聖地林。
大陸を南北に分断するユーリウス山脈を境に、北東部に位置する巨大な亜人国家である。
どこまでも続く広大な森林を始めとして、川や鉱山などにも恵まれた、大陸でも随一の自然資源に囲まれたその国は、数年前の人魔大戦時から比べ、国土面積にしておおよそ二倍ほどに領地を拡大させている。
その最大の理由の一つとしては――。
カルファのいる部屋の壁に貼られた、世界各国の情勢地図。
座っていた執務席を立って、カルファは北東部を指さした。
「かつて魔族の頭領だったイネスさんならばご存じでしょうが、魔族領域は元々北東部一帯を占める巨大勢力でした」
それに応えるようにイネスは言う。
「1,000年ほど前は聖地林、魔族領域は共に大陸北東部に国を置き、領地面積としても同等程だったことは覚えています。今の魔族領域は、かつての半分と言ったところでしょうか?」
「はい。人魔大戦時における、魔族敗北により彼らの領地は大きく縮小し、その部分は、そのまま聖地林の国土に割り当てられる形になりました。またいつ敵対関係になるか分からない魔族の近くに、自国の管轄を置く危険性も出来うる限り避けたいところでしたからね……。クラリスは、魔族領域付近を抱え込むと同時に聖地林の国土拡大を成し遂げたのです。とはいえ、年々両者の軋轢は深まっているばかりですが」
カルファの言葉に、興味深そうにイネスは頷いた。
「とすると、アスカロンに飛び込んできた、その世界七賢人《獣戦士》の妹――ティアリスの告発は、魔族絡みであることも考慮出来るということですね」
かつての同胞が起こす数々の問題に対しても、イネスは存外他人事と考える傾向にあるということは、ローグからの報告によりカルファも知り得ている。
蘇生された今となっては、魔族よりもローグが最優先であること、そしてイネスにとって、現世の魔族そのものに対する不信感も相まっているからだそうだ。
イネスは、吐き捨てるように呟いた。
「かつての魔族と今の魔族は別物です。今の魔族は、かつてのような崇高さは見当たりませんから。ともあれ、カルファ・シュネーヴル。何か少しでも良いのです。聖地林近辺で最近、何か変わったことなどあれば些細なことでも良いので、教えて下さると幸いです」
「魔族同士も、一筋縄ではないんですね……。それを《始祖の魔王》がおっしゃるのなら、尚更でしょうか」
苦笑いにも似た表情を浮かべるカルファは、「そういえば」と手をぽんと叩いた。
「シャリスに関してはふと風に乗って噂を聞いたような気がしますね……」
神妙な様子で語るカルファに、イネスは目を光らせた。
「噂、というと?」
「聖地林領地にある初代マーロゥ頭領、シャリス・マーロゥの墓荒らし事件です。南北を渡り歩く行商人らが又聞きしていたものですし、眉唾のことも多いのですが……。それに、先人の墓周りは、子供達の遊び場にもなっていることも多いですからね。子供達が遊んでいる最中に石像が壊れた、というのは良くあることです」
カルファは、机の上に置かれた薄汚れた任務受注の用紙に目を落としながら言うと、イネスは「シャリスの墓……」と、感慨深そうに空を見上げた。
「それに、どうやらこれは国際ギルドからの正式な書類ではありませんね。ギルド連合の承認証も聖地林国家の承認印もなければ、紙の材質も異なります。Sランク以上の冒険者を雇うならば、所属国家を経由して国際ギルド連合へと承認を出さなければなりません。その何もかもがないのであれば、この受注用紙は何の効力も生じません。アスカロンに現れた少女が本当にクラリスの妹なのかすら定かではないでしょうし、ローグさん自身もそんな曖昧な案件に付き合っている暇はないでしょう?」
「……そう、なんでしょうか?」
「当然ですよ。やっと現れたSランククラスの冒険者。今頃、ローグさんの元には数え切れないほどの正式な任務受注用紙が届いてくる頃ではないでしょうかね?」
カルファのホクホク気味の言葉に、イネスは首を傾げる。
「それで、何故あなたはそんなに喜んでいるのですか?」
カルファは、笑顔で応える。
「もちろん、ローグさんが国際ギルドの任務受注を受ければ受けるほど、サルディア皇国に中間マージンが入ってきますからね。バルラの魔の手によって壊滅状態にあるサルディア皇国にとっては、藁にも縋りたい思いですので」
「それはそれは」
「……何ですかイネスさん、その無表情な瞳は!?」
「いえいえ、国家運営の代理の者がこのように主頼りですと、我が主がこの国を牛耳っていることも同じですので少し感慨深く思ったまでです」
「曲解しすぎですからね!?」
にこやかに捨て台詞を吐いて、イネスは再びカルファの部屋の窓から飛び降りた。
黒い翼を背中に生やし、再びアスカロンの方へ飛翔したイネスの姿に、カルファは苦笑いにも似た表情を浮かべていた。
○○○
「……むぅ……」
暗闇の中、黒翼をはためかせながら飛ぶイネス。
――アスカロンに現れた少女が本当にクラリスの妹なのかすら定かではないでしょうし、ローグさん自身もそんな曖昧な案件に付き合っている暇はないでしょう?
