第48話 ギュー
今日はとても穏やかに話してる。昨日のことが嘘のようだ。何かあったのかと疑ってしまうくらいだ。
「批判だけならバカでもできるんですよ。回避策や改善案を一緒に提示して初めて『ダメ出し』と呼べるんじゃないかなって思うんです」
アイさんは俺の横にちょこんと座って、缶のココアを飲んでいる。俺は相変わらず刺激物はダメなので、ずっとほうじ茶だ。
「校閲さん、凄いんですよ。間違った事を書くと、徹底して調べて来るんです。これは昭和時代にはありません、とか、この時間配分だとここに到着できません、とか。時刻表から家系図、地図、新聞、何でも調べてたった一つの単語の間違いの為に裏を取る。それで、確実に間違いだと認定したら『間違ってます』と指摘出しをするんですけど、それだけじゃなくてどうやったらそれを回避できるか案を練って持って来てくれるんですよ。ここの一言を変えると恋愛がお釈迦になるとか、ここを一分変えるとトリックが成立しなくなるとか、そういうのを踏まえて、校閲さんは作家がなるべくたくさん改稿しなくて済む案を模索するんです。でも作家が『それでいいの!』と言ったら、そこまで何時間も調べて考えて練った案も全部無し。それが当たり前の部署が校閲さんなんです」
「ふーん、大変な仕事だね」
「そう。本当に頭が下がります。あれは頭が良くて、繊細なところに気づける人でないとできない、難しい仕事だと思いますよ……でも私は今、それをアイさんの原稿に対してひたすらやってるんです。素人の分際でね」
「え?」
フワフワのモヘアで編んだ暖かそうなセーターの袖から、細い指が遠慮がちに顔を出している。どこまでもアースカラーの似合う人だ。
「浴衣でお茶会、着物専門サイトたくさん調べました。着付けの先生にも確認取りました。茶道をやっている人にも訊きました。お茶会重視で行きたいなら、絽や紗の着物で出かければ、真夏でもきちんと感を損なわずに涼しく着こなせると教えて貰ったんです。逆に浴衣重視なら、浴衣で参加する野点にしたらどうかと考えました。亭主も浴衣なら客も浴衣でいいはずなんです。そのまま花火に直行できるので、それでもいいと思った」
アイさんは黙って聞いている。イメージしているんだろうか。
「ケーキもそうです。グロゼイユのケーキなんてはっきり言って見た目がパッとしない。グロゼイユのプレザーヴを作ってケーキに挟むならわかるけど、トッピングにするには華やかさに欠けます。それならいっそ、イチゴやラズベリー、ブルーベリーなどのベリー系をメインのトッピングにして、レッドカラント……あ、グロゼイユね、これとミントの葉をスパイスカラーとしてサブトッピングにするという案も考えたんです。それならレッドカラントも使える」
「そんなに考えてたんだ……」
「そりゃそうですよ」
俺はほうじ茶を口に含む。最近この香ばしい味にハマりつつある。
「初雪もですね。二人は雪だるまを作って、そこに舞がその辺から折ってきたトキワサンザシの枝を刺すというところ、これはありえない。ピラカンサ類は鋭い棘があるんです。だからよく生垣にして植えられてる。それを舞が素手で折って来るというのも違和感ありますし、赤い実が欲しかったのなら別のものもたくさんある。万両、千両、百両や十両、一両なんてのもある。クロガネモチ、ナナカマド、サンゴジュ、ナンテン……」
「雪うさぎも」
「そう、あれも千両の葉と実を使ってましたけど、千両の葉っぱでは雪うさぎには大きすぎます。殆ど耳で隠れてしまう。そうでなければ超巨大雪うさぎです。普通、雪うさぎは南天と決まってるんですよ。でも他のものでも代用できるかもしれないので、一通り調べ直したんです。結局南天しか提案できませんでしたけど、その影にはたくさんボツにした植物たちがあったんです」
「八雲君、そんなに調べてくれてたんだね、忙しい時期だったのに」
アイさんがいつもの上目遣いで申し訳なさそうに言う。
「私は『良い作品にする』ことしか考えてませんから」
