聖地林・初代頭領シャリス・マーロゥの墓からおおよそ五キロメートルの、小さな集落。
『聖のゆりかご』は、普段と違う様相に少しだけ動揺が走っていた。
「なぁ、おい。そっちでお頭の姿、見なかったのか?」
「いや、まだ見てないな。巨木の方にもいないとなると、見回りから帰って来てないだけか?」
「光虫が寝静まる時間帯になっても帰ってこなかったことは、今までなかったはずなんだが――」
「林の中で遭難したってのは、考えられないか?」
「馬鹿言え。頭領に限って、そんなことは有り得んぞ。頭領がそんなことをするのは、酒に酔った時だけだ」
「酒に酔った時以外は頼りになるお頭だからなぁ……。って、そんなこと言ってる場合か。本当にどこに行かれたのだあのお方は! 物見櫓に行ったピケ族はどこだ!」
現頭領、クラリス・マーロゥがまだ帰還していないことが理由らしい。
檻の向こうで衛兵たちが忙しなく動くのを見て、ティアリスがぷくーっと小さく頬を膨らませていた。
「クラリスが心配か?」
「べ、別に心配じゃないの! クラリス姉は、この村の誰よりも強いの。もし敵が出てきたとしても、簡単に倒しちゃうの……」
檻と檻の間に顔を挟んで辺りを見回す所からも、ティアリスも、姉のことが気がかりなようだった。
ローグはと言うと、その様子を見ながらも何か考え込んでいる様子だ。
寝ぼけ眼のミカエラにしっかりと抱っこされたニーズヘッグは、若干血の気の失せた表情でローグに向く。
『前頭領の言っていたことが気がかりか?』
先ほどの縁の下には、瘴気の影響からの治療を終えたドリス・マーロゥもやって来ていた。
獣人族に伝わる最古の文献なども引用して、ある程度の歴史も知った上で、ローグが最も興味を引いていた部分はやはり初代だった。
《始祖の魔王》イネス・ルシファーとシャリス・マーロゥの衝突から始まる、対魔族戦争。魔族との関係性を、無血で均衡するまで持って行った彼女の手腕は英雄譚のように描かれていた。
対魔族戦争における無血休戦を果たした後は、すぐさま部族内部の制定に手をつける。
対魔族戦争にてある程度結束した獣人族を、完全にまとめ上げることに成功。その後は『獣約規範』を含む、部族の平和と未来に魂を注ぎ込んだ獣人族の英雄として、永遠に名を刻むようになる。
――が、その最期を知る者は誰一人としていない。
気がついた時には初代の墓はそこにあったが、その墓には遺体は入っていないともされている。
「まぁな。だが、気になる所ではある」
ローグの訝しげな態度に、ニーズヘッグは首を傾げる。
「全盛期のイネスと勝負になるってのは、いい情報だ。世界中見渡してみても、1000年前の全盛期にイネスと渡り合える奴はなかなかいないだろうよ。今でさえ敵う奴はほとんど見つかってないくらいだしな」
『魔族の中では原点にして頂点のような存在だからな、奴は』
そんなローグとニーズヘッグの会話に、ティアリスははてなを浮かべる。
「最後にニーズヘッグを《受肉》させてから、7年。《受肉術》を使える枠もあと一つだ。空と武のニーズヘッグ、魔と武のイネス、森と武のシャリス。ここらで脇を固めきってしまうのも、一つの手かもしれないな」
『なるほど、いいだろう。同胞が増えるか。我は異存なしだ。判断は主に委ねよう』
「そうと決まれば、まずは骨片でも何でも探さなきゃな。お前ん時も、デカすぎて骨格全部は見つからなかったからな。イネスのように、特定の環境下に全身が残されているなら楽で良かったんだが……破片の一つさえ見つかれば、何とでもなる」
『くはははは。この広い聖地林で、獣人族すらも探し切れていない獣人の骨片捜しか。それもまた一興だ。面白いッ!』
何のことやら分かる由もないティアリスが、二人の会話に耳をピクピク動かしていた、その時だった。
「お頭が帰ってきたぞー!」
「ひ、ひとまず良かった、のか?」
「水だ、水を持ってこい! 頭領は酷くお疲れだ!」
「お頭、まさかどこかで、《狂狼化》をされたので……?」
衛兵たちの言葉を聞いたティアリスは、すぐさま檻の中から帰って来たクラリスを心配そうに見つめた。