カルファの言葉が、何度も頭を過ぎる。
「この国に認められようとするローグ様のお邪魔をするわけには、いきませんね」
ラグルドに、グランに、カルファ。
主であるローグは、着実にこの国で評価を上げ、存在を根付かせ始めていることに違いはない。
ましてや現在、皇国状況自体も芳しくはない。
皇国にとっても、ローグは必要不可欠な存在だろう。
「……聖地林、シャリスの墓とあれば、多少顔を出しておきたいものです。例の少女の言動も気になりますし……あの子が本物ならば、それこそシャリスの子孫ですし……」
ぶつぶつと考えながらイネスは任務受注用紙を眺めた。
「……ローグ様に、お暇をいただけないかどうか聞いてみるとしますかね」
それは、かつての友に思いを馳せたイネスが蘇生されて初めて、自分自身のことを決心した瞬間だった。
大陸を南北に分断するユーリウス山脈を境に、北東部に位置する巨大な亜人国家である。
どこまでも続く広大な森林を始めとして、川や鉱山などにも恵まれた、大陸でも随一の自然資源に囲まれたその国は、数年前の人魔大戦時から比べ、国土面積にしておおよそ二倍ほどに領地を拡大させている。
その最大の理由の一つとしては――。
カルファのいる部屋の壁に貼られた、世界各国の情勢地図。
座っていた執務席を立って、カルファは北東部を指さした。
「かつて魔族の頭領だったイネスさんならばご存じでしょうが、魔族領域は元々北東部一帯を占める巨大勢力でした」
それに応えるようにイネスは言う。
「1,000年ほど前は聖地林、魔族領域は共に大陸北東部に国を置き、領地面積としても同等程だったことは覚えています。今の魔族領域は、かつての半分と言ったところでしょうか?」
「はい。人魔大戦時における、魔族敗北により彼らの領地は大きく縮小し、その部分は、そのまま聖地林の国土に割り当てられる形になりました。またいつ敵対関係になるか分からない魔族の近くに、自国の管轄を置く危険性も出来うる限り避けたいところでしたからね……。クラリスは、魔族領域付近を抱え込むと同時に聖地林の国土拡大を成し遂げたのです。とはいえ、年々両者の軋轢は深まっているばかりですが」
カルファの言葉に、興味深そうにイネスは頷いた。
「とすると、アスカロンに飛び込んできた、その世界七賢人《獣戦士》の妹――ティアリスの告発は、魔族絡みであることも考慮出来るということですね」
かつての同胞が起こす数々の問題に対しても、イネスは存外他人事と考える傾向にあるということは、ローグからの報告によりカルファも知り得ている。
蘇生された今となっては、魔族よりもローグが最優先であること、そしてイネスにとって、現世の魔族そのものに対する不信感も相まっているからだそうだ。
イネスは、吐き捨てるように呟いた。
「かつての魔族と今の魔族は別物です。今の魔族は、かつてのような崇高さは見当たりませんから。ともあれ、カルファ・シュネーヴル。何か少しでも良いのです。聖地林近辺で最近、何か変わったことなどあれば些細なことでも良いので、教えて下さると幸いです」
「魔族同士も、一筋縄ではないんですね……。それを《始祖の魔王》がおっしゃるのなら、尚更でしょうか」
苦笑いにも似た表情を浮かべるカルファは、「そういえば」と手をぽんと叩いた。
「シャリスに関してはふと風に乗って噂を聞いたような気がしますね……」
