その日の夕方、青い髪を項垂れさせたカレンは、ただ一人でギルディアの街へと戻ってきていた。

「……拙者が、ここまで未熟とは……」

 彼女は結局、フォン達が依頼を達成するのも見届けずに、クロエに警告されるがまま、森からひっそりと姿を消していた。
 大通りの人混みをとぼとぼと歩く彼女に去来するのは、大きな悲しみと痛み。

(今まで拙者は、悪党などに敗北を喫した覚えがなかったでござる。今回も、負けるなど有り得ないと確信していたでござる。しかし……)

 忍者になってから、悪党に挑んで一度だって負けたことがなかった。数がどれだけいても燃やしてやったし、一対一の戦いではどんな敵でもノック・アウトしてきた。
 ところが、フォンだけは、これまでの敵とは何もかもわけが違った。

(自分以外の忍者と出会ったことがなかったとはいえ、あのフォンとやらと拙者の間に、こんなに力の差があるなど思ってもみなかったでござる。俊敏性、腕力、判断力、そして忍術のキレ……全てが、拙者より上だったでござる)

 敵を瞬時に見つけ、汗一つかかずにオーク五匹を一撃で倒した。
 何より、明らかに自分よりも強い忍者でありながら、全くそんなそぶりも見せず、暴言にすら穏やかな態度で接していた。怒りも嫌悪もなく、優しさだけがあった。

(何より、忍者としての在り方……決して慢心せず、己の力をひけらかさなかったでござる。掟を教える時も、拙者に注意する時も、拙者を思って話してくれたのでござるな)

 人の視線が気になって仕方なく、カレンは無意識にいつもの路地裏に入っていた。ここを左に曲がり、真っ直ぐ進むと、近頃カレンが手に入れた寝床に着く。
 家屋と家屋の間を擦り抜けるように、夕暮れに染まる細い道を歩く。青い髪が橙色に移り変わるカレンの脳裏に、ある想いが浮かぶ。

「……もしかすると、拙者の歩んでいる道は間違っているのでは……」

 フォンの言うように、善悪の在り方を今一度考えないといけないのではないかと。

(仮に間違っていなくとも、正義を貫くには力も足りなければ、フォンの言う忍者としての心得も足りていないでござる。独学では、ここが限界でござるか……)

 そもそも今まで、彼女は忍術と忍法、体術についてはきっちりと学んできたが、フォンがずっと話していた掟や道徳心は巻物や書物には一つも記されていなかった。彼にはお見通しだったが、実際にそれらについて勉強したことなど一度もなかったのだ。
 今ならまだ遅くないはず。過去の学びを捨て、新しい知恵を得ることで、本当に世の為に正しい忍者として成長できるのではないだろうか。

(二度と顔を見せるなと言われたが、教えを乞うべきではなかろうか。自分より強く、忍者の掟をしっかりと学んだ者に――)

 ふう、と大きなため息をつきながら、曲がり角に差し掛かろうとした時だった。

「――それって、本当に?」

 角の先から、女性の声が聞こえてきた。

「……?」

 まさか先客がいるのかと思い、カレンは反射的に足を止めた。忍者の技能の一つとして耳を研ぎ澄ますと、そこにいるのは一人だけでなく、もう一人いる。

「ああ、聞いたところだとフォンって奴、かなりの悪人らしいぜ」

 しかも、もう一人は男の声だ。おまけに、フォンについて話している。
 カレンは咄嗟に壁に身を寄せ、二人の話に聞き耳を立てた。魔物としての猫の耳が出てきてしまうほど集中していたカレンを知らない様子で、二人は話を続ける。

「表向きはただの冒険者らしいが、裏じゃ借金の取り立てに略奪行為、金になるなら何でもやるんだってよ。あんなもん、悪党以外の何物でもねえだろ」

 口にするのも憚られる、冷徹な犯罪が。

「じゃあ、マルモ一家との付き合いも……?」
「噂は本当みたいだぜ。連中と組んで、身寄りのない子供の人身売買にまで手を染めてるんだとよ。まったく、とんでもない奴らだぜ……」

 人の血が流れているのかと疑うほどの残酷な取引が。
 フォンについての信じられないくらい邪悪な話が、これでもかと出てきた。
 気づけば、カレンは歯を軋ませ過ぎて血が出てくるほど怒りに顔を滲ませていた。

「……やはり、あの一味……どうしようもない、悪党だったでござるか……!」

 ほんの一瞬でも、彼や彼の仲間が心優しい人間だと勘違いした自分がどこまでも間抜けで、愚かに見えた。それ以上に、自分に掟を説いたフォンが略奪に暴行、果ては人身売買までやってのける大悪党とは。
 道理で、昨日戦ったマルモ一家の肩を持つような態度を取っていたわけだ。闇取引の仲間であれば、正義の味方と敵対し、悪を守ろうとするのは何もおかしくない。
 そんな人間を、これまでどうしてきたか。

「危うく騙されるところだったでござる! 人身売買までしている外道共の教えなど乞う必要なし! 絶対に、絶対に許さんでござるッ!」

 決まっている。正義の名の下に、叩き潰してきた。
 今回も同様だ。ぐっ、と拳を握り締めたカレンは、寝床に帰るのも忘れて大通りへと戻っていった。重くも力強い足取りは、フォンだけでなく、彼の仲間も等しく地獄に叩き落としてやろうとする、悪魔の足音であった。
 そんな彼女の後ろ姿を、角から顔を覗かせて見ていたのは、噂話の二人組。そっと角の奥に戻ると、男はにやりと笑った。

「……ジャスミンの尾行が役に立ったな。報告通り、この路地裏に来てくれたぜ」

 狭い裏道で喉の奥から笑っていたのは、勇者パーティのリーダー、クラークだ。その隣にいるのは、クラークの恋人にして魔法使いの役割を務める、栗毛の少女マリィ。
 そう。カレンを尾行したジャスミンから、クラークは彼女の通り道を聞いていた。
 曲がり角で姿を見せないよう待ち伏せし、カレンに聞こえるようにフォンについてあることないことを吹聴し、彼女の怒りに火をつけたのだ。正義の忍者の手で、フォンや彼の仲間を始末させる為に。

「クラーク、ここに書いてあることを読んだだけで、上手くいくの?」

 紙をひらひらと揺らすマリィ。クラークは、ぎらぎらした歯を見せて一層笑う。

「ああ、あの女が暴れてくれりゃあ、フォンやあいつの仲間達と同士討ちしてくれる。良けりゃフォンは居場所を失って、また元鞘に戻るしかなくなるさ」
「……だったら、嬉しいな。またフォンと冒険ができるなんて」

 残酷な手段でフォンを引き戻す未来を予想して口元を歪ませるマリィの隣で、クラークはどう転んでも勇者パーティの再興に近づく希望を、心から喜んでいた。

「悪くても邪魔者が死ぬだけだ。俺達が処理する手間もないしな、ククク……」

 憂いなど何一つない。
 カレンが失敗しようとも、彼女を始末するのは、顔に泥を塗られた連中だけだ。銀の髪を撫でつけるクラークの頭に浮かぶのは、明るい未来だけだ。
 夕暮れが闇に染まる街の影で、笑い声は大通りの喧騒に掻き消された。