つられるようにしてそちらを振り向くローグ。
帰って来たクラリスは、肩で息をしていた。
「――お前等、頼む! 部族全員を今すぐここから連れ出して逃げてくれ!」
唐突なクラリスの言葉に、衛兵たちの全員がザワついた。
「お、お頭、何が……!?」
「魔族領域でヤベェバケモンが目を覚ましちまったんだ……! それに、ちんたらしてると全員やられちまう……!」
クラリスの必死の言葉だが、獣人族たちは何も理解が出来ていない。
「な、何だあの黒い影は!? 月が、隠れてるなんて、初めてだ!」
それもそのはず、今現在『聖のゆりかご』においてその異変を確信していたのは、たった二人だけだったのだから。
「おーおー、ニーズヘッグ。お前も逃げ出してみた方がいいんじゃないか、これ」
『く、くはははは。冗談きついな……』
ニーズヘッグとローグの見据える先。クラリスの遥か後方には、月をも隠す大いなる闇の存在が確かにあった。
『あれほどの量の瘴気がこんな所に押し寄せれば獣人族など皆、魔獣と化してしまうぞ』
空を覆うほどの瘴気が、聖地林に迫り来ている。
ひょこひょこと不安そうに、ドリスの腰にしがみつく幼いティアリスは、聖地林の果ての空を小さく眺めている。
そんなドリスの左腕は、肩まで黒い斑点に蝕まれていた。
「お、お頭はどうされるおつもりで?」
不安そうに問う一人の衛兵に、クラリスは「お前等が逃げる時間くらいはこっちでも作れんだよッ!」と興奮気味に応えた。
『……ォォォ……』
――そんな、森の中から聞こえてくる不気味な声に、皆が耳を澄ませる。
「……どういうことだ? ニーズヘッグ、ウチの手持ちに変化は?」
『見当たらぬ。奴等は、主の物ではない』
森の中から、ギラリと血色の眼光が複数姿を現していた。
「聞いてんのかよッ! なァ! 『聖のゆりかご』は破棄しろッ! 親衛隊、捕まえられる族引き連れて、大木ん中誘導しろ!」
『――は、はッ!』
クラリスの怒号が響き渡ると同時に、闇からそれらは――《不死の軍勢》は、姿を現したのだった。
『聖のゆりかご』は、普段と違う様相に少しだけ動揺が走っていた。
「なぁ、おい。そっちでお頭の姿、見なかったのか?」
「いや、まだ見てないな。巨木の方にもいないとなると、見回りから帰って来てないだけか?」
「光虫が寝静まる時間帯になっても帰ってこなかったことは、今までなかったはずなんだが――」
「林の中で遭難したってのは、考えられないか?」
「馬鹿言え。頭領に限って、そんなことは有り得んぞ。頭領がそんなことをするのは、酒に酔った時だけだ」
「酒に酔った時以外は頼りになるお頭だからなぁ……。って、そんなこと言ってる場合か。本当にどこに行かれたのだあのお方は! 物見櫓に行ったピケ族はどこだ!」
現頭領、クラリス・マーロゥがまだ帰還していないことが理由らしい。
檻の向こうで衛兵たちが忙しなく動くのを見て、ティアリスがぷくーっと小さく頬を膨らませていた。
「クラリスが心配か?」
「べ、別に心配じゃないの! クラリス姉は、この村の誰よりも強いの。もし敵が出てきたとしても、簡単に倒しちゃうの……」
檻と檻の間に顔を挟んで辺りを見回す所からも、ティアリスも、姉のことが気がかりなようだった。
ローグはと言うと、その様子を見ながらも何か考え込んでいる様子だ。
寝ぼけ眼のミカエラにしっかりと抱っこされたニーズヘッグは、若干血の気の失せた表情でローグに向く。
『前頭領の言っていたことが気がかりか?』
先ほどの縁の下には、瘴気の影響からの治療を終えたドリス・マーロゥもやって来ていた。
獣人族に伝わる最古の文献なども引用して、ある程度の歴史も知った上で、ローグが最も興味を引いていた部分はやはり初代だった。
《始祖の魔王》イネス・ルシファーとシャリス・マーロゥの衝突から始まる、対魔族戦争。魔族との関係性を、無血で均衡するまで持って行った彼女の手腕は英雄譚のように描かれていた。
対魔族戦争における無血休戦を果たした後は、すぐさま部族内部の制定に手をつける。
