何度目か 終戦記念日が、
また やってくる前日。

ミサの後に 開くカフェに、
その旅人は、来られました。

島には、
常設された アートが 出来まして、
ずいぶん 国内外からの
お客様が 増えました。

隣の島の 教会は、
アート島に ふさわしく、
クラウドファンディングを
活用されて、
とても、
モダンな 建物に 修復を
されています。

その為、
アートをご覧になられる、
初めての お客様が、
ミサに 来られるように、
なっています。

私共の教会は、いかにも島の
チャペルらしく、
本当に 何の変哲もなく、
細やかモノで ございましょう。

それでも、
かつての宣教の方は
偉大な方でした。
先々代は、勿論の事
先代も、真の先導の方でした。

一時期は、
その崇高な 行いに、
近隣の島などに、
出向き、ミサをされていた
ほどなのです。

旅人は、
『ゲッセマネの園』を
聞きました。

本当に 久しぶりに その祈り場を
聞きました。

その人は、
この島に幽閉のごとく、
閉じ込められていたと、
島の長の手記で、
私も 読みました。

あの旅人が、
一体、どのようなモノを 目に
されたのかは、わかりませんが。

私は、
今は、療養の為に、
島を離れた 長の手記で、
目にしたのです。

『世界の賢人』と言われた人は、
この国に、読書文化を もたらした
人物でもあります。

かの方が 書かれた本は、
大正時代にベストセラー本となりました。
その売上金で、
出版社が 潤い、本格的に
印刷書物の値段が 下がります。

現代文学の1円本という、
『円本』が 誕生したのです。
この円本なくして、
この国に、
読書ブームは 起きませんでした。
読書大国の 礎となる
資金を、稼いだ本が、

かの方の 書かれた 本なのです。
それを、長の手記で、
知るというとも、縁を、
感じます。

私は、開戦時の 歴史には
明るく ありませんので、
手記に 書かれた 内容しか、
わかりません。

第二次世界大戦は、
この国と中国、そして米国での
緊張が 張りつめた中で、
堰を切る ような
出来事だった のだと、
手記から 感じます。

先の 中国との戦いに、
勝った とは言え、
国の力は 大変失われ、
とても 次の戦争など、
出来ない状況が、正直な
様でした。

ですから、
開戦傾向の 軍とは別に、
内閣は 米国に 調停を結びたい
その調停の役に、
宗教家として、世界に名もある
先生に、渡米を内密に
依頼していた というのです。

