フォンの頼みは、凡そ冒険者にとってはあり得ないものだった。

「……無理を言ってるのは承知だ、僕達は獅子の討伐を依頼されたんだから」

 冒険者は依頼をこなし、報酬を得て生計を立てるのだから、その討伐対象を逃がすなど信じられない選択だ。言い方によってはパーティ内で争いが起きかねないだろう。
 だとしても、フォンは山の均衡を守る道を選びたかった。忍者が単なる戦闘集団ではなく、元は世の平定を保つ組織であることの反動であったのかもしれない。

「けど彼らが、もし人間の身勝手の末に争い合ってしまったらと思うと、僕は……」

 クロエ達の批判も覚悟して話すフォンの言葉は、途中で遮られてしまった。

「拙者は賛成でござる! 師匠の深い慈悲の精神は素晴らしいでござる!」

 屈託ない笑顔を伴った、カレンの同意によって。
 よく見れば、誰も怪訝な顔などしていなかった。クロエは呆れつつもはにかんでいたし、サーシャはいつもの無表情だが怒りなど欠片も抱いていなかった。

「依頼の失敗って結構印象に響くんだけど……ま、言い訳はいくらでもあるから大丈夫」
「サーシャ、報酬、どうでもいい。獅子、誇り高い。サーシャ、尊敬」

 つまり、二人も同意してくれた、というわけだ。

「…………本当に、皆、ありがとう――」

 同じように山の安寧を選んでくれた仲間達にまたも深く感謝したフォンだったが、彼はすっかり、こんな提案を傍で聞いていて黙っているはずもない男の存在を忘れていた。

「――ちょっと待てよ……そんな勿体ないこと、出来るわけねえだろ」

 よろよろと立ち上がっていたクラークだけは、魔物の群れと黄金獅子を睨んでいた。
 フォン達が相談している間は状況を見守っていた魔物達だったが、クラークが落ちていた剣を拾い上げて突き付けると、たちまちぴりぴりとした空気が張り詰めた。

「お前らがやらねえってんなら、俺がとどめを刺す。まだ痛みは残るがな……有象無象の雑魚共をブチ殺して……黄金獅子の首を持って帰るくらいの、力は、あるぜ」

 クラーク以外に、そんな考えを持っている者はいない。
 クロエもサーシャも、カレンも、魔物達ですら、助けられていながら漁夫の利を狙う彼の傲慢さに心底呆れているようだった。フォンもまた、最早勇者を説得するのにも疲れてしまったのか、すたすたと彼の前まで歩いて行った。

「……ごめん、クラーク」
「何を謝ってんだ、てめぇはぶっごぉ!?」

 そして、顔面に叩き込んだ裏拳で、クラークを一撃で気絶させてしまった。
 泡を吹き、ハンサムな右頬を赤く腫らして倒れる勇者を、フォンは見下しすらしなかった。代わりに魔物の群れに向き直り、近寄りながらもクラークへの詫びを呟く。

「僕の身勝手で悪いけど、眠っててもらうよ。説得は出来なさそうだし……」
「ナイスだよ、フォン。これからもムカついたら顔面ぶん殴って分からせちゃえ!」
「暴力に頼るのは今回限りにしたいな。カレン、魔物達に黄金獅子を殺すつもりはない、毛を少しだけ欲しい、って伝えてくれないかな?」

 人間の接近に警戒する魔物達に、カレンがごろごろと喉を鳴らしながら声を出した。

「任せるでござる……にゃう、にゃあーお、ごろろ、にゃあーん、にゃあ!」

 本物の猫のような調子でカレンが話すと、人間からすれば理解できない言語ではあるが、魔物には通じたようだった。今だ半信半疑の感情は拭えないが、魔物達は黄金獅子を守る壁を掃い、長までの一本道を作った。
 フォンは敬意を払って一礼し、ようやく力が体に入ってきた獅子の傍に近寄り、まるで戦場における偉大な先駆けを労わるかのように、その毛並みを撫でた。

「大丈夫だ、君達の事情は分かった。きっと、山の平穏を保ってくれたんだね」

 獅子の唸り声が、フォンに返事をしたように思えた。
 彼は優しく伝えると、金色に輝く獅子の毛を少しだけ掴んで引き抜いた。彼がそれを、パーカーの内側から取り出した小瓶に入れても、獅子も魔物も抵抗はしなかった。

「いつかまた、僕じゃない人間が来るかもしれない。彼らに敵意がないなら……できるだけ送り返してあげて欲しい。人間の僕が、頼めることじゃないけどね」

 黄金獅子は、フォンの頼みに頷きはしなかった。ただじっと彼の瞳を見つめていたのが、或いは返事だったのかもしれない。

「にゃーご、にゃがにゃが、にゃろめにゃろめ」

 フォンが立ち上がり、獅子から離れると、カレンがわざわざ通訳までしてくれた。

「翻訳ありがとう、カレン。それじゃあ皆、帰ろうか」

 全てを終えた表情のフォンがそう言うと、仲間達は笑いながら頷いた。

「はー、疲れた! こいつらを引きずってドレイクのいるところまで連れて行って、しかも一泊してから下山なんて、考えただけで眩暈がしそうだよ」
「クラーク達は僕が先に運ぶよ。カレン、その間に野営地を設置しておいてくれ」
「あい分かった!」
「忍者、何でもできる。サーシャ、羨ましい」
「忍者がっていうか、フォンとカレンがなんでもできちゃうのかもね。ふふっ」

 勇者パーティを担ぎ、彼らは山の主に背を向け、広場を去ってゆく。
 ちょっぴり疲れの混じった声を、いつの間にか立ち上がった黄金獅子と彼の群れが、フォン達が山を下りるまで、ずっと、ずっと見つめていた。
 雨はやみ、暗い雲の隙間から月光が山を照らしていた。