男性の名前がここで出てくる理由は、フォンには一つしか思い当たらなかった。

「ベンって、まさか」

 彼から目を逸らし、はっと己の発言に気付いたアンジェラは、小さく頷いた。

「……私の弟よ。体が弱いけど正義感が強くて、優しくて……いつかは私と同じ騎士になってみせるんだっていつも言ってた。剣術で私に勝てたことは一度もなかったけど、それでも騎士になれるって、私は信じていたわ」

 アンジェラがベンの顔を、あどけない笑顔と温和さを、本のページをめくるように思い出せるのは、まだ死んで間もないからだろうか。それとも、死に対する極限の復讐心が、想いを心臓の奥から引きずり出すのだろうか。

「こんなことを言って気を悪くしたら申し訳ないけれども、フォン、貴方がとても似てるのよ、ベンに。顔も、雰囲気も、考え方も――生き写しなの」

 或いは、フォンとベンが、あまりにも重なって仕方ないからだろうか。
 他の者であれば、ともすれば弟が帰ってきたと喜びかねなかっただろう。アンジェラがそうならなかったのは、死を受け止めていたからに他ならない。

「初めて会った時から、僕を弟のようだと思ってたのかい?」
「いいえ、気付いたのはもっと後よ。もしかすると、私はベンの記憶を心の隅に押しやっていたのかもしれないわ。悲しみを忘れて、怒りに換える為に」

 フォンの顔をまともに見ていなかったのに自分自身が気づいて、アンジェラは彼に目をやった。虚しさを伴う、くしゃっとはにかんだ表情をする彼女に、フォンは言った。

「悲しみはいつか癒えるよ。永遠に残る傷なんてない、僕が保証する」
「誰かを失った人みたいな口ぶりね」
「何も失ったことのない人間はいない。アンジーほどじゃないけど、僕もそうだから」

 苦しみと痛みのマウント合戦をするつもりは毛頭ないが、フォンにも喪失はある。
 自ら失ったものもあれば、奪われたものもある。だからこそ、今のように思い出すだけに留めて残った傷を塞げるのだとも、彼は教えたかった。
 幸い、アンジェラは、何が分かるのかなどと怒らなかった。代わりに彼女は、取り繕ったような笑顔をぱっと浮かべて、フォンの手元からナイフを抜き取った。

「――さて、話はこれでお終いにして、とってもとっても美味しそうなディナーといきましょ! せっかくの料理が冷めちゃうわ!」

 そして、一番近くに並べられた肉にナイフを突き刺すと、大口を開けて食べ始めた。
 騎士としてのマナーの類など一切無視したワイルドな食事法に、フォンは彼女なりの誤魔化しが混ざっていると気づいた。ただ、そこを深く追求するほど、彼は女性の心境に疎いわけでもなかった。

「……うん、食べようか」

 彼もまた、静かにナイフとフォークを持つと、食事にありつき始めた。
 高級な料理が並ぶ中、こってりとしたソースのかかった蒸した肉料理にかぶりついても、フォンにはどうにも味を感じられなかった。

(弟の面影を持つ人が忍者だと完全に知ってしまったなら、アンジーはどうするだろうか。躊躇いなく殺すのか、それとも……)

 アンジェラがどこまで知っているのかはともかく、自分は嘘をついている。
 忍者としてすっかり慣れたはずの嘘が、料理の味を掻き消してしまうほど胸を刺すとは、思ってもみなかった。
 ――だからだろうか、二人の姿をじっと見つめている者達に気付かなかった。

「……フォンの野郎、アンジェラとディナーなんて洒落込みやがって……!」

 彼らが座るテーブルよりずっと離れた酒場の奥で、山ほどの料理と酒をあおっているのは、クラーク率いる勇者パーティの面々だ。
 アンジェラに大敗した彼らだったが、目立った外傷もなく、即座に復帰自体は可能だった。名指しの依頼を今日もこなし、酒と食事を楽しんでいた時に、アンジェラとフォンが酒場に入ってきたのだ。
 当然、自分があの麗しき橙の騎士の隣にいるべきだと考えるクラークは機嫌を損ねる。ついでに彼の隣にいる資格を得たマリィも、機嫌を損ねる。

「クラーク、ずっとあの騎士に夢中なのね。私が隣にいるのに」
「え、何だって?」
「……何でもないわ」

 そっぽを向いた彼女が愛情ではなく、立場の危機感から苛立っているのは明白だった。
 間抜けな三角関係を呆れて、尚且つ面白そうに眺めているのはジャスミン達三人だ。全員、クラークを敬愛している素振りこそあるが、中身を知ってからの本心は真逆だ。

「兄ちゃんってば相当面食いだからねー。ま、私達も人のこと言えたもんじゃないけど。この調子だとマリィの存在なんてあっさり忘れられそうだよね」
「じゃ、ジャスミンさん、そういう言い方は……」
「言わせときな。マリィも利益目当てで付き合ってたし、遅かれ早かれ破局するって」

 豪華な料理を頬張る三人の話など耳に入らず、クラークはただ憎悪の視線をぶつける。

「クソ……本当なら、フォンじゃなくて俺があそこにいるはずなのによ……!」

 結局、彼らは酒場を出ていくまで二人を見てばかりで、ちっとも気づけなかった。

「………………」

 少し離れたテーブルから一行を見つめる、赤黒いおかっぱ頭の女性に。