第36話 降りてこないの
あれから一週間経った。おかげ横丁のキスに大後悔している俺とは裏腹に、アイさんは何事もなかったように毎日他愛もないLINEを送って来る。まあ、その方が気が楽といえばその通りなんだが。
気に病むと言えば、そこに既読は付くことがあってもなかなか彼女の元に俺からの返信が届かない事だろう。正直、今の俺はそれどころではないのだ。
編集部から『ヨメたぬき』の原稿が戻ってきた。そこにはよくわからないマークや専門用語を解説した紙が添付されており、原稿の方には鉛筆や赤ペンでいろいろ書き込まれている。
所謂『校閲』が入ったという状態らしい。漢字にルビが振ってあったり、『ヒラク』と書かれていたり、四角に斜め線の入った記号が記されていたり……とにかくわけがわからない。その上、付箋もあちこちに貼り付けてある。まずはこの専門用語解説の紙を熟読するところからスタートなのだ。
そして、俺が今そんな状態だと判っているから、アイさんも返信はしなくていいと言ってくれる。心遣いは助かるがやはり少々気にはなるので、毎日一言二言返信し、おやすみの挨拶だけして切り上げるような感じになってしまう。
そう言えばアイさんから『I my me mine』の下書きが最近送られて来ていない。俺の方は十話分くらいストックがあるから予定通り問題なくアップできるが、アイさんの方はもうストックが無いんじゃないだろうか?
少し不安になって電話してみると、やはりその予感は的中していた。
「だって八雲君、忙しそうだったし。下書き送って改稿の邪魔しちゃ悪いかなーと思って」
「私に遠慮なんかしないでください。『I my me mine』を待ってくれている読者さんを待たせちゃダメです。一人でも読者がいる限り、私たちは作家でいることを忘れちゃいけない」
「……」
あれ? どうした?
「アイさん?」
「八雲君、急に作家になっちゃったね」
「それはそうですよ。それが同人誌であろうがネットであろうが、自作品を人目につくところに発表したら、そういう自覚は持たないといけないでしょう?」
「そうじゃなくて」
何故か、俺は彼女の声に虚しさと苛立ちを聞いた気がした。
「八雲君、すっかり本物の作家になっちゃったって事。もうあたしの手の届かないところに行っちゃった」
「は? 何を言ってるんですか? 手が届かないって、コラボしてるじゃないですか」
「だけど、同じところを歩いてないよ」
「同じところを歩かなきゃ、一緒に作品なんか書けませんよ」
「でも八雲君、一人で先に行っちゃってる」
「そんなことは無いですよ」
「だって……だって」
え? まさか、泣いてるのか?
「あたしじゃ八雲君と釣り合わないもん」
「どうしたんですか、急に、何かあったんですか?」
「……やめる。コラボ、やめる」
「ちょっと待ってください」
「やだ、もう無理」
電話の向こうでアイさんがワンワン泣いているのが聞こえる。これは会って話した方が早そうだ。今からだったらまだ時間もあるし、明日は休みだ。
そう思った矢先、アイさんの小さな声がした。
「ねえ……八雲君ち、行ってもいい?」
夜十時を回った頃、俺はこの部屋に初めてアイさんを招き入れていた。
それぞれにコーヒーを飲みながら、俺はアイさんの下書きを、彼女は俺の机の上に置きっぱなしのゲラを読んでいる。
「初校……」
「はい?」
「初校って書いてある」
「そうですね。そこに直しを入れて次は再校になるんじゃないですかね」
「なんだか……作家っぽい」
俺は何とも言えない胸苦しさを感じる。
子供の頃からずっとなりたかったであろう『作家』。その道に彼女自身が招き入れた俺が、彼女を追い越して『作家』になる。彼女は俺に対して今までと違う感情を抱き始めた。それが、今週書籍用の改稿を始めてから少しずつ膨れ上がってきた違和感の正体。
「アイさん、ここ、何をメインに語りたいんですか。写真について語りたいのは分かってますけど、これ、笹川流れの日の話ですよね。岩、魚、カニ、波、空……被写体の事を書いていたかと思えば、いきなり写真家の話に飛ぶ。ロベール・ドアノー、エルンスト・ハース、奈良原一高、そしてまた中村征夫で海に戻って来て、延々と彼の写真について語ってる」
「にゃ?」
「大きく分けて三つの話が入ってるんです。自分の被写体、好きな写真家、中村征夫の写真。それが何の脈絡もなく、ただ並んでる。読んでいる方は意味が理解できません。この人は何を伝えたかったんだろうって」
アイさんが横からPCの画面を覗き込む。
「う~ん、三つとも書きたかったの。写真って言う大きな括りで一つのテーマ。ダメ?」
「却下です」
俺は一言で切り捨てた。
「それは『あたしのお気に入り』で書いてください。これは『I my me mine』です。舞と伊織の話です」
「だから一緒に海に行ってカニの写真を……」
「ではそこだけに絞ってください。ドアノーは伊織に関係ない」
アイさんの声のトーンが急に低くなる。
「そしたら、書くことない」
案の定、唇を尖らせてる。『いじけてますアピール』だ。
「その為にデートしたんじゃないですか。いくらでもあるでしょう」
「言葉が降りてこないの」
「は?」
何を言い出すんだ?
