――1000年前、《始祖の魔王》は最期の時を迎えようとしていた。
魔族領域に侵攻してきた人類との衝突から、はや1ヶ月が経っていた。
ミレット大陸ユーリウス山脈を境に、北西に位置する魔族領域は、長らく《恐怖の地》として大陸に存在感を放っていた。
人は、その地を語ろうとはしなかった。
人は、その地を踏もうとはしなかった。
人は、その地に介入しようとはしなかった。
なぜならそこは、《恐怖の象徴》イネス・ルシファーが統治する地であったからだ。
手を出さなければ決して害はない。
だが人類の一部がその地を平伏すべく手を出せば、帰って来た者で人の形をしたまま戻ってきた者は一人としてなかった。
次第に、人は魔族領域を別次元の世界として扱っていった。
世界の地図から、意図的に魔族領域を消し去っていった。
それこそが、魔王イネス・ルシファーが目指した人類と魔族の唯一の共存方法だった。
――はずだった。
来たる一月ほど前から人類は、一斉に侵攻を始めて来た。
魔族領域付近に生息していた魔物、魔族の大半は一部を除いて動員しきっている。
魔族領域の長、イネス・ルシファーが最前線に立たねばならぬほどに、イネス直轄の魔族は疲弊しきっていた。
「ただでさえ数の利で勝っている人類側で、死なない連中まで出てくるとは、厄介この上ない。イネス様、我々とていつまでもこの戦線が保てるわけではないですぞ」
「そんなもの、あなたに言われていなくても分かっています。口を動かす暇があるのならば、一つでも多く目の前の敵を葬ることを考えなさい、ジャッジ・フェニックス副官」
「ふふ、承知していますよ」
イネスたちの前に広がっているのは、魔族領域最前線の平野を埋め尽くすほどの軍勢、おおよそ五〇〇〇。
対するイネスたち魔族は、低級魔物部隊はとうに枯渇し、上級魔人たちを招聘するほどにまで数を減らしていたのだが、数にしておおよそ五〇〇ほど。
戦力差は十倍だ。
「ジャッジ。この大戦においてフェニックス配下がいつまでもこの場にやってこないことに関しては、後で厳しく問いただせていただきますよ」
「すみませんね。どうやら、人類側の侵攻に畏れを為してしまったようで……ふふふ」
「人類ごときに畏れを為す魔族、ですか。その人類にここまでの侵攻を許している以上、否定は出来ないかも知れません――ねッ!!」
三対六枚の黒翼を大きく広げ、白銀のねじ曲がった角に膨大の魔力を孕ませて敵を屠るイネスの背中を預かっているのは、ジャッジ・フェニックスという魔王の副官だ。
筋骨隆々とした体躯に、逆立った紫色の短髪。
強張った顔立ちに、釣り上がった野心の塊のようなギラつく瞳。
背に生やした一対の翼は、紫色の炎を象っている形だ。
魔族の一門、フェニックス一族。
唯一無二の存在であり《破壊》の因子を持つイネスとは別に、《再生》の因子を持つ一族の集団だ。
フェニックス一族の最大の特徴は、自らが死を迎える時、炎と一体化して一度この世から消え去り、数年後にどこかの火元から身体・精神共に再生するという《焔返り》を行うということだ。
それ故に、フェニックス一族は文字通り何度でも甦る不死鳥を異名に持っている。
そんな一族の長であり、おおよそ2メートルほどの身長を誇るその大男は、背後のイネスにからかうように呟く。
「私たちが生きて帰ることが出来たならば、どうとでもなさってくださいませ」
一見、その言葉は多勢に無勢の現状を自虐しているようにも思える。
だが、そうではない。
イネスは、内心舌打ちをしながら魔力を練り続け、目の前の敵を葬り続ける。
ジャッジ・フェニックスは長い期間、イネスの副官として仕えてきているが、根本的にイネスと考えが異なる。
恐怖による統治と、不干渉によって人類・魔族間共存を図るイネスだが、ジャッジは世界中を魔族の支配下に入れたがる節がある。
――私を陥れる、罠……なのでしょうね。確かに貴方にとって、これは好機でしょう。
イネスの前に広がる軍勢も、ただの軍勢では無い。
死なない軍勢――《不死の軍勢》の存在と、ジャッジ・フェニックスの野望とが偶然引き寄せられた結果が現在の魔族領域侵攻であることは、容易に理解出来た。
現有戦力では、直近1月はイネス直轄の配下が大いに活躍し、多くが戦場に散った。
数の利で勝る人類の猛攻でさえ、イネス派は難なく持ちこたえていたのだが。
魔族も、一枚岩では無い。
恐怖の統治を望むイネス派と、魔族単体の武力を持って世界征服を目論むジャッジ派があるなかで、ジャッジ派はこの戦争でほとんど戦力を使っていないのだ。
ジャッジが裏で人類側と何らかの密約を交わし、侵攻させる。
