「クラリス姉……?」
迫り来る一団を一瞬で吹き飛ばしたのはティアリスの姉、クラリス・マーロゥ。
《狂狼化》も色濃く、その両爪には幾つもの肉片がこびり付いている。
頬も血飛沫と汗で入り交じり、クラリスが吐く息は白い。
よほど急いで駆けつけてきたのか、肩からは白い湯気が立ち込めており、身体の至る箇所に木片や葉っぱが付着していた。
「ティア、皆と『巨木』に隠れてろって言ったじゃねェか……!」
近寄っていた軍勢を一気に蹴散らしたクラリスは、恨むように樹上を見上げた。
「どういうこった親衛隊、それにドリス爺! 何でティアがこんなに戦ってる。こんなに傷ついてる!! まさかテメェら、ウチの妹がめちゃくちゃ強い才能あるからってわざわざ戦わせたりしたんじゃねェだろうなぁ!」
ギンッと、殺気混じりの瞳で睨み付けるクラリスに、親衛隊は「お、お頭、違います! 違いますから!」と焦るように弁解する。
「むしろ、俺たちの言うことを聞いてくれなかったのはティアリスなんです! 隠れてろってのに、ここで勝手に《狂狼化》して飛び出してって……!」
親衛隊の一人の言葉に、クラリスは「チッ」と小さく舌を打った。
「馬鹿言え。《狂狼化》は怒りが発動のファクターだ。幼いティアをここまで怒らせるなんて、姉のアタシが許せるわけねェだろうが……」
誰にも聞こえない程度の小声で呟くクラリス。
ティアリスは、こと戦闘においても天賦の才がある。それは、姉のクラリスから見ても明白だった。
だからこそ、こんな下らない魔族との小競り合いなどには付き合わせたくなかった。
クラリスは全獣人族の長として、全ての獣人の命を預かっている。
人魔大戦終結後の領土再分配の会議にて、魔族に奪われていた領土の内、隣接しているシャリス・マーロゥ墓地付近は世界七賢人の連合で治める案もあった。
だが獣人族古来の地であり、巨木に次いで第二の聖地とも言われる「シャリス・マーロゥ墓地」を獣人族で管轄するとして、それらの提案を固辞したのは他ならぬクラリス本人だった。
それはすなわち全獣人族の命を、危険極まりない魔族の隣に据えるということでもあったのだが――。
「アタシが決断したからには、アタシがケリ付けなきゃなんねェ。部族に、ティアにまでそれを強いるなんてのはまっぴらごめんだ……ッ!!」
ぐっと小さく拳を握りしめたクラリスの手の平には、血が滲んでいた。
立ち直るようにして顔を上げたクラリスは、ティアリスの肩に手を置いた。
「だからティア。もういい、アンタはこれ以上その力使うんじゃねェ。それは諸刃の剣にも程があんだ」
苦笑いを浮かべながら言うクラリス。
「身体に、悪いの?」
「あぁ。一歩間違えれば自我さえも崩壊して、獣へと逆行退化しちまう。それが《狂狼化》ってやつなんだ。もうティアが傷付くのを見るのはまっぴらごめんだ。ここからはアタシの仕事だ。さっさと皆んトコ戻んな」
しっしっと、手ではね除けるようにしてクラリスは小さく息を吐いた。
両腕の鋭い黒爪はまだまだ健在だ。だが、継続的な肉体強化魔法と《狂狼化》の代償は感じて取れる。本来洗練されているクラリスの魔法が、徐々に荒々しさを有するようになっているのだ。
それに加え、瘴気の体表侵蝕も広がっている。
首元にあった黒い斑点は、腕や脚にも見られた。
強がっているものの、クラリスの身体は確実に悲鳴を上げていた。
「クラリス姉は、ティアに傷付いて欲しくない……」
ティアリスの《狂狼化》が解け、クラリスはほっと胸をなで下ろした。
「そうだ。もうティアが傷つく必要はねェ。アタシが来たからな。アンタを傷付ける奴は死ぬまで後悔させてやる。死んで地獄に堕としてやる。だから待ってろ、まずはコイツらを地獄に叩き落と――ッ!?」
あからさまな怒りを顔に浮かべるクラリスに、ティアリスはふいに近付いた。
パシンッ。
「ティアが傷付かなくなっても、クラリス姉は傷付いたままなの」
ティアリスが、クラリスの頬を小気味良く叩いた。
「……ぁ?」
「クラリス姉は、やっぱりお馬鹿さんなの」
クラリスは、叩かれた頬に手をやった。
「どうして、クラリス姉はドリス爺を――ティアたちを、『聖のゆりかご』に閉じ込め続けたの?」
「そ、それは――、その……何だ……」
「ティアたちは、こんな化け物の存在、少しも知らなかったの。聖のゆりかごにティアやドリス爺を閉じ込めてたのだって、夜に出てくる化け物たちからティアたちを守るためだなんて、これっぽっちも知らなかったの!」
――姉のクラリスが、力業でティア達の部族まとめて乗っ取ろうとしてるの!
