのだろう。そんな考えが一瞬だけ、頭の内をかすめていく。
でも、それなのに彼女は幸せそうに見えなかった。僕と同じくらい、疲弊しているように見えた。
「私、『自分自身』を見失ってしまったんです」
吹きわたる風にまぎれるように、そうささやく声がした。
「もう取り戻せないくらい、自分を見限っちゃったんです」
働いていたとき、と彼女は言葉をつけ足した。
「それで、僕に声をかけたのは何か理由があるんですか?」
僕が尋ねると、彼女は弾かれたように顔をあげた。ずっと隠していたことを言いあてられたかのように。
「復讐したい人がいるんです」
重い口調で告げられた声。
「手伝ってくれませんか」
もちろん、僕はその誘いをちゃんと断るべきだった。
でも、彼女を見つけた瞬間から、見過ごせないことは分かっていた。僕はなぜか彼女に、どうしようもなく抗えない。
僕が承諾すると、彼女は初めて口元にやわらかな笑みをのぞかせた。
「ありがとうございます」
そのとき彼女が見せた笑顔を、僕は守りたいと思った。そう思う頃には、心は完全に傾いていて、修復すらできなかった。