人類と魔族の対立を作り上げ、イネス派が疲弊しきり、その長であるイネス・ルシファーを堕としたところでジャッジ派が動き出す。
これまでのイネス派の働きと、人類側の疲弊を見れば、ジャッジ保有の戦力でこれを退けることは容易のはずだ。
イネス・ルシファーが非業の死を遂げた後に後継者としてジャッジ・フェニックスが魔王の座に着けば、効率的にジャッジは魔族の長となることが出来る。
その後は、何の傷もついていないジャッジ派が、ある程度疲弊しきった人類側を壊滅させればいい。ただそれだけのことだ。
だが、ただそれだけのことで、イネスの今までは全てが無に帰る。
ジャッジの戦力は、恐ろしいことにそれが出来てしまう。
世界は、本当の混沌に陥ってしまう。
「――潮時なのかも、しれませんね」
ぽつり、イネスは呟いた。
これは、表向きは人類の魔族侵攻である。
だが実態は、魔王副官ジャッジ・フェニックスの明確な離反である。
自分の進んできた道は、大きく間違っていたのか。
自分の描いていた未来は、最適解ではなかった。だが、掴めるうちでは最良だった。
屠っても屠っても湧いて出てくる不死の軍勢。大将首の姿も無く、ただただ無意味に魔力だけが浪費されていく。
こうも明確な離反行為があったと分かれば、今は表向き味方として機能しているジャッジがいつこちらに刃を向けてくるかも分からない。
「最期は孤独に終わるのも、《恐怖の象徴》にふさわしいのかもしれませんね」
そんな、四面楚歌を感じていた、その時だった。
「まだ諦めんのは、はぇえだろッ!!」
前方の軍勢を吹っ飛ばし、猛スピードでこちらに向かってくる一つの人影があった。
ボサボサな栗色の髪の毛と、ぼさぼさの大きな尻尾。
申し訳程度に顔を隠すためにつけられた、木造の面。
「最近、我等が戦場によく現れるアレは何です、イネス様。獣人族……でしょうか?」
予期せぬ一体の援軍に、怪訝そうにジャッジが問うと、お面をつけた獣人族は「ッカッカッカ」と軽快な動きでイネスたちの前に立ちはだかった。
「通りがかりの獣だ。大親友……じゃねぇや……いや、何でもいいが暴れたいんで、アンタらに助太刀しにきてやったぜ!」
ピクピクと興奮気味に頭の上の獣耳を動かしたその女性。
「な、何を言っとるんですか、こいつは」と、ジャッジが本気で首を傾げる中で、中の正体を知っているイネスは、耐えきれないように思わず口を押さえて笑みをこらえていたのだった。
魔族領域に侵攻してきた人類との衝突から、はや1ヶ月が経っていた。
ミレット大陸ユーリウス山脈を境に、北西に位置する魔族領域は、長らく《恐怖の地》として大陸に存在感を放っていた。
人は、その地を語ろうとはしなかった。
人は、その地を踏もうとはしなかった。
人は、その地に介入しようとはしなかった。
なぜならそこは、《恐怖の象徴》イネス・ルシファーが統治する地であったからだ。
手を出さなければ決して害はない。
だが人類の一部がその地を平伏すべく手を出せば、帰って来た者で人の形をしたまま戻ってきた者は一人としてなかった。
次第に、人は魔族領域を別次元の世界として扱っていった。
世界の地図から、意図的に魔族領域を消し去っていった。
それこそが、魔王イネス・ルシファーが目指した人類と魔族の唯一の共存方法だった。
――はずだった。
来たる一月ほど前から人類は、一斉に侵攻を始めて来た。
魔族領域付近に生息していた魔物、魔族の大半は一部を除いて動員しきっている。
魔族領域の長、イネス・ルシファーが最前線に立たねばならぬほどに、イネス直轄の魔族は疲弊しきっていた。
「ただでさえ数の利で勝っている人類側で、死なない連中まで出てくるとは、厄介この上ない。イネス様、我々とていつまでもこの戦線が保てるわけではないですぞ」
「そんなもの、あなたに言われていなくても分かっています。口を動かす暇があるのならば、一つでも多く目の前の敵を葬ることを考えなさい、ジャッジ・フェニックス副官」
「ふふ、承知していますよ」
イネスたちの前に広がっているのは、魔族領域最前線の平野を埋め尽くすほどの軍勢、おおよそ五〇〇〇。
対するイネスたち魔族は、低級魔物部隊はとうに枯渇し、上級魔人たちを招聘するほどにまで数を減らしていたのだが、数にしておおよそ五〇〇ほど。
戦力差は十倍だ。
「ジャッジ。この大戦においてフェニックス配下がいつまでもこの場にやってこないことに関しては、後で厳しく問いただせていただきますよ」
「すみませんね。どうやら、人類側の侵攻に畏れを為してしまったようで……ふふふ」
「人類ごときに畏れを為す魔族、ですか。その人類にここまでの侵攻を許している以上、否定は出来ないかも知れません――ねッ!!」