「八雲君がそうやって水面下で頑張ってくれてたのに、あたし、簡単に『無しにする』とか『それやめる』とか言ってたんだね。八雲君はあたしが簡単に『無し』にしちゃうものを必死で『あり』にしようとしてくれてたのに。ごめんね」
「いえ、私もアイさんの気持ちを汲んであげられなくて……」
アイさんは急に照れたように立ち上がって、窓際の方へ行って俺に背を向けた。窓の外には爽やかな秋晴れの空が広がっている。
「八雲君がそんなに調べてくれてるなんて思ってなかった。博識で、なんでも知ってて、何を言っても歯が立たないって思いこんでた」
「そんなわけないじゃないですか」
「あたしは言葉の響きが気に入ると、その言葉が使いたくなっちゃうから、それだけで使っちゃうの」
「だからその単語だけ浮いて見えるんですよ。作者が精一杯背伸びしてるようにしか見えない。そういう単語は詩で使えば効果的かもしれないけど、小説で使うとテンポが乱れるだけなんです。だから『あたしのお気に入り』で、と言ったんですよ」
「うん、それがわかったの。あたし、プライド高いし、カッコつけだから、少しでもかっこよく見せたいの。傍から見たら『お母さんのブカブカのハイヒールを履いて口紅つけてる小学生』みたいなもんだよね。却って恥ずかしいね」
やっとわかってくれた。そうなんだ、アイさんはカッコつけたがりなんだ。
「私はそのままのアイさんが一番好きです」
「あたしは生意気で偉そうで小憎らしいくらい理論的な八雲君が好き」
「きらいって六回言われましたけど」
突然彼女はこっちを向いた。
「この前、嬉しかったよ」
「は?」
「中村に『俺の恋人です』って言ってくれたの、すごーく嬉しかった」
あ、あ、あ、あ、あ~。そういえば、俺、そんなこと言ったわ!
「あ、まあ、それは条件付きというか、伊織の為の仮想恋愛というか……」
「八雲君大好き!」
「あ、はい、どうも……」
「もう! 今日はあたしがギューしてあげる」
俺は文字通り彼女に『ギュー』された。そして今日も点滴チューブは逆流する。
今日はとても穏やかに話してる。昨日のことが嘘のようだ。何かあったのかと疑ってしまうくらいだ。
「批判だけならバカでもできるんですよ。回避策や改善案を一緒に提示して初めて『ダメ出し』と呼べるんじゃないかなって思うんです」
アイさんは俺の横にちょこんと座って、缶のココアを飲んでいる。俺は相変わらず刺激物はダメなので、ずっとほうじ茶だ。
「校閲さん、凄いんですよ。間違った事を書くと、徹底して調べて来るんです。これは昭和時代にはありません、とか、この時間配分だとここに到着できません、とか。時刻表から家系図、地図、新聞、何でも調べてたった一つの単語の間違いの為に裏を取る。それで、確実に間違いだと認定したら『間違ってます』と指摘出しをするんですけど、それだけじゃなくてどうやったらそれを回避できるか案を練って持って来てくれるんですよ。ここの一言を変えると恋愛がお釈迦になるとか、ここを一分変えるとトリックが成立しなくなるとか、そういうのを踏まえて、校閲さんは作家がなるべくたくさん改稿しなくて済む案を模索するんです。でも作家が『それでいいの!』と言ったら、そこまで何時間も調べて考えて練った案も全部無し。それが当たり前の部署が校閲さんなんです」
「ふーん、大変な仕事だね」
「そう。本当に頭が下がります。あれは頭が良くて、繊細なところに気づける人でないとできない、難しい仕事だと思いますよ……でも私は今、それをアイさんの原稿に対してひたすらやってるんです。素人の分際でね」
「え?」
フワフワのモヘアで編んだ暖かそうなセーターの袖から、細い指が遠慮がちに顔を出している。どこまでもアースカラーの似合う人だ。
「浴衣でお茶会、着物専門サイトたくさん調べました。着付けの先生にも確認取りました。茶道をやっている人にも訊きました。お茶会重視で行きたいなら、絽や紗の着物で出かければ、真夏でもきちんと感を損なわずに涼しく着こなせると教えて貰ったんです。逆に浴衣重視なら、浴衣で参加する野点にしたらどうかと考えました。亭主も浴衣なら客も浴衣でいいはずなんです。そのまま花火に直行できるので、それでもいいと思った」