あの日、ティアリスはクラリスたちの監視の目を抜けてサルディア皇国に向かった。
クラリスは、流行り病に右腕を侵蝕されて族長を続けることが出来なくなったドリスからその地位を受け継ぐと、すぐに『聖のゆりかご』に獣人族の皆を幽閉、厳しい獣約規範を制定し、皆の生活を締め付けた。
身体に黒い斑点が出来る奇病が聖地林内に蔓延していたが、一時的にクラリスが頭領になってきてからは鳴りを潜めていた。
だが、その根本的な原因はついぞ誰も突き止めることは出来なかった――はずだった。
ティアリスは、自身の右腕に現れた黒い斑点と、クラリスの身体に伸びる黒い触手状の痣を見比べる。
「クラリス姉は、すごく傷付いてるの。たった一人で、ずっとずっと傷付いてるの」
ぽす、ぽすと。小さく握った拳がクラリスの身体に突き刺さる。
――お願いなの! 暴走してるクラリス姉を止めるのに、力貸してくれない!?
「何が、姉の暴走、何がマーロゥの危機。ティアたちは、クラリス姉がずっと守ってきてくれたのを、知らなかっただけなの……」
ローグたちを連れて聖地林に帰って来たとき、クラリスは本気で怒っていた。獣約規範、聖のゆりかご、そんな口上をして皆を守るべく、嫌われ者を演じていたに過ぎなかったのに。
「ローグの旦那のトコにもいるの。クラリス姉と、同じようなお馬鹿さんが――!」
何も言えずにいるクラリス。
その隙に、すかさず《狂狼化》を施した。
ずずずと、ティアリスの身体に浮かんだ黒い斑点が、触手状の痣へと変化していく。
だが、それとは裏腹に『巨木』上空にまで伸びていた黒い粒子を持った空気は、徐々に彼らから離れていく。
聖地林上空から、とある一点へ。
黒い粒子が退いていくのを見て、クラリスは驚いたようにティアリスを見た。
「な、何が……起こってる……。ティア、アンタ、何を知ってる……!?」
ティアリスは、内なる獣の存在を理性で押し込める。
「これは、ローグの旦那とティアからのメッセージなの!!」
黒い粒子が吸収される方角を見て、八重歯の光るティアリスは全力で笑みを浮かべたのだった。
迫り来る一団を一瞬で吹き飛ばしたのはティアリスの姉、クラリス・マーロゥ。
《狂狼化》も色濃く、その両爪には幾つもの肉片がこびり付いている。
頬も血飛沫と汗で入り交じり、クラリスが吐く息は白い。
よほど急いで駆けつけてきたのか、肩からは白い湯気が立ち込めており、身体の至る箇所に木片や葉っぱが付着していた。
「ティア、皆と『巨木』に隠れてろって言ったじゃねェか……!」
近寄っていた軍勢を一気に蹴散らしたクラリスは、恨むように樹上を見上げた。
「どういうこった親衛隊、それにドリス爺! 何でティアがこんなに戦ってる。こんなに傷ついてる!! まさかテメェら、ウチの妹がめちゃくちゃ強い才能あるからってわざわざ戦わせたりしたんじゃねェだろうなぁ!」
ギンッと、殺気混じりの瞳で睨み付けるクラリスに、親衛隊は「お、お頭、違います! 違いますから!」と焦るように弁解する。
「むしろ、俺たちの言うことを聞いてくれなかったのはティアリスなんです! 隠れてろってのに、ここで勝手に《狂狼化》して飛び出してって……!」
親衛隊の一人の言葉に、クラリスは「チッ」と小さく舌を打った。
「馬鹿言え。《狂狼化》は怒りが発動のファクターだ。幼いティアをここまで怒らせるなんて、姉のアタシが許せるわけねェだろうが……」
誰にも聞こえない程度の小声で呟くクラリス。
ティアリスは、こと戦闘においても天賦の才がある。それは、姉のクラリスから見ても明白だった。
だからこそ、こんな下らない魔族との小競り合いなどには付き合わせたくなかった。
クラリスは全獣人族の長として、全ての獣人の命を預かっている。
人魔大戦終結後の領土再分配の会議にて、魔族に奪われていた領土の内、隣接しているシャリス・マーロゥ墓地付近は世界七賢人の連合で治める案もあった。
だが獣人族古来の地であり、巨木に次いで第二の聖地とも言われる「シャリス・マーロゥ墓地」を獣人族で管轄するとして、それらの提案を固辞したのは他ならぬクラリス本人だった。
それはすなわち全獣人族の命を、危険極まりない魔族の隣に据えるということでもあったのだが――。
「アタシが決断したからには、アタシがケリ付けなきゃなんねェ。部族に、ティアにまでそれを強いるなんてのはまっぴらごめんだ……ッ!!」
