どれくらい、時間が経っただろうか。
 疼くような痛みが、彼女の覚醒を促すように肌に刺さった。

「……ここ、は……?」

 薄暗く寒い空間。窓のない部屋で、カレンはゆっくりと目を覚ました。
 獣の姿のままの彼女は、最初、自分がどこにいるか理解できなかった。何が起きているのかと、上手く動かせない頭をゆっくりともたげると、彼女が転がっている冷たい床と視界の奥の狭間に、鉄格子が挟まっていた。
 加えて、カレンの両手足には重い鉄の枷が嵌められている。
つまり、彼女はマルモ一家にリンチされた後、どこかに拉致されたようだ。
鞄も持っていない自分が、拘束されているのだと理解した彼女はがしがしと体を動かすが、ちっとも外れる気配がないし、体に力も入らない。唸りながらそれでも力を入れていると、牢の外から彼女を嘲笑うような声が聞こえてきた。

「おうおう、ようやくお目覚めか? ここはどこだって、てめぇを散々ボコってやった俺達マルモ一家の地下牢だよ。獣にはおあつらえ向きだろ?」

 彼女を見下すように椅子に座り、げらげらと笑っているのは、手袋を嵌め、汚れた服を着た人相の悪い痩せぎすの男だ。誰とは知らないが、恐らくマルモ一家の構成員で、カレンが脱走しないように見張っているようだ。
 拉致されたという予想が当たり、ぎり、と歯を軋ませるカレンを男は小馬鹿にする。

「それにしても、まさか正体が魔物なんてな。近頃は孤児も捕まらなくて、資金繰りに焦ってたんだが、てめぇみたいな珍しい魔物ならいい値で売れそうだぜ。明後日、市場街の『闇オークション』でどんな値が付くか、楽しみにしとけよ!」

 しかも、捕まえただけでは飽き足らず、『市場街』とやらでカレンを売り飛ばすらしい。彼の言う通り、人に変化する魔物は高く売れるだろう。

「き、貴様ぁ……外せ、この枷を外すでござる!」
「急に威勢が良くなるもんだなあ、こいつ。もう一発殴ってやれば黙るかァ!?」
「ひぃっ……!」

 カレンはどうにか虚勢を張ろうとするが、男が格子を蹴り飛ばすと、たちまち体を縮こまらせた。受けた傷が治っていないのもそうだが、今の彼女の精神では、とても自分を殴った連中に勝てないと思い込んでしまっているのだ。
 涙目で抵抗しなくなるカレンを見て、男は腹を抱えて大笑いする。

「だははは! 勝てない相手だと分かった途端にビビりやがって、滑稽だぜ――」

 なんと惨めで、みっともない姿だろうかと自分を責め立てるカレン。
 人間の姿にすら戻れない弱さに歯噛みしていると、男は急に笑うのをやめた。

「――なんてね。でも、これで君の本質は見えたわけだね」

 次に発した男の声は、さっきまでの意地汚い声ではなかった。

「………………え?」

 思わず、カレンは怯えるのも震えるのもやめて、じっと男の顔を見た。
 男は彼女の前に立つと、首元の皮に爪を立てると、バナナの皮を捲るように自分の皮膚を剥ぎ取ってしまった。思わずカレンは小さな悲鳴を上げかけたが、その下にあったのは血管や筋肉ではなく、男よりもずっと白い肌だった。
 男が捲った肌は首からどんどん剥がれてゆき、口を過ぎ、目元を越える。そして顔の肌が完全に剥がれて地面に投げ捨てられ、彼がポケットから取り出した黒いバンダナを首に巻いた時、彼女の目に映ったのは悪党ではなかった。

「驚かせてごめんね、忍法・『変装の術』で忍び込ませてもらったんだ。ここは確かにマルモ一家のアジトの地下牢だけど、この場にいるのは僕だけだよ」

 格子の向こうでにっこりと笑ったのは、フォンだった。
 どうやら彼は、特殊な方法で作り上げたマスクを顔に被り、あたかもマルモ一家の子分のように成りすましていたようだ。こんな忍術を、カレンはちっとも知らなかった。

「フォン……!?」
「こうなると思って、先回りしてたんだ。今、牢の鍵を解くからちょっと待ってて」

 驚くカレンに簡単に説明を済ませて、フォンは格子にかけられた南京錠に手をかける。彼女が瞬きを二、三度している間にかちゃ、と音がして、堅牢な錠は外された。

「か、鍵をあんなに容易く……」

 静かに鉄でできた扉を開き、フォンが牢の中に入った。彼が手を差し伸べたことからも、彼がカレンを助けに来たのは明白だ。

「さあ、早くここから出ようか。ぐずぐずしてると地上のマルモ一家にばれちゃうしね」

 ところが、カレンは少し迷ったような仕草を見せてから、そっぽを向いた。

「……拙者は……悪党の、助けなど、借りんでござる」

 強がりにもならない強がりとプライドから、カレンはフォンの助けを突っぱねた。
 青い毛はしなだれて、暗がりでも分かるほど衰弱しているのに、カレンはプライドを優先させた。ここで朽ち果てるとしても、彼の助けを借りるものかと決心していた。

「正義の忍者として、せ、拙者は……一人でも、ここから……」

 ただ、フォンはカレンの本質を見抜いたと言った。
 だから、次にフォンが放った言葉は、説得でも、優しい宥めでもなかった。

「――忍者を名乗るなら、こんな程度の連中に捕まるな」
「……ッ!?」

 厳しい声だった。
 振り返ったカレンが見たのは、思わず心臓が委縮するほど冷徹なフォンの顔だった。
 クロエと一緒にいた時のとぼけた顔でも、カレンに掟を説く時の優しい顔でもない。師匠が弟子を懇々と叱る時よりもずっと、ずっと厳しい顔をしていた。
 息を呑むカレンは、目が逸らせなかった。怒りへの恐れと、自分が散々小馬鹿にしていた相手の豹変に困惑していたからだ。

「自己顕示欲と力の誇示の誤魔化しに忍者を使うな。プライドが高いのなら、それ相応の力を身に着けて初めて忍者を自称しろ。未熟ならせめて謙虚になれ」

 これまで何度も話した内容。違うのは、フォンが真剣に怒りを伴って話していること。
 蛇の如く睨みつける茶色の瞳に射竦められ、カレンは反論すらできない。

「できないなら、ごっこ遊びなんてやめてしまえ。今のお前は、ただの恥さらしだ」

 例え、忍者ではないと言われても、カレンは受け止めるほかなかった。
 自分に覚悟がないと知った今、フォンの正論がカレンの胸に突き刺さった。自分がやってきたのは単なる忍者ごっこで、正義を盾にしたお遊戯だというフォンの言葉を聞いて、カレンは俯くしかなかった。
 そんな彼女の様子を見てか、はたまた地上が少しだけ騒がしくなってきたのが聞こえたからか、フォンは硬い顔を解き、昨日と変わらない面持ちで彼女に近づいた。

「……まあ、説教は後にしようか。上でクロエ達が作戦を始めたみたいだし」
「作戦?」

 カレンを縛り付ける枷を、錠のように簡単に外しながら、フォンは答えた。

「ああ、むさくるしい男連中ばかりには効果覿面の作戦をね」

 微笑む彼はそう言いつつも、少し心配そうでもあった。