なるほど、
国の勅使として 秘密裏に
海を渡ったので なければ
国外には 出れる
当時では ないのは、
私でも 想像できます。

では、なぜ それは公表されず
今に 至るのか?
それは、
後の動きで、分かりました。

さて、手記を進むと

時の 米国大統領に、
直接、会うことの 叶う人物と
かの方を
国は、認識していました。

米国歴史で
1番長く就任した
その 大統領は
先生の 宗教家としての
姿や人格に、共鳴しています。

政治家でも、
国の役があるわけでも
外交官でもない
1人の宗教家を
信用した 瞬間でした。

大統領は 会見 すぐに、
和平調停の電報を

天皇に 打ったのです。
これで、
国は 開戦を 免れた
はずなのです。

しかし、電報直後

国の軍部は 米国の島を
襲撃してしまう。

パールハーバーです。

大統領も、先生もあまりの
事に 驚かれて
いました。

調停の 先生に、
大統領は、

米国の軍が、
攻撃を受けて 仇討ちと
躍起になり
抑えこむことが 出来ないと、
お詫びをされ
直ちに 帰国を促されます。


その後、再度
交渉を 試みられますが、
正式に
国民に ラジオで軍より
パールハーバーにて、
開戦を宣言が 成されたのです。

この国と、相手の国。
史実だけを 見れば
1つ1つの国の総意として
開戦したようですが、

手記には、
米国の民の多くが、
戦争回避の ミサを各所で
行っていたのが
分かりますし、

この国でも
同じくミサが 行われています。
結果 かの方は、
それが非国的な行い、
思想に問題有と 判断。

すでに、
本土から 追い立てられる
結核患者を 島は
受けていたので、

結核の療養と、
この島の サナトリウムに
実質、封じられました。

時の米国大統領を 動かした
人物です。

本土決戦と なりし時に、
人柱にする為だったと 資料が
軍に残っていた そうです。
そのように、
旅人が 教えて下さいました。

旅人が言いました
『ゲッセマネの園』は、

かの方が、
この島で 拓いた
グリーンチャペルなのです。

建物のない、
ただ 青空の下、植物を整え、
丸太を椅子にするような
祈り場を、
グリーンチャペルと
申します。

戦前戦後、
可能ならばと
本土から、この祈り場に
かの方のミサをと
人が 行き来したようです。

この 祈り場を、
かの方は
『ゲッセマネの園』とされました
その場で、

終戦を迎えるまで、
切に

戦争が終わり、
世界が平和になる事を
人類の贖罪を
祈られました。

その場所には、
ゲッセマネの如く
沢山の人と、
かの方の
祈りが染み込んでいます。


ゲッセマネ。

オリーブの油を搾る器です。
この島は、
1番の敷地を誇る
オリーブ畑があります。

奇しくも、
オリーブは、
平和のシンボル
国際連合の旗にも
オリーブの枝が描かれています
事は、ご存知でしょう。

神話に
荒れ狂う洪水の後
ノアの方舟に、
再び平和が訪れを告げる
鳩が オリーブを咥えて
描かれます。

以来
平和や 許しを求め者は
オリーブを着ける のです。

その様な
オリーブの油は
『黄金の液体』『最強の薬』と
重宝されたのです。

実際のゲッセマネにも
樹齢2000年のオリーブの古木が
並ぶようです。

かの方は、

島に拓いた
『ゲッセマネの園』には
フェニックスを
植えられました。

フェニックスは、
不死鳥から 名前をとられた
ナツメヤシの植物。

燃える火の中から
生まれ変わる 伝説の鳥に、
かの方は
何を なぞらえたの でしょう。


島は、
それほど 大きな島では
ありませんが、
とても豊かな島でした。

戦後の本土での食料不足。
にもかかわらず

瀬戸内海の島において、
奇跡的に、
自給自足可能な 島は、
ベーコンやチーズを
作っています。

それへは、
農業をするには、
耕地面積が狭い島に

多角な農業を
教えてくださったのも、
先々代でした。

『農業は聖業』
と、かの方が 取り組んだ
デンマーク方式の農業。

循環農法を目指し、
『太る農業』
農業、農畜産加工、販売
「6次産業」の進められました。

今、
先進的な その農業に
再度、光が当てられて
注目されています。

そうして 島は、
ミルクの島や、福祉の島と
言われたのです。

けれども
島は、
毒の島と、呼ばれる事に。

かの方が天に召され
国が 高度成長に入り

大量生産・大量消費・大量廃棄
好景気の しわ寄せを

ゴミという形で、憎悪と共に
島に
持ち込まれるように
なったのです。

それは、それほど昔では
実はありません。
今だ、土壌の毒を 排出洗浄する
作業が、静かにされています。


かつて
この島に いたかの方は、
戦争を回避する 実働の人であり、
世界の賢人の1人と言われた人。

国に、
本の文化を 作る礎をなし、

戦時中、
贄にと囲われたにも
かかわらず
戦後
内閣総理大臣の 補佐官にと
求められた人。

循環型の生活を
提案し、

この海に 囲まれ
人口が限られる国で、

1次産業から 6次産業を
まとめ
多角的に兼業な、
自給自足を促す策の、先見の人。

そして、
ただ、この世の平和を
『ゲッセマネの園』で、
祈り続ける人。

そのような かの方の
姿が、長の手で綴られた
手記を、

私は 読んで
この小さな島の 小さな教会で
ミサを するのです。

アーメン。