第43話 じゃ、無し
お昼のLINEですっかり気を良くした単純な俺は、意気揚々と午後からの仕事をこなして定時ソッコーで帰ってきた。
いつもならまずは風呂なんだが、今日はアイさんが先だ。風呂が沸くまでの間に『笹川流れ』の次の回の下書きを読むことにした。
ワクワクしながらファイルを開く。アイさんの最新作を独り占めで読めるのは相棒だけの特権だ。ざま見ろ、って誰に言うでもなく思う自分がいる。いや、待て、特定の誰かに対して優越感を持つのも悪くない。そう、例えば……冬華さんとか。
冬華さんと夏木さんは一時期アイさんを取り合っていた。夏木さんはそのキャラから言って冗談ぽかったし、アイさんも真面目に相手をしていなかったから別にこれと言う事もないが、冬華さんは筋金入りだ。『ラムネの瓶の色』からわざわざ名前を白群に変えたくらいだ。元の名前なんか、もう思い出せない。
そして、俺の『ヨメたぬき』書籍化への厭味なほど慇懃無礼なお祝いコメント。俺がアイさんとコラボ始めてから、ずっと敵視しているのがわかる。だが、俺的には「ざまあみろ」だ。
さて、アイさんの新作だ。『お茶会デート』? そんなものはしていない。そうか、何も二人で実際やったことばかりを書かなくてもいいんだもんな。これはアイさんの完全創作か。
読んでみて、思わず笑ってしまった。知らぬ間に伊織はお茶をやっている設定になっている。俺、抹茶なんてアイスくらいしか食ったことねえよ。いつの間にお茶を点てられるようになったんだ、俺の分身は。
その伊織のお茶会に舞が招待されて出かけるという内容だ。そしてお茶会のあと、二人で花火を見に行く。これは鶴見川の花火の事が書かれている。このお茶会と花火を結んでいるのが『浴衣』というキーワード。なるほど、アイさんは二人に浴衣を着せたかったんだな。
あれ? 待てよ? お茶会って格式のあるものじゃないのか? 浴衣なんて着てっていいのか? 確か浴衣は、和服の中では一番下っ端の方の格じゃなかったか? ちょっとこれは確認した方が良さそうだな。
幸い兄貴の嫁さんは着付けの先生だ。義姉さんに訊くのが手っ取り早いだろう。
「あ、もしもし、俺、哲也だけど」
「おー、どうした?」
「義姉さん、いる?」
「ああ、いるよ、ちょっと待って。おーい、哲也から電話ー」
電話の向こうで「え? あたし?」なんて言ってるのが聞こえる。
「もしもし、哲ちゃん?」
「あーごめん、義姉さんちょっと教えて欲しいんだけど」
「ん、なあに?」
「お茶会って浴衣で行ける?」
「え? 浴衣? それは無いそれは無い。お茶会でしょ? 普通は小紋とか色無地とか、ちょっときちんとしたのなら訪問着とか?」
「夏にそういうのって暑くない?」
「夏なら絽とか紗を選べばいいのよ。真夏に濃紺の絽をピシッと着こなしてたりしたら素敵だよー」
「浴衣はありえない?」
「うーん、聞いたこと無いなー。まずお茶室入るときは白足袋履くからね、確実に。あとね、紬の着物は嫌われるよ。畳が傷むから」
「そっか、白足袋か。浴衣に足袋は履かないもんなー」
「でもお茶の方の人に聞いた方がいいと思うよ。最近はカジュアルなお茶会も結構あるみたいだから」
「わかった。そうしてみる。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「それじゃ」
「うん、またねー」
電話を切って「やっぱりな」と思う。アイさんは知らないんだろうか。
次は大学時代の友人だ。
「ほいほーい、哲也らねっかさー、どーしたんだてー?」
「な、茶道同好会入ってたよな?」
「うん、なーして?」
「お茶会って、浴衣着て行ってもいいかな?」
「はぁ? いいわけねえこってぇ。フレンチ食べに行くのに穴あきジーンズで行くわけねーろ?」
「行かんわな。んでさ、逆に、浴衣を着て行っても大丈夫なお茶会って考えられる?」
「あー、あんでぇ、そういうのも。公民館とかでやるような、市民向けのお茶会なんかはそれこそジーンズでもOKらねっかさ」
「そういうのじゃなくて、うーん、ちゃんと亭主が居てさ」
「公民館でやったって亭主は居るこてー」
「ああ、そうじゃなくて。どう言ったらいいかな」
と言いながらも、俺だってアイさんがどういうのをイメージしてるのかを正確に把握しているわけじゃないんだよな。
「じゃあ、でっけえ公園とか、神社とかでやる野点は? 茶室に入らんからにじらんし、ベンチに毛氈敷いてるだけみたいなとこにフツーに座ってお茶飲むだけらっけ。そんなら浴衣で行ってもいんだねっかさー?」
それだ!