「あの、新興宗教か何かですか?」
「違うもん! 今、八雲君あたしのこと凄いバカにしたでしょ!」
「現実逃避はやめてください。言葉が降りて来るってなんですか。どこから降りて来るんですか。降りて来るまで待ってるんですか。ずっと降りて来なかったらずっと書けないんですか。それ、逃げてるだけじゃないですか」
「だって書けないんだもん!」
「それを書くのが作家でしょう?」
「あたしは作家じゃないもん、八雲君みたいに出版社から声かけられてないもん、こうやって逃げてばっかりいるから声がかからないんだもん!」
やっぱりそこか。
「あたしはダメな子だからもういいの、八雲君みたいに二千字すぐ書ける人じゃないの、五百文字書くのも必死なの、八雲君のバカ! 八雲君なんか大嫌い!」
いきなりアイさんが立ち上がって出て行こうとする。俺は咄嗟に彼女の手首を摑んだ。
「放してよ!」
「もう終電ありませんよ」
「ふにゅー」
諦めが早いっつーか何つーか、これでぺたんと座り込んじゃうところがまたアイさんなんだが。
俺は仕方ないので、極力優しい声を出して言ってみた。
「アイさん、作家になりたかったんでしょう? どうして自分を『ダメな子』なんて言うんですか。自分でそうやって暗示かけたらその通りになっちゃいますよ。もっと自信を持ってください。もう二十年近く作家を目指して書いてたんでしょう?」
「だって、二十年やっても全然ダメだもん。なのに八雲君は初めて書いたものがすぐに拾い上げられちゃってる。もう全然、力の差があるんだもん」
「無いですよ、そんなもん。偶々レーベルの需要と合っただけです。運ですよ」
「だって……」
「『だって』禁止。言い訳しちゃダメです。『ヨメたぬき』が書籍化したら『I my me mine』も本にするって、アイさんが言ったんですよ?」
「……そうだった」
アイさんがシュンとしたのを見た俺は、彼女の頭を軽く撫でてキッチンへ向かった。
「ホットケーキなら作れますけど」
「にゃっ! 食べる!」
……こんなところもアイさんだ。
あれから一週間経った。おかげ横丁のキスに大後悔している俺とは裏腹に、アイさんは何事もなかったように毎日他愛もないLINEを送って来る。まあ、その方が気が楽といえばその通りなんだが。
気に病むと言えば、そこに既読は付くことがあってもなかなか彼女の元に俺からの返信が届かない事だろう。正直、今の俺はそれどころではないのだ。
編集部から『ヨメたぬき』の原稿が戻ってきた。そこにはよくわからないマークや専門用語を解説した紙が添付されており、原稿の方には鉛筆や赤ペンでいろいろ書き込まれている。
所謂『校閲』が入ったという状態らしい。漢字にルビが振ってあったり、『ヒラク』と書かれていたり、四角に斜め線の入った記号が記されていたり……とにかくわけがわからない。その上、付箋もあちこちに貼り付けてある。まずはこの専門用語解説の紙を熟読するところからスタートなのだ。
そして、俺が今そんな状態だと判っているから、アイさんも返信はしなくていいと言ってくれる。心遣いは助かるがやはり少々気にはなるので、毎日一言二言返信し、おやすみの挨拶だけして切り上げるような感じになってしまう。
そう言えばアイさんから『I my me mine』の下書きが最近送られて来ていない。俺の方は十話分くらいストックがあるから予定通り問題なくアップできるが、アイさんの方はもうストックが無いんじゃないだろうか?
少し不安になって電話してみると、やはりその予感は的中していた。
「だって八雲君、忙しそうだったし。下書き送って改稿の邪魔しちゃ悪いかなーと思って」
「私に遠慮なんかしないでください。『I my me mine』を待ってくれている読者さんを待たせちゃダメです。一人でも読者がいる限り、私たちは作家でいることを忘れちゃいけない」
「……」
あれ? どうした?
「アイさん?」
「八雲君、急に作家になっちゃったね」
「それはそうですよ。それが同人誌であろうがネットであろうが、自作品を人目につくところに発表したら、そういう自覚は持たないといけないでしょう?」
「そうじゃなくて」
何故か、俺は彼女の声に虚しさと苛立ちを聞いた気がした。
「八雲君、すっかり本物の作家になっちゃったって事。もうあたしの手の届かないところに行っちゃった」
「は? 何を言ってるんですか? 手が届かないって、コラボしてるじゃないですか」
「だけど、同じところを歩いてないよ」
「同じところを歩かなきゃ、一緒に作品なんか書けませんよ」
「でも八雲君、一人で先に行っちゃってる」
「そんなことは無いですよ」
「だって……だって」
え? まさか、泣いてるのか?
