黒いもやが全身に罹ったシャリスは、既に自我が崩壊していた。

「ォウッヵ……ッカ!」

 真っ直ぐに伸びた、十指の黒爪を剣のようにして縦横無尽に振り回すその姿は、まさしくケモノ(・・・)そのもの。
 一振り一振りが、ゾンビやスケルトンの身体を貫いていく。そして、ゴブリンや、イネス直属の配下たちにも――。

「な、何なんだコイツは!? 味方じゃなかったのか!?」

「不死の軍勢だけでも手一杯だってのに、なんでこんなケダモノまで!」

「自我がないぞ、こいつ! これは……魔力か? でもこんなに禍々しい魔力、見たことがないぞ? 魔族というよりは、人型の魔物だ……ッ!」

 イネス直属の魔族たちは、前方に不死者、後方に敵味方問わずなぎ倒していく黒い化け物を同時に相手にしなくてはならないという窮地に立たされた。

「こんな時に人型魔物(・・・・)とは、我々もついてなぁ――」

 とある魔族の一言が終わる前に、彼の首が宙を舞う。

「ぼ、ボティス様、戦死! 既にあの化け物によって、数十の魔族が屠られています! 不死の軍勢と戦っているときよりはるかに危険度あがっ!?」

「ッカッカッヵッヵカヵカ!!」

 報告する魔族の首を貫き、本能のままに力を振るうその化け物に、周りの空気が一気に凍っていく。
 その漆黒の両目が次に標的に定めたのは、一人の若い魔族の青年だった。

「クッカッカッカ」

 不気味な声色と、爪から垂れる赤黒い血が、青年魔族のすぐ前に差し掛かった、その時に――。

「破壊魔法魔法力付与(エンチャント)ッ! 破壊の印(メアペネム)!」

 戦場で拾い上げたその剣は、元はスケルトンのものだ。
 ボロボロになって刃こぼれを起こしてしまっているその剣に、魔族最強の《破壊》の因子を注ぎ込む。

 黒い化け物の爪剣が、青年魔族の眼球に届く前に崩壊する。

「クカカカカカヵ!!」

 額に汗を流しつつ、イネスは黒い化け物の爪剣をボロい剣で受け止める。

「い、い、イネス……様……ッ!!」

コレ(・・)は私に任せなさい。あなたたちは、朝まで戦線の維持に努めて! 残存戦力は!?」

「ハッ! 不死の軍勢による攻撃により、魔物勢は500が損失、ウァサゴ様、ベレト様、シトリー様ら家名のある魔族含め5名が戦死! 『仮面の化け物』によりボティス族の勢力が激減!」

「あなたのおかげで、今日は被害が余程甚大になりましたね……!」

 イネスは、左目から紅のオーラを放ちながら化け物の撃剣をいなし続ける。

「が!」

 シャリスの一爪が、イネスの頬を掠める。
 彼女の持つ膨大な魔法力は、そっくりそのまま魔力へと突然変異を起こしていた。

「本当に、冗談じゃすまされませんよ、シャリス……!」

「グルルルル……」

 シャリスの腕を鷲づかみ、イネスは震える唇でかつての友の瞳を見つめた。
 どこまでも暗く深い闇を体現しているかのようだ。
 魔族領域に迷い込んできた魔獣、筋肉狼(マッスルウルフ)も、本来の牙狼に戻ったという例は聞いたことがない。
 イネスは、勘で感じていた。
 もう、彼女が元の姿に戻ることはないのだと。

「ジャァッ!!」

 もはやシャリスの見る影も無く、イネスの首元に容赦なく伸びた爪剣を差し込ませる。

「っ!」

 唯一の友人のあまりの変貌ぶりに狼狽している。イネスは普段以上に動揺していた。辛うじて彼女の一撃を避ける――が。

 カランッ。

 シャリスの爪先が、イネスの首にかかっている宝物(・・)の紐を斬り裂いた。
 イネスが後生欠かさず大切にしていた、シャリスからのプレゼントである、木彫りのペンダントは、音を立てて地面に落ちる。
 ロケットペンダントは、落ちた衝撃で開かれる。中に書かれていたのは、聖地林(リートル)での共通言語であるエリック文字だ。

 短く、木に彫られたその乱雑な文字に、イネスは思わず息を詰まらせる。
 何と書いてあるかは、未だに分からない。
 シャリスは、教えてくれなかった。

「ガッガ!」

 ダンッ――!