アイさんは黙って聞いている。イメージしているんだろうか。
「ケーキもそうです。グロゼイユのケーキなんてはっきり言って見た目がパッとしない。グロゼイユのプレザーヴを作ってケーキに挟むならわかるけど、トッピングにするには華やかさに欠けます。それならいっそ、イチゴやラズベリー、ブルーベリーなどのベリー系をメインのトッピングにして、レッドカラント……あ、グロゼイユね、これとミントの葉をスパイスカラーとしてサブトッピングにするという案も考えたんです。それならレッドカラントも使える」
「そんなに考えてたんだ……」
「そりゃそうですよ」
俺はほうじ茶を口に含む。最近この香ばしい味にハマりつつある。
「初雪もですね。二人は雪だるまを作って、そこに舞がその辺から折ってきたトキワサンザシの枝を刺すというところ、これはありえない。ピラカンサ類は鋭い棘があるんです。だからよく生垣にして植えられてる。それを舞が素手で折って来るというのも違和感ありますし、赤い実が欲しかったのなら別のものもたくさんある。万両、千両、百両や十両、一両なんてのもある。クロガネモチ、ナナカマド、サンゴジュ、ナンテン……」
「雪うさぎも」
「そう、あれも千両の葉と実を使ってましたけど、千両の葉っぱでは雪うさぎには大きすぎます。殆ど耳で隠れてしまう。そうでなければ超巨大雪うさぎです。普通、雪うさぎは南天と決まってるんですよ。でも他のものでも代用できるかもしれないので、一通り調べ直したんです。結局南天しか提案できませんでしたけど、その影にはたくさんボツにした植物たちがあったんです」
「八雲君、そんなに調べてくれてたんだね、忙しい時期だったのに」
アイさんがいつもの上目遣いで申し訳なさそうに言う。
「私は『良い作品にする』ことしか考えてませんから」
「八雲君がそうやって水面下で頑張ってくれてたのに、あたし、簡単に『無しにする』とか『それやめる』とか言ってたんだね。八雲君はあたしが簡単に『無し』にしちゃうものを必死で『あり』にしようとしてくれてたのに。ごめんね」
「いえ、私もアイさんの気持ちを汲んであげられなくて……」
アイさんは急に照れたように立ち上がって、窓際の方へ行って俺に背を向けた。窓の外には爽やかな秋晴れの空が広がっている。
「八雲君がそんなに調べてくれてるなんて思ってなかった。博識で、なんでも知ってて、何を言っても歯が立たないって思いこんでた」
「そんなわけないじゃないですか」
「あたしは言葉の響きが気に入ると、その言葉が使いたくなっちゃうから、それだけで使っちゃうの」
「だからその単語だけ浮いて見えるんですよ。作者が精一杯背伸びしてるようにしか見えない。そういう単語は詩で使えば効果的かもしれないけど、小説で使うとテンポが乱れるだけなんです。だから『あたしのお気に入り』で、と言ったんですよ」
「うん、それがわかったの。あたし、プライド高いし、カッコつけだから、少しでもかっこよく見せたいの。傍から見たら『お母さんのブカブカのハイヒールを履いて口紅つけてる小学生』みたいなもんだよね。却って恥ずかしいね」
やっとわかってくれた。そうなんだ、アイさんはカッコつけたがりなんだ。
「私はそのままのアイさんが一番好きです」
「あたしは生意気で偉そうで小憎らしいくらい理論的な八雲君が好き」
「きらいって六回言われましたけど」
突然彼女はこっちを向いた。
「この前、嬉しかったよ」
「は?」
「中村に『俺の恋人です』って言ってくれたの、すごーく嬉しかった」
あ、あ、あ、あ、あ~。そういえば、俺、そんなこと言ったわ!
「あ、まあ、それは条件付きというか、伊織の為の仮想恋愛というか……」
「八雲君大好き!」
「あ、はい、どうも……」
「もう! 今日はあたしがギューしてあげる」
俺は文字通り彼女に『ギュー』された。そして今日も点滴チューブは逆流する。