神妙な様子で語るカルファに、イネスは目を光らせた。
「噂、というと?」
「聖地林領地にある初代マーロゥ頭領、シャリス・マーロゥの墓荒らし事件です。南北を渡り歩く行商人らが又聞きしていたものですし、眉唾のことも多いのですが……。それに、先人の墓周りは、子供達の遊び場にもなっていることも多いですからね。子供達が遊んでいる最中に石像が壊れた、というのは良くあることです」
カルファは、机の上に置かれた薄汚れた任務受注の用紙に目を落としながら言うと、イネスは「シャリスの墓……」と、感慨深そうに空を見上げた。
「それに、どうやらこれは国際ギルドからの正式な書類ではありませんね。ギルド連合の承認証も聖地林国家の承認印もなければ、紙の材質も異なります。Sランク以上の冒険者を雇うならば、所属国家を経由して国際ギルド連合へと承認を出さなければなりません。その何もかもがないのであれば、この受注用紙は何の効力も生じません。アスカロンに現れた少女が本当にクラリスの妹なのかすら定かではないでしょうし、ローグさん自身もそんな曖昧な案件に付き合っている暇はないでしょう?」
「……そう、なんでしょうか?」
「当然ですよ。やっと現れたSランククラスの冒険者。今頃、ローグさんの元には数え切れないほどの正式な任務受注用紙が届いてくる頃ではないでしょうかね?」
カルファのホクホク気味の言葉に、イネスは首を傾げる。
「それで、何故あなたはそんなに喜んでいるのですか?」
カルファは、笑顔で応える。
「もちろん、ローグさんが国際ギルドの任務受注を受ければ受けるほど、サルディア皇国に中間マージンが入ってきますからね。バルラの魔の手によって壊滅状態にあるサルディア皇国にとっては、藁にも縋りたい思いですので」
「それはそれは」
「……何ですかイネスさん、その無表情な瞳は!?」
「いえいえ、国家運営の代理の者がこのように主頼りですと、我が主がこの国を牛耳っていることも同じですので少し感慨深く思ったまでです」
「曲解しすぎですからね!?」
にこやかに捨て台詞を吐いて、イネスは再びカルファの部屋の窓から飛び降りた。
黒い翼を背中に生やし、再びアスカロンの方へ飛翔したイネスの姿に、カルファは苦笑いにも似た表情を浮かべていた。
○○○
「……むぅ……」
暗闇の中、黒翼をはためかせながら飛ぶイネス。
――アスカロンに現れた少女が本当にクラリスの妹なのかすら定かではないでしょうし、ローグさん自身もそんな曖昧な案件に付き合っている暇はないでしょう?
カルファの言葉が、何度も頭を過ぎる。
「この国に認められようとするローグ様のお邪魔をするわけには、いきませんね」
ラグルドに、グランに、カルファ。
主であるローグは、着実にこの国で評価を上げ、存在を根付かせ始めていることに違いはない。
ましてや現在、皇国状況自体も芳しくはない。
皇国にとっても、ローグは必要不可欠な存在だろう。
「……聖地林、シャリスの墓とあれば、多少顔を出しておきたいものです。例の少女の言動も気になりますし……あの子が本物ならば、それこそシャリスの子孫ですし……」
ぶつぶつと考えながらイネスは任務受注用紙を眺めた。
「……ローグ様に、お暇をいただけないかどうか聞いてみるとしますかね」
それは、かつての友に思いを馳せたイネスが蘇生されて初めて、自分自身のことを決心した瞬間だった。