聖地林(リートル)の根幹を支えてきた土地には、ある一本の巨木が存在する。
 見上げれば、天まで届くかのような大きさ。コケを纏った太い幹や、土地に力強くおろされ隆起した根は、生命力の象徴だ。
 いついかなる時でもその若々しい緑葉は枯れることがなく、枝葉の一枚に至るまで生に満ちあふれている。
 樹齢一万年超。世界創成の時代からこの地に根を張っているとも言われる、獣人族の聖地――通称『巨木』の前には、不気味な一団が禍々しい力を放っていた。

「うらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

「ゴキ――ッ!?」

「まだまだ、なのぉぉぉぉぉ!!」

「ンヴァフッ……」

 巨木の前に現れた不死の軍勢に、真っ向から突っ込んでいく少女が一人。
 姉譲りの強気な心で未熟な《狂狼化》を施し、全身の毛並みは逆立っていた。
 ふんわりとしていた獣耳と尻尾は、細くまとまりスピードを追求した形に変化し、八重歯が獲物を確実に捕らえるための犬歯のように、太くなる。
 両腕からは黒く鋭い爪が立ち上がり、既に片方にはゾンビの首が捕まれていた。

「あ、あいつ、いつの間に《狂狼化》なんて出来るようになってたんだ……?」
「数世代ぶりに《狂狼化》出来たお頭だって、発現するようになったのは二年前だったろ……!」
「んなこと言ってる場合かよ! はやく誰かあいつを――ティアリスを止めないと、お頭にも雷喰らうぞ!!」
「だけど、あんな殺気の塊みたいなとこに突っ込めねぇよ! あれは、見境の無い殺気だ!」

 『巨木』には、地上十メートル付近の幹にぽっかりと空いた穴が存在した。
 幹周おおよそ50メートルの一部は、獣人族幹部の会議室。
 普段は、クラリスが指揮系統の中心としているその会議室には、マーロゥ率いる獣人族が500人超、避難の場所となっている。

「コォッ!!」

 スケルトンの長槍を、軽やかに避けたティアリスは、小さな身体をくるりと回してそのまま首元を蹴り落とす。
 その肩を踏み台にして、目の前のゾンビの胴体を、勢い任せに黒い爪で?き斬った。

「ふしゅー……。ふしゅー……。ふしゅー……」

 爪の先から腐肉をだらんと吊り下げながら、肩で息をするティアリス。
 あまりに凶暴的で全方位にまき散らされている殺気に、不死の軍勢さえもその歩みが遅れていた。

 樹上に逃げた獣人族のほとんどは、下で行われているティアリスの乱舞に手出しさえ出来ずにいる。
 動く者全てを屠らんとするその姿は、まさしくケダモノ(・・・・)そのものだ。

 はらり、と。
 洞穴の近くで、樹木下の様子を見守っている獣人族たちの前に、一枚の葉が舞い落ちる。

「おいおい、『巨木』の葉が、落ちてる……!?」
「空見てみろよ。あれが、頭領の言ってた悪魔の空気って奴じゃ無いのかよ」
「こ、ここは巨木の精霊様が神聖な空気で守ってくれているんだ。きっと、きっと今回こそ――」

 そう言う獣人族の男達を尻目に、一番心配そうなドリスがティアリスを見つめた。

「《狂狼化》は、諸刃の剣ぞ。我等が本能を極限にまで研ぎ澄まし、ある種肉体を意図的に退化させる肉体強化の魔法術。頭領こそ綿密な魔法コントロールと本人の努力で何とか扱っているものを、ティアリスは才能と怒りで暴走させておるまで。このままだと奴は、帰ってこられんやもしれん」

「ど、ドリス様、そんな悠長な事言ってる場合じゃ――って……!?」

 男は、ドリスの身体を見て小さな悲鳴を上げていた。
 瘴気やられで真っ黒に荒んでいたドリスの左腕の斑点は、黒い触手となって、老体をうねうねと動き始めているのだ。

「あの黒い空気は、どこまで行っても逃げられん。押さえ込んでいた魔族の襲撃に、『巨木』の崩壊。北の大地は再び魔族の手に落ちる。その折に、貴重なマーロゥの後継者を失うわけにはいかんじゃろうて」

 それは、閉ざされ掛けていた長年の獣人族にとっての苦しみの歴史だった。
 つい数年前までは、聖地林(リートル)の領地も今の半分ほどだった。
 獣人族の絶対的な先祖、シャリス・マーロゥの墓地さえも、魔族領域(ダレス)の支配下にあった。
 生まれてから数十年、聖地林(リートル)の端でひっそりと、魔族の影に怯えて暮らし続けていた。


「頭領代理として命ずる。巨木を捨て、東へ行くのじゃ。付いて来たい者は付いて良し。巨木と命運を共にしたい者は残るも良し。すまぬが、ワシはマーロゥの後継者として姉妹と共に逃げ伸びるぞ。彼女らの血だけは、絶やしてはならん」

 獣人族の長として、部族の者には長い間不遇を強いてきた。
 それが覆されたのが、世界七賢人が現れてからだった。
 現頭領、クラリス・マーロゥも属した世界七賢人は、数百年かけて勃興し始めていた魔族を制圧し、北の大地を平定した。

 獣人族の歴史の中で、クラリスが頭領になってからの数年間は光に満ちあふれていた。

「クラリスと、ティアリスの最強姉妹がいれば、また獣人族は輝ける。じゃが、それは今ではないのだ」

 《狂狼化》も覚束ないティアリスは、このまま行けば内なる獣に心を喰われてしまう。
 飛び散る殺気と俊敏な動きは、止まることを知らずに野生化の一途を辿っているようにも思われた。

 洞の縁に足を掛け、萎びた毛並みを奮い立たせたドリス。意を決して、樹木下に飛び降りようとした――が。

「ど、ドリス様! あれを! 奥に見える謎の軍勢が、どんどん空を舞って吹き飛んでいますッ!!」

「……ふぉ?」

 諦め掛けていたドリス。
 汗が噴き出し、徐々に動きが鈍くなっていくティアリスの蹴りが、空を裂いた。

「あっ……!」

 どてっ。

 空中で体制を崩したティアリスが、小さく尻餅をついた。
 きょとんと、円らな瞳が見据える先には、長槍を携えたスケルトンと、歯をむき出しにしたゾンビが待ち構えていた。

「まだ、まだ、なの……!!」

 《狂狼化》はまだ継続している。
 スケルトンの首元目がけて拳を握りしめる。

「クココココ」

 カタカタと顎関節を駆動させて嘲笑するように笑ったスケルトンが、槍先をティアリスに放とうとした、その時だった。

「ティアァアアアアアアアアッッ!!」

 懐かしい臭いとともに、それは現れた。
 荒々しく、汗に塗れながらもティアリスの元にやってきた一人の女性は、犬歯を剥き出しにして、ティアリスを襲おうとしたスケルトンを一瞬にして斬り裂いた。

「……クラリス、姉?」

 きょとんと、ティアリスはボサボサの長い栗色の髪を凝視した。

「無事か、ティア! テメェら、ウチの妹に何手ぇ出してんだぁぁぁぁっ!!!」

「クゴ……!?」「ヴォ――」

 勢い任せに振るったクラリスの拳は、鋭くスケルトンとゾンビを貫通した。
 埃と泥と腐肉を振り払ったクラリスの額には、怒りのあまりに太い青筋が浮かんでいたのだった。