さて、フォン達に敗走したカレンだが、彼女はどうにか逃げおおせていた。
「ふう、ふう……ここまで来れば、なんとか……」
彼女が転がるように倒れ込んだのは、寝床として使っている、路地裏の隅。ベッド代わりの積み重なった藁しかないが、元は獣であるカレンからすれば立派な宿だ。
こんなところで暫く寝泊まりしているのだから、忍術で誤魔化さなければ、きっと酷い匂いだろう。ただ、放っておいたなら、或いは獣の匂いがばれなかったかもしれないが。
そんな藁の山に仰向けになり、カレンは苛立った調子で、卑怯者への怒りをぶつける。
「悪党どもに後れを取るとは、この十二代目カレン、一生の不覚! しかもよりによって、あのフォンでなく、仲間に気圧されるとは……!」
彼女は、はっと気づいた。
気圧される。自分が負けたと、負けていると脳に刻み込まれているのに。
「いや、いや、そんなはずはないでござる! 拙者は正義の忍者、悪の忍者に負けるなど有り得ないでござる! あの火遁の術さえ成功していれば、きっと……」
首を振り、必死に芽生えた弱気を押し殺そうとするが、最早手遅れだ。正義の意志が、クロエやサーシャの言葉によって崩され、綻び落ちてゆく。
『覚悟を持った忍者を馬鹿にする資格は、カレンにない』
『死ぬ覚悟ない、お前、甘ちゃん』
自分がどんな忍者か、知ってしまった。
勝てる相手とだけ戦ってきた。同じ忍者と戦った経験など一度もなかった。何より、勝つに決まっていると思い込んでいるのだから、死の覚悟など僅かにもしてこなかった。
その結果がこれだ。大敗を喫し、ちっぽけなプライドが瓦解した。
「……拙者は……怯えたのでござるか? 破れかぶれでしか、覚悟のない、拙者は……」
覚悟などない、見掛け倒しの臆病者。己の正体を悟り、カレンの目に涙が溢れる。
「…………うっ……ぐす、ひっぐ……うええぇぇん……」
堰を切って零れた涙は、もう止まらなかった。
あんまりにも自分が惨めで、情けなくて、どうしようもなくて、カレンはひたすら泣いた。きっと、涙のわけには、死と敗北への怖れもあったのだろう。
「うう、う、ぐす……」
このままずっと、一人で泣いていたかった。
気が済むまで、心が落ち着き、これからどうしようかと考える余裕ができるまで。
「――ようやく見つけたぜ、クソガキ」
ところが、世の中はそう甘くない。
「えっ……ぶごぉ!?」
涙を流して間もないうちに、カレンのすぐ目の前から野太い男の声がした。
誰だろうか、とカレンが赤くなった目を擦ろうとするよりも先に、カレンの腹に、太い足から繰り出された蹴りが直撃した。口から唾を漏らし、苦悶に顔を歪ませたままもんどりうつカレンの傍で、蹴りを叩き込んだ男が叫んだ。
「お前ら、昨日のガキだ! こんなところでピーピー泣いてやがったぞ!」
どうにか顔を上げたカレンの視界に飛び込んできたのは、顔に火傷の痕がある男。彼に呼ばれてやって来るのは、体の一部に火傷を負った男。
間違いない。昨日、カレンが罰を与えたマルモ一家の男達だ。しかもその後ろから、彼らの仲間らしい連中が三、四人やって来る。いずれも強面で、筋肉質の野蛮人である。
「な、何をするでござ、ぐ、う、うがあぁ!?」
ぜいぜいとどうにか息をしながら喚くカレンに与えられたのは、男の更に鋭い蹴り。
「何をするじゃねえよ!」
「昨日はよくもやってくれたな!」
今度は、一発では済まない。二発、三発、一人につき一発、もっと、もっとだ。
瞬く間にカレンは痣だらけになる。威勢はあっという間に消え失せ、体を縮こまらせてどうにか説得を試みようとするが、暴漢が命乞いなど聞くはずがない。
「ぐ、ふ、ひぎぃ! ま、まっで、やべで、まっで……!」
忍者としては凡そ有り得ない惨めな懇願は、罵声と激痛に掻き消される。
「自分から首突っ込んどいて、待ってはねえだろうよ!」
「まさか、自分はやられねえとでもたか括ってたのか? そんな覚悟もしてなかったなら、半端な気持ちで俺達マルモ一家に手を出したのを後悔するんだな!」
またも覚悟を問われ、返事すらままならず、カレンは顔や体、手足、至る所を踏みつけられ、とうとうぐったりと動かなくなってしまった。
呼吸すら弱弱しくなったカレンを見てもまだ報復し足りないのか、男達が足を大袈裟に振り上げる。腫れた顔面に狙いを定めて、踏み潰すかの如く。
「……お前ら、その辺にしとけ。もう伸びてるだろう」
しかし、路地の入り口から聞こえた嗄れ声を聞いて、一同はゆっくりと足を下ろした。
路地の入り口に立っているのは、五十代頃に見える厳めしい白髪の男。夜闇に溶け込むような緑青色の着物を身に纏った彼が歩いてくると、男達は姿勢を屈め、深く一礼した。
「マルモの親分! はい、多分気を失って……あっ、これは!?」
マルモ一家を仕切る親分、マルモが子分達の近くに来ると、成果を報告しようとした彼らの前で驚くべき変化が起きていた。
なんと、気絶したカレンの体が形を変え、獣毛に包まれた猫の魔物となってしまったのだ。目を丸くする子分の前で、興味深そうにカレンに顔を寄せたマルモが呟く。
「……驚いたな。まさか正体が人間に変身した魔物だとは、思ってもみなかったぜ」
「こいつは海猫です、普通は人間に変身しねえはずですぜ。親分、どうします?」
子分の話を聞き、マルモは少しだけ考えこんだ。
このままカレンを蹴り殺すのは簡単だ。だが、本来は持ち得ないはずの特殊な力を持った魔物は、一部の嗜好家からすれば喉から手が出るほど欲しいオンリー・ワンだ。
「……孤児よりもよっぽど高く売れるぜ。人に変身する海猫なんてな」
軽く鼻で笑い、マルモは子分達に命じた。
「お前ら、こいつを縛り上げてアジトに連れて行け。今度『市場街』で開かれる闇オークションに出品して、高値で売り飛ばしてやろうじゃねえか」
「「へい、親分!」」
子分達は隠し持っていた縄でカレンを縛り上げ、路地裏からこっそりと走っていってしまった。夜も更けた闇の中で、彼らの姿は誰にも見られなかった。
カレンは抵抗すらできず、ただ呻くばかりだった。