三対六枚の黒翼を大きく広げ、白銀のねじ曲がった角に膨大の魔力を孕ませて敵を屠るイネスの背中を預かっているのは、ジャッジ・フェニックスという魔王の副官だ。
筋骨隆々とした体躯に、逆立った紫色の短髪。
強張った顔立ちに、釣り上がった野心の塊のようなギラつく瞳。
背に生やした一対の翼は、紫色の炎を象っている形だ。
魔族の一門、フェニックス一族。
唯一無二の存在であり《破壊》の因子を持つイネスとは別に、《再生》の因子を持つ一族の集団だ。
フェニックス一族の最大の特徴は、自らが死を迎える時、炎と一体化して一度この世から消え去り、数年後にどこかの火元から身体・精神共に再生するという《焔返り》を行うということだ。
それ故に、フェニックス一族は文字通り何度でも甦る不死鳥を異名に持っている。
そんな一族の長であり、おおよそ2メートルほどの身長を誇るその大男は、背後のイネスにからかうように呟く。
「私たちが生きて帰ることが出来たならば、どうとでもなさってくださいませ」
一見、その言葉は多勢に無勢の現状を自虐しているようにも思える。
だが、そうではない。
イネスは、内心舌打ちをしながら魔力を練り続け、目の前の敵を葬り続ける。
ジャッジ・フェニックスは長い期間、イネスの副官として仕えてきているが、根本的にイネスと考えが異なる。
恐怖による統治と、不干渉によって人類・魔族間共存を図るイネスだが、ジャッジは世界中を魔族の支配下に入れたがる節がある。
――私を陥れる、罠……なのでしょうね。確かに貴方にとって、これは好機でしょう。
イネスの前に広がる軍勢も、ただの軍勢では無い。
死なない軍勢――《不死の軍勢》の存在と、ジャッジ・フェニックスの野望とが偶然引き寄せられた結果が現在の魔族領域侵攻であることは、容易に理解出来た。
現有戦力では、直近1月はイネス直轄の配下が大いに活躍し、多くが戦場に散った。
数の利で勝る人類の猛攻でさえ、イネス派は難なく持ちこたえていたのだが。
魔族も、一枚岩では無い。
恐怖の統治を望むイネス派と、魔族単体の武力を持って世界征服を目論むジャッジ派があるなかで、ジャッジ派はこの戦争でほとんど戦力を使っていないのだ。
ジャッジが裏で人類側と何らかの密約を交わし、侵攻させる。
人類と魔族の対立を作り上げ、イネス派が疲弊しきり、その長であるイネス・ルシファーを堕としたところでジャッジ派が動き出す。
これまでのイネス派の働きと、人類側の疲弊を見れば、ジャッジ保有の戦力でこれを退けることは容易のはずだ。
イネス・ルシファーが非業の死を遂げた後に後継者としてジャッジ・フェニックスが魔王の座に着けば、効率的にジャッジは魔族の長となることが出来る。
その後は、何の傷もついていないジャッジ派が、ある程度疲弊しきった人類側を壊滅させればいい。ただそれだけのことだ。
だが、ただそれだけのことで、イネスの今までは全てが無に帰る。
ジャッジの戦力は、恐ろしいことにそれが出来てしまう。
世界は、本当の混沌に陥ってしまう。
「――潮時なのかも、しれませんね」
ぽつり、イネスは呟いた。
これは、表向きは人類の魔族侵攻である。
だが実態は、魔王副官ジャッジ・フェニックスの明確な離反である。
自分の進んできた道は、大きく間違っていたのか。
自分の描いていた未来は、最適解ではなかった。だが、掴めるうちでは最良だった。
屠っても屠っても湧いて出てくる不死の軍勢。大将首の姿も無く、ただただ無意味に魔力だけが浪費されていく。
こうも明確な離反行為があったと分かれば、今は表向き味方として機能しているジャッジがいつこちらに刃を向けてくるかも分からない。
「最期は孤独に終わるのも、《恐怖の象徴》にふさわしいのかもしれませんね」
そんな、四面楚歌を感じていた、その時だった。
「まだ諦めんのは、はぇえだろッ!!」
前方の軍勢を吹っ飛ばし、猛スピードでこちらに向かってくる一つの人影があった。
ボサボサな栗色の髪の毛と、ぼさぼさの大きな尻尾。
申し訳程度に顔を隠すためにつけられた、木造の面。
「最近、我等が戦場によく現れるアレは何です、イネス様。獣人族……でしょうか?」
予期せぬ一体の援軍に、怪訝そうにジャッジが問うと、お面をつけた獣人族は「ッカッカッカ」と軽快な動きでイネスたちの前に立ちはだかった。
「通りがかりの獣だ。大親友……じゃねぇや……いや、何でもいいが暴れたいんで、アンタらに助太刀しにきてやったぜ!」
ピクピクと興奮気味に頭の上の獣耳を動かしたその女性。
「な、何を言っとるんですか、こいつは」と、ジャッジが本気で首を傾げる中で、中の正体を知っているイネスは、耐えきれないように思わず口を押さえて笑みをこらえていたのだった。