ぐっと小さく拳を握りしめたクラリスの手の平には、血が滲んでいた。
立ち直るようにして顔を上げたクラリスは、ティアリスの肩に手を置いた。
「だからティア。もういい、アンタはこれ以上その力使うんじゃねェ。それは諸刃の剣にも程があんだ」
苦笑いを浮かべながら言うクラリス。
「身体に、悪いの?」
「あぁ。一歩間違えれば自我さえも崩壊して、獣へと逆行退化しちまう。それが《狂狼化》ってやつなんだ。もうティアが傷付くのを見るのはまっぴらごめんだ。ここからはアタシの仕事だ。さっさと皆んトコ戻んな」
しっしっと、手ではね除けるようにしてクラリスは小さく息を吐いた。
両腕の鋭い黒爪はまだまだ健在だ。だが、継続的な肉体強化魔法と《狂狼化》の代償は感じて取れる。本来洗練されているクラリスの魔法が、徐々に荒々しさを有するようになっているのだ。
それに加え、瘴気の体表侵蝕も広がっている。
首元にあった黒い斑点は、腕や脚にも見られた。
強がっているものの、クラリスの身体は確実に悲鳴を上げていた。
「クラリス姉は、ティアに傷付いて欲しくない……」
ティアリスの《狂狼化》が解け、クラリスはほっと胸をなで下ろした。
「そうだ。もうティアが傷つく必要はねェ。アタシが来たからな。アンタを傷付ける奴は死ぬまで後悔させてやる。死んで地獄に堕としてやる。だから待ってろ、まずはコイツらを地獄に叩き落と――ッ!?」
あからさまな怒りを顔に浮かべるクラリスに、ティアリスはふいに近付いた。
パシンッ。
「ティアが傷付かなくなっても、クラリス姉は傷付いたままなの」
ティアリスが、クラリスの頬を小気味良く叩いた。
「……ぁ?」
「クラリス姉は、やっぱりお馬鹿さんなの」
クラリスは、叩かれた頬に手をやった。
「どうして、クラリス姉はドリス爺を――ティアたちを、『聖のゆりかご』に閉じ込め続けたの?」
「そ、それは――、その……何だ……」
「ティアたちは、こんな化け物の存在、少しも知らなかったの。聖のゆりかごにティアやドリス爺を閉じ込めてたのだって、夜に出てくる化け物たちからティアたちを守るためだなんて、これっぽっちも知らなかったの!」
――姉のクラリスが、力業でティア達の部族まとめて乗っ取ろうとしてるの!
あの日、ティアリスはクラリスたちの監視の目を抜けてサルディア皇国に向かった。
クラリスは、流行り病に右腕を侵蝕されて族長を続けることが出来なくなったドリスからその地位を受け継ぐと、すぐに『聖のゆりかご』に獣人族の皆を幽閉、厳しい獣約規範を制定し、皆の生活を締め付けた。
身体に黒い斑点が出来る奇病が聖地林内に蔓延していたが、一時的にクラリスが頭領になってきてからは鳴りを潜めていた。
だが、その根本的な原因はついぞ誰も突き止めることは出来なかった――はずだった。
ティアリスは、自身の右腕に現れた黒い斑点と、クラリスの身体に伸びる黒い触手状の痣を見比べる。
「クラリス姉は、すごく傷付いてるの。たった一人で、ずっとずっと傷付いてるの」
ぽす、ぽすと。小さく握った拳がクラリスの身体に突き刺さる。
――お願いなの! 暴走してるクラリス姉を止めるのに、力貸してくれない!?
「何が、姉の暴走、何がマーロゥの危機。ティアたちは、クラリス姉がずっと守ってきてくれたのを、知らなかっただけなの……」
ローグたちを連れて聖地林に帰って来たとき、クラリスは本気で怒っていた。獣約規範、聖のゆりかご、そんな口上をして皆を守るべく、嫌われ者を演じていたに過ぎなかったのに。
「ローグの旦那のトコにもいるの。クラリス姉と、同じようなお馬鹿さんが――!」
何も言えずにいるクラリス。
その隙に、すかさず《狂狼化》を施した。
ずずずと、ティアリスの身体に浮かんだ黒い斑点が、触手状の痣へと変化していく。
だが、それとは裏腹に『巨木』上空にまで伸びていた黒い粒子を持った空気は、徐々に彼らから離れていく。
聖地林上空から、とある一点へ。
黒い粒子が退いていくのを見て、クラリスは驚いたようにティアリスを見た。
「な、何が……起こってる……。ティア、アンタ、何を知ってる……!?」
ティアリスは、内なる獣の存在を理性で押し込める。
「これは、ローグの旦那とティアからのメッセージなの!!」
黒い粒子が吸収される方角を見て、八重歯の光るティアリスは全力で笑みを浮かべたのだった。