《始祖の魔王》、イネス・ルシファー。
 遥か1000年前、魔族領域(ダレス)と世界を恐怖で支配した、伝説の魔王の名だ。

 ドクン。

 空気が、脈動した。
 
 ドクン、ドクン。

 世界が、脈動した。

 ジャッジ・フェニックスは目の当たりにしていた。

「なんだ、それ(・・)は――」

 ――魔王を超えた、その存在を。

○○○

『まるで神ではないか、あれは』

 半目を開いたニーズヘッグは、落ち着いた声音で呟いた。
 巨大化した古龍の隣に、へたり込むように座るローグも、疲れ切った様子で息を吐いた。

「封魔の間に溜め込み続けていた魔力を全部戻したんだから、当然と言えば当然だ」

 二人の目線の先にいるイネスの姿は、普段の戦闘モードを遥かに超越している存在だった。

 側頭から現れていた白銀の双角は、彼女の魔力色である真紅(しんく)に染まっていた。
 三対の黒翼は、羽根元から徐々に赤みを帯びていき、瞳や双角と同色に染められた。
 濃密すぎるオーラは、「バチ……ッバチッ!!」と、真紅の電流となってイネスの周囲を迸る。

 コツ、コツと。

 イネスは、ジャッジに向けてゆっくりと足を踏み出していく。

「……!! だ、代理命令だ、《不死の軍勢》――ッ!!」

「ンヴァフッ!!」「コッ!!」

 ジャッジの指示で地中から姿を現した軍勢たち。
 それら全ては、漆黒のオーラを瞳に宿していた。
 狂魔化現象により、魔獣として使役されているそれらは通常個体の力を遥かに凌ぐ。
 素早さと筋力、そして魔力が増大するその軍勢は、先ほど魔力障壁に閉じ込められていたイネスを圧倒していた者達の姿だった。

 意志と恐怖無く突っ込んでいったゾンビの一派は、大きく口を広げてイネスの肩に目線を合わせた。

破滅魔法(・・・・)

 ぽつりと、イネスは呟く。
 赤黒い魔力がその手の平に収束していき、六枚の翼が紅に光輝いた。
 牙を突き立てようとしていたゾンビに、イネスは魔力を込めて触れただけだった。

「ンヴァァァ……ァ……?」

 破裂することもなく、吹き飛ばされることも無く、そのゾンビは赤黒いオーラに包まれて消えていった(・・・・・・)

「なっ、破滅……だと!? そんなもの、聞いたことが……!?」

 絶句するしかないジャッジは、一歩後ずさりをした。
 突っ込ませていったゾンビ・スケルトンは、イネスが軽く手を触れただけで次々と消滅していくのだ。
 それに、不死の軍勢たる所以である黒い粒子の存在も確認出来ない。

 不死の軍勢は、その名の通り死なないからこそ価値がある。
 例えいくら四肢が欠損しようが、彼らが痛みや恐怖を感じることはない。
 一度再起不能になったとて、魔法力を注ぎ込みさえすれば使い回すことが出来る。
 再起不能のダメージを負った場合、黒い粒子を発して一度別の空間に飛ばされる。
 そこで術者が再び魔法力を注ぐと、軍勢は再起することが出来る――が。

 ローグは、イネスのその様子を見て呟いた。

「奴等の存在そのものを消滅させてる……のか?」

 イネスに突貫しては姿を消していくその様子に、ニーズヘッグも小さく震えた。

『く、くはははは……。破壊ではなく、破滅(・・)か。まさしくそれは、神の領域ではないか……』

「原点にして、頂点。《始祖の魔王》ってより、あれは言うなら《真祖の大魔王》ってとこだな」

 殺戮とも、斬殺とも異なる別種の蹂躙劇。
 わなわなと震えるジャッジは、魔力を爆発させた。

「ふ、ふざ……けるなぁッ!!」

 ジャッジは、下唇を強く噛んで魔力を全身に充填させた。

「1000年、1000年間だ。俺は何度も《焔返り》を繰り返した! 常に魔族としての最良を選んできた!! 魔族の繁栄を願ってきた!!」

 イネス政権が崩壊し、ジャッジが魔族を統べるようになった。

「全ては魔族のために。魔族こそが崇高なる世界の支配者なのだと、知らしめるために――!!」 

 ジャッジが魔王になってから、魔族領域(ダレス)は領土拡大に成功した。
 世代を挟んで、文字通り世界を征服するまでに至っていた。

 ジャッジは翼と化した両腕を大きく振った。

「不死鳥魔法、不滅の翼剣(フェルミ)!!」

 燃える刀身と化した右腕は、大上段からイネスに降りかかる。
 紅のオーラを目に宿すイネスは目つき鋭く真っ向から立ち向かった。

「破滅魔法、破滅の鉄槌(ガストロ)

 ドパンッ!!