「それ! それで行く! なあ、今なんつった? ノダテ? 何それ」
「野で点てるって書いて野点。お茶会のピクニックバージョンみたいなもんだこて。画像検索してみそ。いっぱい出て来っけ雰囲気わかんだねっか?」
「なあ、これなら亭主も浴衣アリ?」
「アリ、アリ!」
「了解、サンキュー! 今日はちょっと急いでるから、また今度な」
「はいよー」
よし、野点だ! 俺はすぐに画像検索をかけた。
緑の公園の中に赤い毛氈を敷いた長椅子。真っ赤な傘。Tシャツにジーンズ姿の女性、渋そうな顔をしている子供、杖を横に立てかけて皺くちゃの手にお茶碗を持つおじいちゃん。
これはいい、まさにこれだ。これなら浴衣でも行ける。そして二人でお茶を楽しんで、その後一緒に花火を見に行く、完璧じゃないか。
俺は大喜びでLINEを立ち上げた。
◀『お茶会デート』読みました。
◀着物には格があるのはご存知ですか? 浴衣は格で言うと下の方なんです。
◀お茶会はある程度きちんとした場なので浴衣はNGなんです。白足袋を履いて入室が基本なのです。だから普通は小紋や色無地を着ていくものです。
▷にゃ? 浴衣でお茶会はダメなの?
◀普通に考えたらアウトです。フレンチ食べに行くのに、穴あきジーンズで行くようなものらしいです。
▷むうー。じゃあお茶会辞めます。昼間の事は無しにして、夜の花火だけにします。
◀和服が着せたいなら、素材を考えれば浴衣を避けることはできます。
▷いいの。書き直すから。よくわからないのに、何となくお茶会に行かせたかっただけなの。知らない癖に書いてるってバレバレになるからやめる。
▷それより、次の下書きを書いたの。こっちも見てくれる? メールで送るから。
え……その話、もう終わりなのか?
◀はい。わかりました。
▷もう季節は秋になるの。舞と伊織も進んで行かなくちゃ。あたし、八雲君に認めて貰いたいから頑張るよ。
◀私なんかに認められようとしなくても。
▷一番身近な八雲君に認めて貰えなければ、他の人になんか認められるわけがないもん。じゃ、今から送るね。
なんで辞めてしまうんだろう、こんな簡単に。それがダメとなったらOKになるように持って行こうとはしないのか。絽や紗の着物で花火に行ってもいいし、浴衣で野点に行っても良かったのに。
俺はノートにメモした『野点』の文字をぼんやりと眺め、なんとも言えない苛立ちを覚えた。
お昼のLINEですっかり気を良くした単純な俺は、意気揚々と午後からの仕事をこなして定時ソッコーで帰ってきた。
いつもならまずは風呂なんだが、今日はアイさんが先だ。風呂が沸くまでの間に『笹川流れ』の次の回の下書きを読むことにした。
ワクワクしながらファイルを開く。アイさんの最新作を独り占めで読めるのは相棒だけの特権だ。ざま見ろ、って誰に言うでもなく思う自分がいる。いや、待て、特定の誰かに対して優越感を持つのも悪くない。そう、例えば……冬華さんとか。
冬華さんと夏木さんは一時期アイさんを取り合っていた。夏木さんはそのキャラから言って冗談ぽかったし、アイさんも真面目に相手をしていなかったから別にこれと言う事もないが、冬華さんは筋金入りだ。『ラムネの瓶の色』からわざわざ名前を白群に変えたくらいだ。元の名前なんか、もう思い出せない。
そして、俺の『ヨメたぬき』書籍化への厭味なほど慇懃無礼なお祝いコメント。俺がアイさんとコラボ始めてから、ずっと敵視しているのがわかる。だが、俺的には「ざまあみろ」だ。
さて、アイさんの新作だ。『お茶会デート』? そんなものはしていない。そうか、何も二人で実際やったことばかりを書かなくてもいいんだもんな。これはアイさんの完全創作か。
読んでみて、思わず笑ってしまった。知らぬ間に伊織はお茶をやっている設定になっている。俺、抹茶なんてアイスくらいしか食ったことねえよ。いつの間にお茶を点てられるようになったんだ、俺の分身は。
その伊織のお茶会に舞が招待されて出かけるという内容だ。そしてお茶会のあと、二人で花火を見に行く。これは鶴見川の花火の事が書かれている。このお茶会と花火を結んでいるのが『浴衣』というキーワード。なるほど、アイさんは二人に浴衣を着せたかったんだな。
あれ? 待てよ? お茶会って格式のあるものじゃないのか? 浴衣なんて着てっていいのか? 確か浴衣は、和服の中では一番下っ端の方の格じゃなかったか? ちょっとこれは確認した方が良さそうだな。
幸い兄貴の嫁さんは着付けの先生だ。義姉さんに訊くのが手っ取り早いだろう。
「あ、もしもし、俺、哲也だけど」
「おー、どうした?」
「義姉さん、いる?」
「ああ、いるよ、ちょっと待って。おーい、哲也から電話ー」