対魔族戦争にてある程度結束した獣人族を、完全にまとめ上げることに成功。その後は『獣約規範』を含む、部族の平和と未来に魂を注ぎ込んだ獣人族の英雄として、永遠に名を刻むようになる。
――が、その最期を知る者は誰一人としていない。
気がついた時には初代の墓はそこにあったが、その墓には遺体は入っていないともされている。
「まぁな。だが、気になる所ではある」
ローグの訝しげな態度に、ニーズヘッグは首を傾げる。
「全盛期のイネスと勝負になるってのは、いい情報だ。世界中見渡してみても、1000年前の全盛期にイネスと渡り合える奴はなかなかいないだろうよ。今でさえ敵う奴はほとんど見つかってないくらいだしな」
『魔族の中では原点にして頂点のような存在だからな、奴は』
そんなローグとニーズヘッグの会話に、ティアリスははてなを浮かべる。
「最後にニーズヘッグを《受肉》させてから、7年。《受肉術》を使える枠もあと一つだ。空と武のニーズヘッグ、魔と武のイネス、森と武のシャリス。ここらで脇を固めきってしまうのも、一つの手かもしれないな」
『なるほど、いいだろう。同胞が増えるか。我は異存なしだ。判断は主に委ねよう』
「そうと決まれば、まずは骨片でも何でも探さなきゃな。お前ん時も、デカすぎて骨格全部は見つからなかったからな。イネスのように、特定の環境下に全身が残されているなら楽で良かったんだが……破片の一つさえ見つかれば、何とでもなる」
『くはははは。この広い聖地林で、獣人族すらも探し切れていない獣人の骨片捜しか。それもまた一興だ。面白いッ!』
何のことやら分かる由もないティアリスが、二人の会話に耳をピクピク動かしていた、その時だった。
「お頭が帰ってきたぞー!」
「ひ、ひとまず良かった、のか?」
「水だ、水を持ってこい! 頭領は酷くお疲れだ!」
「お頭、まさかどこかで、《狂狼化》をされたので……?」
衛兵たちの言葉を聞いたティアリスは、すぐさま檻の中から帰って来たクラリスを心配そうに見つめた。
つられるようにしてそちらを振り向くローグ。
帰って来たクラリスは、肩で息をしていた。
「――お前等、頼む! 部族全員を今すぐここから連れ出して逃げてくれ!」
唐突なクラリスの言葉に、衛兵たちの全員がザワついた。
「お、お頭、何が……!?」
「魔族領域でヤベェバケモンが目を覚ましちまったんだ……! それに、ちんたらしてると全員やられちまう……!」
クラリスの必死の言葉だが、獣人族たちは何も理解が出来ていない。
「な、何だあの黒い影は!? 月が、隠れてるなんて、初めてだ!」
それもそのはず、今現在『聖のゆりかご』においてその異変を確信していたのは、たった二人だけだったのだから。
「おーおー、ニーズヘッグ。お前も逃げ出してみた方がいいんじゃないか、これ」
『く、くはははは。冗談きついな……』
ニーズヘッグとローグの見据える先。クラリスの遥か後方には、月をも隠す大いなる闇の存在が確かにあった。
『あれほどの量の瘴気がこんな所に押し寄せれば獣人族など皆、魔獣と化してしまうぞ』
空を覆うほどの瘴気が、聖地林に迫り来ている。
ひょこひょこと不安そうに、ドリスの腰にしがみつく幼いティアリスは、聖地林の果ての空を小さく眺めている。
そんなドリスの左腕は、肩まで黒い斑点に蝕まれていた。
「お、お頭はどうされるおつもりで?」
不安そうに問う一人の衛兵に、クラリスは「お前等が逃げる時間くらいはこっちでも作れんだよッ!」と興奮気味に応えた。
『……ォォォ……』
――そんな、森の中から聞こえてくる不気味な声に、皆が耳を澄ませる。
「……どういうことだ? ニーズヘッグ、ウチの手持ちに変化は?」
『見当たらぬ。奴等は、主の物ではない』
森の中から、ギラリと血色の眼光が複数姿を現していた。
「聞いてんのかよッ! なァ! 『聖のゆりかご』は破棄しろッ! 親衛隊、捕まえられる族引き連れて、大木ん中誘導しろ!」
『――は、はッ!』
クラリスの怒号が響き渡ると同時に、闇からそれらは――《不死の軍勢》は、姿を現したのだった。