 イネスが背後に顕現させた鉄槌を振り下ろすと、鈍い音と共にジャッジの右腕より先が消滅する。
 すぐさまフェニックスの能力を駆使させるも、その《再生》速度は遥かに遅い。

魔族領域(ダレス)を拡大させたとて、いつかは手痛いしっぺ返しを喰らいます。魔族の領域拡大は、他者の犠牲の上に成り立ちすぎていますから」

 ぴしゃりと言い放ったイネスは、ジャッジの胸に鋭い蹴りを打ち付けた。

「――貴様も魔族であるはずならば、魔族の栄光が第一だろうが! 他の人類圏のことなど、魔族の繁栄の足がかりに過ぎん!!」

 完全回復したその右腕を振り払い、ジャッジは拳を握りしめた。
 不死鳥のごとき紫炎を上げて狙いを定めるその拳に、イネスは小さく微笑んだ。

「では、これからも人類を支配するべく動く、と。そういった認識でよろしいのですね?」

「当たり前だ。この大陸は、いやこの世界は、我々力のある魔族が――!!?」

 そう言うジャッジの右腕は、完全に破滅した。
 イネスの放った赤黒い魔力の塊がジャッジの腕に接触した瞬間、質量を感じないかのように消えた右腕に、ジャッジは目を疑った。

「ならばジャッジ・フェニックス。あなたは紛うこと無く私の敵です」

「クソ身勝手な魔族の恥さらしめ……! 再生しろ……!! なぜ、再生が起こらぬ……!!」

 ジャッジの肩口からは、止めどなく鮮血が流れていた。
 いくら腕を裂かれようが、いくら足が()がれようが、彼の身体はすぐに紫炎と共に再生してきた。
 イネスの覚醒した《破滅》の力が、《再生》の力を遥かに上回っていたのだ。

「あなたを野放しにすれば、人類が滅びてしまうというならば。私は全身全霊でそれを阻止しましょう。『全世界の人間達と友達になる』という我が主の強大な野望を達成するために。あなたのような邪魔者を、私が排除して行くことが配下の務めです」

「配下だと!! 腐っても魔王が、たかだか人間の小僧の配下であることを選ぶというのか――ッ!!」

 ジャッジは、持てる全ての力をその両翼に集約させた。
 羽根元が紫に光り輝き、数百もの羽根矢(ゴゥン)が現れた。
 空気が焼け、湯気が立ち込める。

「灼き尽くせェェェッ!!!」

 数百もの火矢がイネスに襲いかかる。

「破滅魔法――破滅の連矢(アンリ・マンユ)

 イネスも、負けじと紅翼から矢を顕現させる。
 ジャッジの炎矢はことごとく全て撃ち落とされ、イネスの背後には、破滅のオーラを漂わせる矢が数十本残っていた。
 ふふ、と。小さく笑みを浮かべるイネスは、疲れ切って倒れている同僚と主を一目見た。

「残念ながら、今の私は魔族という立場よりも、あの素晴らしいお方をお支えする方が楽しいようですので」

 力を無くしたジャッジは、失った右腕を後悔するように見つめた。
 もはや両腕に発火した残り火さえも、勢いを無くして灯火が消えかける。
 逆立っていた紫髪は、色褪せ、くすんでいた。
 復活したてとは思えないほどに、疲弊し老け込んだ表情でジャッジ・フェニックスは呟いた。

「焔返りは、無限だ……! 必ずや復活し、必ずや魔族を再興させる――!!」

「あなたはいない方が、世界は平和です」

「……《真祖の大魔王》、貴様にお似合いだ。世界一理不尽で、誰よりも身勝手な貴様にぴったりじゃないか」

「それが、魔王です」

 イネスは手の平に、破滅の魔力を練り込んだ。

「――ですが今は魔王である前に、ローグ様の忠実なる配下。イネス・ルシファーですから」

 イネスの一言と共に、破滅の魔力は爆発四散した。

 彼女の目の前にいた、一人の大男と共に。
 何もなくなった虚空から、《再生》の炎はついぞ現れることは無かったのだった――。