「あたしじゃ八雲君と釣り合わないもん」
「どうしたんですか、急に、何かあったんですか?」
「……やめる。コラボ、やめる」
「ちょっと待ってください」
「やだ、もう無理」
電話の向こうでアイさんがワンワン泣いているのが聞こえる。これは会って話した方が早そうだ。今からだったらまだ時間もあるし、明日は休みだ。
そう思った矢先、アイさんの小さな声がした。
「ねえ……八雲君ち、行ってもいい?」
夜十時を回った頃、俺はこの部屋に初めてアイさんを招き入れていた。
それぞれにコーヒーを飲みながら、俺はアイさんの下書きを、彼女は俺の机の上に置きっぱなしのゲラを読んでいる。
「初校……」
「はい?」
「初校って書いてある」
「そうですね。そこに直しを入れて次は再校になるんじゃないですかね」
「なんだか……作家っぽい」
俺は何とも言えない胸苦しさを感じる。
子供の頃からずっとなりたかったであろう『作家』。その道に彼女自身が招き入れた俺が、彼女を追い越して『作家』になる。彼女は俺に対して今までと違う感情を抱き始めた。それが、今週書籍用の改稿を始めてから少しずつ膨れ上がってきた違和感の正体。
「アイさん、ここ、何をメインに語りたいんですか。写真について語りたいのは分かってますけど、これ、笹川流れの日の話ですよね。岩、魚、カニ、波、空……被写体の事を書いていたかと思えば、いきなり写真家の話に飛ぶ。ロベール・ドアノー、エルンスト・ハース、奈良原一高、そしてまた中村征夫で海に戻って来て、延々と彼の写真について語ってる」
「にゃ?」
「大きく分けて三つの話が入ってるんです。自分の被写体、好きな写真家、中村征夫の写真。それが何の脈絡もなく、ただ並んでる。読んでいる方は意味が理解できません。この人は何を伝えたかったんだろうって」
アイさんが横からPCの画面を覗き込む。
「う~ん、三つとも書きたかったの。写真って言う大きな括りで一つのテーマ。ダメ?」
「却下です」
俺は一言で切り捨てた。
「それは『あたしのお気に入り』で書いてください。これは『I my me mine』です。舞と伊織の話です」
「だから一緒に海に行ってカニの写真を……」
「ではそこだけに絞ってください。ドアノーは伊織に関係ない」
アイさんの声のトーンが急に低くなる。
「そしたら、書くことない」
案の定、唇を尖らせてる。『いじけてますアピール』だ。
「その為にデートしたんじゃないですか。いくらでもあるでしょう」
「言葉が降りてこないの」
「は?」
何を言い出すんだ?
「あの、新興宗教か何かですか?」
「違うもん! 今、八雲君あたしのこと凄いバカにしたでしょ!」
「現実逃避はやめてください。言葉が降りて来るってなんですか。どこから降りて来るんですか。降りて来るまで待ってるんですか。ずっと降りて来なかったらずっと書けないんですか。それ、逃げてるだけじゃないですか」
「だって書けないんだもん!」
「それを書くのが作家でしょう?」
「あたしは作家じゃないもん、八雲君みたいに出版社から声かけられてないもん、こうやって逃げてばっかりいるから声がかからないんだもん!」
やっぱりそこか。
「あたしはダメな子だからもういいの、八雲君みたいに二千字すぐ書ける人じゃないの、五百文字書くのも必死なの、八雲君のバカ! 八雲君なんか大嫌い!」
いきなりアイさんが立ち上がって出て行こうとする。俺は咄嗟に彼女の手首を摑んだ。
「放してよ!」
「もう終電ありませんよ」
「ふにゅー」
諦めが早いっつーか何つーか、これでぺたんと座り込んじゃうところがまたアイさんなんだが。
俺は仕方ないので、極力優しい声を出して言ってみた。
「アイさん、作家になりたかったんでしょう? どうして自分を『ダメな子』なんて言うんですか。自分でそうやって暗示かけたらその通りになっちゃいますよ。もっと自信を持ってください。もう二十年近く作家を目指して書いてたんでしょう?」
「だって、二十年やっても全然ダメだもん。なのに八雲君は初めて書いたものがすぐに拾い上げられちゃってる。もう全然、力の差があるんだもん」
「無いですよ、そんなもん。偶々レーベルの需要と合っただけです。運ですよ」
「だって……」
「『だって』禁止。言い訳しちゃダメです。『ヨメたぬき』が書籍化したら『I my me mine』も本にするって、アイさんが言ったんですよ?」
「……そうだった」
アイさんがシュンとしたのを見た俺は、彼女の頭を軽く撫でてキッチンへ向かった。
「ホットケーキなら作れますけど」
「にゃっ! 食べる!」
……こんなところもアイさんだ。