とある朝、ギルディアの街。
冒険者が集まる、国全体を見ても賑やかで、それでいてちょっとばかり危ない街。
そんな街の、ほどほどの値段で泊まれる宿の一室で眠っていたクロエ・ディフォーレンは、近頃聞こえるようになった声で目を覚ました。
「――師匠……今のは……」
「まただ……ちゃんと集中……」
カーテンの向こう、土と木々で囲われた宿の庭から聞こえる声には聞き覚えがある。彼女は、普段はパイナップルのように纏めている金髪を結ばずにカーテンを開ける。
からりと晴れた空の下、窓を開くと、やはりいつも通りの光景が広がっていた。
庭の真ん中、早朝から逆立ちをしているのは、フォンとカレンの忍者師弟だ。
マルモ一家との騒動以降、フォンはカレンを弟子として鍛え上げることに決めた。それからずっと、朝はこうして忍者としての鍛錬を積んでいるのだ。
尤も、二人が修行をしているところを見たのは、クロエは初めてだった。いつもは声を聞いているだけだったので、修行用の『道着』と呼ばれる白い衣服を着ているのも、右手の人差し指一本で逆立ちをしているのも初めて見た。
しかも何故か、二人の隣には木の棒を携えたサーシャまでいる。彼女はいつも通りの黒のポニーテールと古びたマントの格好をして、カレンの動きをじっと見つめている。
「もっと邪念を削ぎ落して、カレン。常に感覚を研ぎ澄ますイメージをするんだ」
フォンは平然と指一本で体を支えているが、カレンは震えていて、今にも転びそうだ。
「は、はいでござる、師匠!」
必死に修業する彼女を見たクロエはくすりと笑うと、窓の外にいる三人に声をかけた。
「……朝から精が出るね、フォン」
そう大きな声ではなかったが、フォン達は気づいた。人差し指だけで全体重とバランスを支えながら、フォンは顔をクロエに向けて返事をした。
「ああ、おはよう、クロエ。ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん、気にしないで。それより今日は、どんな修行なの?」
「忍者の体幹と集中力を養う基礎訓練だよ。簡単な人差し指の片手逆立ちだけど、緊張感を持たせる為に、ちょっとでも体が揺れたら――」
フォンが言い終えるよりも先に、カレンの体がぐらりと揺れた。
「――ひぎぃっ!」
彼女は転ばないように姿勢を整えたが、サーシャは見逃さず、彼女の尻を木の棒で思い切り叩いた。ただの棒とはいえ、サーシャの力で叩かれれば相当痛い。
素っ頓狂な声を上げながらも必死に姿勢を整えるカレンを一瞥してから、フォンは顔色一つ変えずに、クロエへの説明とサーシャの礼を兼ねて言った。
「サーシャにお仕置きしてもらってる。付き合ってくれてありがとう、サーシャ」
「構わない。お前、修行して強くなる。サーシャ、強くなったお前、倒す……動いた!」
「んぎゃっ!」
またもサーシャがカレンの揺らぎを見逃さず、尻を叩いた。今度は体制を整えるまでに随分と時間がかかり、サーシャが構えたのを見て、慌てて逆立ちを続けた。
一度精神がぐらついたカレンが己を整えるには、どうやら時間がかかりそうだ。
「……これ以上やっても、お尻が赤くなるだけだね。クロエも起きたし、今日の修行はここまでにして、案内所で依頼を受けに行こうか」
フォンは軽く笑いかけると立ち上がり、クロエに告げた。
「クロエ、僕はシャワーを浴びてから一階に行くよ。少し待っててくれるかな?」
「急がなくていいよ、あたしも今から準備するしね」
彼が逆立ちを追えたのが修行の終わりの合図だと判断したのか、カレンもぴょん、と跳ね上がり、尻を擦りながら汗だくの道着の襟首を煽ぎながら言った。
「では拙者も、師匠の背中を流してから向かうでござる!」
キラキラした瞳で、あんまりにも余計な一言を足して。
隣にいるフォンは顔を真っ青にし、クロエは早朝から顔を顰める。サーシャですら、カレンの発言が何を意味するのかを知っているようで、冷めた視線を彼にぶつける。
「…………フォン、そういうことさせてるの?」
「してない、してない! カレン、訳の分からないことを言っちゃ駄目だよ!?」
「いえ、今日からさせていただく予定だったでござる!」
フォンは本当にそんなことをさせていないのに、カレンの発言が一層場を掻き乱す。
「背を洗い流すのは奉仕の精神、弟子の拙者が師匠に奉仕するのにおかしなこともありますまい! 勿論、いつも通りすっぽんぽんで参ります故!」
「「いつも通り!?」」
とうとう、クロエとサーシャがぎろりとフォンを睨みつける始末だ。
「そ、そりゃカレンだってシャワーを浴びる時は裸だろう!? 語弊だよ、これは!」
どうにかこうにかとフォンは必死に説得するも、二人の損ねた機嫌を直すのは相当な時間がかかるだろう。そして今のフォンには、そうするだけの技術はない。
「……シャワーを浴びる前に、保護者としてちょっとお話だね」
「サーシャが認めた奴、ふしだら、許せない。お前、説教」
窓が乱暴に閉まり、戦士がどかどかと宿に戻り、残ったのは愛しい様子の海猫だけ。
「…………なんでこうなるのさ……」
かれこれ何度目になるか分からない誤解に頭を抱えながら、フォンの一日は始まった。