電話の向こうで「え? あたし?」なんて言ってるのが聞こえる。
「もしもし、哲ちゃん?」
「あーごめん、義姉さんちょっと教えて欲しいんだけど」
「ん、なあに?」
「お茶会って浴衣で行ける?」
「え? 浴衣? それは無いそれは無い。お茶会でしょ? 普通は小紋とか色無地とか、ちょっときちんとしたのなら訪問着とか?」
「夏にそういうのって暑くない?」
「夏なら絽とか紗を選べばいいのよ。真夏に濃紺の絽をピシッと着こなしてたりしたら素敵だよー」
「浴衣はありえない?」
「うーん、聞いたこと無いなー。まずお茶室入るときは白足袋履くからね、確実に。あとね、紬の着物は嫌われるよ。畳が傷むから」
「そっか、白足袋か。浴衣に足袋は履かないもんなー」
「でもお茶の方の人に聞いた方がいいと思うよ。最近はカジュアルなお茶会も結構あるみたいだから」
「わかった。そうしてみる。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「それじゃ」
「うん、またねー」
電話を切って「やっぱりな」と思う。アイさんは知らないんだろうか。
次は大学時代の友人だ。
「ほいほーい、哲也らねっかさー、どーしたんだてー?」
「な、茶道同好会入ってたよな?」
「うん、なーして?」
「お茶会って、浴衣着て行ってもいいかな?」
「はぁ? いいわけねえこってぇ。フレンチ食べに行くのに穴あきジーンズで行くわけねーろ?」
「行かんわな。んでさ、逆に、浴衣を着て行っても大丈夫なお茶会って考えられる?」
「あー、あんでぇ、そういうのも。公民館とかでやるような、市民向けのお茶会なんかはそれこそジーンズでもOKらねっかさ」
「そういうのじゃなくて、うーん、ちゃんと亭主が居てさ」
「公民館でやったって亭主は居るこてー」
「ああ、そうじゃなくて。どう言ったらいいかな」
と言いながらも、俺だってアイさんがどういうのをイメージしてるのかを正確に把握しているわけじゃないんだよな。
「じゃあ、でっけえ公園とか、神社とかでやる野点は? 茶室に入らんからにじらんし、ベンチに毛氈敷いてるだけみたいなとこにフツーに座ってお茶飲むだけらっけ。そんなら浴衣で行ってもいんだねっかさー?」
それだ!
「それ! それで行く! なあ、今なんつった? ノダテ? 何それ」
「野で点てるって書いて野点。お茶会のピクニックバージョンみたいなもんだこて。画像検索してみそ。いっぱい出て来っけ雰囲気わかんだねっか?」
「なあ、これなら亭主も浴衣アリ?」
「アリ、アリ!」
「了解、サンキュー! 今日はちょっと急いでるから、また今度な」
「はいよー」
よし、野点だ! 俺はすぐに画像検索をかけた。
緑の公園の中に赤い毛氈を敷いた長椅子。真っ赤な傘。Tシャツにジーンズ姿の女性、渋そうな顔をしている子供、杖を横に立てかけて皺くちゃの手にお茶碗を持つおじいちゃん。
これはいい、まさにこれだ。これなら浴衣でも行ける。そして二人でお茶を楽しんで、その後一緒に花火を見に行く、完璧じゃないか。
俺は大喜びでLINEを立ち上げた。
◀『お茶会デート』読みました。
◀着物には格があるのはご存知ですか? 浴衣は格で言うと下の方なんです。
◀お茶会はある程度きちんとした場なので浴衣はNGなんです。白足袋を履いて入室が基本なのです。だから普通は小紋や色無地を着ていくものです。
▷にゃ? 浴衣でお茶会はダメなの?
◀普通に考えたらアウトです。フレンチ食べに行くのに、穴あきジーンズで行くようなものらしいです。
▷むうー。じゃあお茶会辞めます。昼間の事は無しにして、夜の花火だけにします。
◀和服が着せたいなら、素材を考えれば浴衣を避けることはできます。
▷いいの。書き直すから。よくわからないのに、何となくお茶会に行かせたかっただけなの。知らない癖に書いてるってバレバレになるからやめる。
▷それより、次の下書きを書いたの。こっちも見てくれる? メールで送るから。
え……その話、もう終わりなのか?
◀はい。わかりました。
▷もう季節は秋になるの。舞と伊織も進んで行かなくちゃ。あたし、八雲君に認めて貰いたいから頑張るよ。
◀私なんかに認められようとしなくても。
▷一番身近な八雲君に認めて貰えなければ、他の人になんか認められるわけがないもん。じゃ、今から送るね。
なんで辞めてしまうんだろう、こんな簡単に。それがダメとなったらOKになるように持って行こうとはしないのか。絽や紗の着物で花火に行ってもいいし、浴衣で野点に行っても良かったのに。
俺はノートにメモした『野点』の文字をぼんやりと眺め、なんとも言えない苛立ちを覚えた。