 イネスを攻撃目標と定めたシャリスは、何の迷いも無く地面を踏み抜いた。
 ペンダントのすぐ傍に、彼女が踏み込んだことによる小さなクレーターが形成された。
 咄嗟にイネスがシャリスの腕を引かなければ、進路上にあったペンダントごと踏み抜いていただろう。

 ふいに、イネスの魔力が増大した。
 脳裏に、唯一の親友との思い出がいくつも過ぎっていた。
 
「イネス様! 前方に! 前方に軍勢を束ねる術師を――!」

「すみませんが、対処可能ならばそちらでよろしくお願いします。そして、皆に伝えなさい」

 イネスは、ボゥっと、紅のオーラを左目から迸らせた。

「――巻き添えを食らわないように、少しでも遠くに逃げなさい、と」

 報告に入った魔族の背筋が凍る。
 イネスの身体に宿る魔力の爆発を感知した味方は、次々と唾を飲んで戦場を離れようとしていた。

「ウガァァァァ!!」

 短い叫声と共に、シャリスは地を蹴り上げた。近くの木々を蹴って、目にも止まらぬ速さで高速移動を図る。
 イネスは、千切れたペンダントを拾い上げて懐にしまう。

「覚えていますか、シャリス」

 イネスは、寂しそうに一歩踏み出した。

 ――それは何ですか?

 ――ぁ? こりゃ、ペンダントだ。聖地林(リートル)に昔っから伝わる、友情の証みたいなモンだな。今からイネスにゃ、これやるよ。

 ――なるほど……。友情の証、ですか。何と書いてあるのですか?

 ――う、うっせぇな……。わざわざ言ってられっかよ!

 ――私が読めないと、意味が無いではないですか。

 木彫りのペンダントを渡されたその日からイネスは、片時も離さずに首に掛けていた。
 
 ――それなら、私も貴女方の流儀とやらに従ってみましょうか。幸いにも、もう一つあるようですしね。

 ――そりゃいいけど、アンタは何て書くんだよ。ってか、それ何の文字だよ。

 ――魔族領域(ダレス)の言語ですが?

 ――ンなの読めっかよ!!

 ――お互い様のようですね、ふふふ。

「まだ、ちゃんと持っていてくれてたんですね」

 微かに、シャリスの首にもイネスのものと同等のものが携えられている。
 清々しささえ感じられる表情で、イネスは中指に魔力を凝縮し始めた。

「……カッ」

 高速移動の最中、シャリスはふっと爪剣をイネスの首に宛がおうとする。
 だがその剣先は、イネスの首を少し掠めるだけで、彼女を絶命させるには至らない。
 辺りの木々を次々と蹴り、何回も何回も跳躍を繰り返し、シャリスの手はイネスの首に伸びる。
 だが、一撃たりとも致命傷は与えることは出来ていない。イネス自身が避けているわけではない。それはまるで、イネスを避けている(・・・・・・・・・)ように(・・・)
 ピチャリと、イネスの頬に小さな水滴が付着する。高速移動を続けるシャリスの頬は、微かに濡れていた。

「本当に、本当に、お馬鹿なんですから」

 まだ魔族と人類との交流が浅かった時代。
 自身が瘴気(ミアスマ)に犯され続けていることを知りながら、それでもシャリスは会いに来た。
 覚悟を決めたイネスの頬にも、一筋の涙が伝った。
 シャリスは、無防備にもイネスに頭を突き出す形で突っ込んできていた。
 剣になっている十指を放り投げるその姿は、戦闘すら避けているようにも見える。

「貴女は、私にとって最高の親友でしたよ」

 凝縮された魔力が人差し指と中指を伝う。
 銃を模したその指は、しっかりと照準をシャリスの額に宛てがった。

「――さようなら、シャリス」

 イネスの手銃から飛び出した魔力弾は、寸分違わずシャリスの額を穿つ。
 飛び散る鮮血がイネスの頭にぱらぱらと降りかかった時、シャリスの身体からは黒いもやが晴れていくのだった。