ケルベロス共(あいつら)、何っの役にも立たねぇクソ共だなぁ!? 何も出来ねぇならせめて身代わりくらいにはなってろっての!!」

 ユーリウス山脈の、大陸の北方へ。
 少しでも速く、少しでも遠く逃げなければ、()が来る。
 
 草原を一気に駆け抜けるは一つの熱風。
 炎の精霊イフリート。
 全身を炎に覆われた全長3メートルほどの大きな身体を持っている。
 ガッシリとした筋肉ばったような体躯と、一見無表情そうに見える一対の炎角を持つ精霊は、温度コントロール下で1人の魔人を小脇に抱えていた。

「まさか、こんなとこにまでアレが来るなんて思わなかった……! 思わなかった……ッ! イフリート、キャロルの元まで全力で逃げろ! あんな化けモンさっさと撒くんだよ!」

「……キャ……ロ……?」

「魔王軍の治癒吸血姫(リカバリーヴァンパイア)キャロル・ワムピュルスだよ! くっそ、ただでさえダブルパンチで弱体化してる上に辺境に飛ばされてるってのに……!」

 大陸全土には、かつて《人間》と《亜人》、《魔人》と呼ばれる3つの人種があった。
 《亜人》は生活地帯が森林地域に限局されていたが、《人間》《亜人》の生活地帯は大いに重なった。
 地脈から供給される魔法力(マナ)を駆使する《人間》と、この世のあらゆる邪気を魔力として駆使し人を支配すべくあの手この手を試していた《魔人》は次第に亀裂を深め、やがて1000年以上も続く人魔大戦へと発展していった。
 そんな人魔大戦をあっという間に終わらせるきっかけを作ったのは、たった3人の化け物だったという。

「『《ルシファー》とは、それ相応の強さを持ち合わせなければ成立しないのでは?』とかいう頭おかしい理論で、魔王軍(オレら)の中枢ボコりまくって颯爽と帰って行きやがった化け物共の一味……それがあの女だ! 中枢ボコられて機能ボロったとこに《世界七賢人》だのが現れて、俺たちはもうめちゃくちゃだ! アレ見たらとりあえず――」

 恐怖に戦き、魔人としてのプライドすらもかなぐり捨てて全力で離れていた、その時だった。

「――何をそこまで逃げてらっしゃるのでしょうか?」

 魔人の前に現れた一房の銀。

「《ルシファー》……なのでしょう?」

 にっこりと笑みを浮かべているようで冷徹極まるその刺すような眼光は、間違いなく魔力のそれだった。
 魔人の背筋にひやりと冷たいものが走った。

「私は以前、改めてお知らせしていたはずなのですが」

 一歩。

「《ルシファー》を騙り、その評判を無闇に陥れることは固く禁ずる、と」

 また一歩。

あれ(・・)は、恐怖の象徴であるべきだと。畏れ、戦かせるだけのものであるべきだと、人魔が入り乱れて戦をするために掲げる存在であるべきではないと。人魔が共存するための象徴であるべきだと。私は当時(・・)から言い聞かせていたはずなんですけどね」

 魔王(ルシファー)が恐怖の象徴としてただ存在していれば、人魔は大きく争うことはなかっただろう。
 魔王が下手に手出ししない以上、人類側も無論攻める気など起こるはずもない。抑止力という名を持ってして、自然と不可侵が護られるのだから。
 事実、女が君臨していた時代は人魔ともに見えない不可侵の境界線に守られていた。

 膨大な魔力を隠しもせずに、女は歩みを進めていた。

「いつから、《ルシファー》は戦の口実になっているのでしょう」

 真の《ルシファー》不在の現代では、魔族皆に魔王となる権利があるに等しい。
 ならば大陸南地区に進出し、散らばった人類の中で最も武力の低い《鑑定士》有するサルディア皇国を制圧すれば、と。そう意気込んでいた矢先の不幸だった。
 魔人は焦る口ぶりで自らの使い魔を呼んだ。
 
「ッッ! イフリート!」

「ギョイ」

 イフリートは身体に魔力を滾らせる。

炎壊魔法(エンカイマホウ)炎渦(エンカ)

 おおよそ人間には出せないであろう量の魔力砲撃。

 ゴォォォォォォォォッッ!!

 けたたましい熱量と、視界を全て覆うほどの紅が現れた。
 空気を、進路の物体全てを燃やす勢いで炎の渦が女を包み込む。

「よし、よし! よくやった、イフリート! 魔王軍内でも最強格の攻撃力を持つお前を連れてきてて、正解……っ!?」

「――破壊魔法魔王の一撃(ブラックホール)

 だが。
 女を包み込んでいたはずの大炎は、消失していた(・・・・・・)
 質量そのものを飲み込むような黒い円が、女の横に姿を現していた。
 どこまでも続く、果てしなく深い闇のようなそれを見たイフリートは、一歩、後ずさった。

「破壊、魔法?」

 魔人の口がわずかに震えていた。

「ま、魔王因子持ちしか使えないはずの、破壊魔法を、なんで……?」

「魔王因子持ち。なるほど、今はそのような者達が使えるのですね。かつて破壊魔法(ちから)を分け与えた《フェニックス》《バアル》《ベリアル》《パイモン》らのどれかの子孫、ということですか」

「よ、四大魔王様の御名まで……!?」

「彼らはよく尽くしてくれました」

「――う、嘘だ! そんな妄言には欺されない! 俺は、俺は……ッ! 《ルシファー》の座を手に入れるんだ! あの弱小国を攻め落として、そこから全世界に、俺の名を広めるんだッ!!」

 魔人は、覚悟を決めた様子でイフリートの身体に触れた。

「ハッ」

 人型をしていた炎の精霊は、形を変えて魔人の手に、炎を纏う一振りの刀として顕現した。

魔力付与(エンチャント)、闇属性魔法! 不死鳥の魂(フェニックス)ッ!」

 女は、微笑むようにその様子を見ていた。
 魔人の持った剣に、更なる灼熱の炎が浮かび上がっていた。

「なるほど。《フェニックス》の血筋の方でしたか」

「あぁ、そうだ! 俺の名はアガルーダ・フェニックス! 俺が、俺こそが魔王(ルシファー)になって世界を支配すべきなんだ!!」

 魔人――アガルーダは極大量の炎を纏った剣を振り抜いた。
 「では、僭越ながら――」と。女は右手に小さな魔力を込めた。
 小さく出来た混沌の闇から現れる、一筋の光を放つ長い糸。
 アガルーダの作り上げた熱風が、女の肌を掠める。

死霊術師(ネクロマンサー)ローグ・クセル様のお慈悲により再びこの世に還って参りました」

 女は、不敵に笑う。

「イネス・ルシファーと申します」

「……始祖の、魔王……様……?」

「以後、お見知りおきを。――破壊魔法堕天の一矢(ルシフェル)

 女――イネス・ルシファーの隣に出来た闇から飛び出たのは、光の力を纏った一本の矢だった。
 咄嗟にアガル-ダは、剣を盾にしてその一矢を防ごうとしたのだが――。

 パキッ。

「……ァ?」

 いとも簡単に、炎を纏った剣は折れた。
 魔人にとって、光属性の攻撃は致命傷だ。
 それは、イネスの放った光属性混じりの矢も例外ではなく、アガル-ダの胸を一瞬で貫いていく。
 言葉を亡くしたアガルーダは、草原の上に投げ出された。

「ルシファーの名を騙るどころか、ようやく見つけたローグ様の拠り所を奪おうとするとは、あなたも罪な方ですね」

 そう言うイネスの表情は、少し寂しげなものだった。