色んな方向で揺れる葉っぱを、三人は見逃さないように追いかける。フォンはわざと着いてこられる範囲内で目印を作っているようで、彼との距離はそう遠くないようだ。
右へ、左へとはならず、先程フォンが話した通り、足跡のある方角とは別方向に一直線。追いかけるのはそう難しくないが、フォンの姿はちっとも見えてこない。聞こえるのは木々が騒めく音だけで、足音はまるで聞こえてこない。
「それにしても、どこまで走っていったんだろう、フォン……」
息が切れそうなくらい走っているクロエが、心配を含んだ声でそう言った時だった。
「「ブモオオォォ!」」
豚の喉を絞ったような、それでいてとんでもなく甲高い声が、奥から響いてきた。
「……今の声、あっちの岩場の奥からだ!」
クロエの弓矢使いとして培ってきた耳は、声がした方角を察知した。声がしたのは、すぐ右側に見える、大きな岩が沢山重なったところからもう少し先に行った場所からだ。
フォンの声は聞こえなかったが、どう考えても複数の魔物の声が聞こえてきたのだから、彼が関連していないとは思えない。岩場に近づき、何が起きているのかと顔を出した三人の目に飛び込んできたのは、やはり、魔物の群れに囲まれたフォンだった。
「いた、フォンだ!」
クロエの視線の先にいる魔物は、醜悪そのものであった。
豚のような顔に大きな顎、せり出した牙。ぶくぶくと太った体に緑色の肌と、干し草で作った腰巻。爪先が地面に届きそうなほど長い腕の先には、棍棒が握られている。
特に五匹全員が携えている棍棒は、それだけでもフォンと同じくらいの大きさと太さで、オークの剛腕によって振り回されれば、容易く人間の体など潰してしまうだろう。
「あれが、テナガオークでござるか……」
カレンはテナガオークを見るのが初めてだったのか、フォンが彼よりもずっと巨大な魔物と対面する光景を前にして、息を呑んでいる。
「五匹の討伐、知ってた。けど、五匹で群れ、組んでる。サーシャ、予想外」
「まずいでござるな。あやつのような忍者如きでは、数で圧されて、棍棒で叩き潰されて終いでござる。ま、悪党の末路などそんなものでござるがな」
無言で戦況を見つめるクロエの隣で、カレンが鼻で軽く笑った。
同時に、フォンを逃がさないように取り囲んだテナガオークが、一斉に動いた。
「グブオォッ!」
出っ張った腹と肉の塊のような体つきに似合わず、オークの動きは俊敏だ。しかも五匹が同じ動きで攻撃を繰り出したのだから、並の人間ではまず避けられない。
――ただし、フォンは並の人間の限りではない。
テナガオークの振り下ろした棍棒がフォンに直撃する間際、彼の姿が消えた。オーク達の攻撃が命中したのはぬかるんだ地面で、泥を撒き散らすだけに終わった。
「な、あんなに速い、で、ござるか!?」
カレンが驚くのも当然だ。あらゆる動作が彼女の動体視力では捉えきれない、影霞が風に吹かれるかのような回避。はっきり言って、カレンに同じ所作はできないだろう。
しかも、フォンは攻撃を避けて、オーク達の背後に回り込んでいただけではない。オーク達でさえも知らない間に、魔物の首には真っ黒な縄が巻き付けられていた。棍棒を持ち上げた彼らが、互いにかけられた首縄の存在に気付いた時には、もう遅い。
「少しの間、眠っててもらうよ。忍法――『縄締めの術』」
五本全てを束ねた縄を持ったフォンが、彼らに背を向け、勢いよく縄を引いた。
「ブグ、オ、ブモォ!?」
自分よりもずっと小さいはずの人間の力で、オーク達は頭を同時に引っ張られた。首に架けられた縄が締め付けられるだけでなく、五匹は頭から地面に叩きつけられた。
いくら地面が多少なり柔らかいとはいえ、フォンの腕力で顔面を叩きつけられれば、ひとたまりもない。牙がへし折れたテナガオークは、一匹残らず昏倒し、痙攣するばかりとなってしまった。死んではいないが、立ち上がりもしないだろう。
実力を再確認するサーシャ、結果を予期していたクロエ、そして唖然と口を開くばかりのカレンの存在に気付いていたのか、フォンは彼女達を見ずに言った。
「クロエ、オークは僕が森の外まで運ぶよ。二人で近くの村の人に、引き取り業者を呼んできてもらえるよう、お願いしてくれないかな」
「分かった。お仕事お疲れ様、フォン」
フォンの頼みを聞いたクロエの前で、彼はオークをてきぱきと拘束していく。
全力を出したようにも見えない様を目の当たりにして、カレンはただ口を半分開くことしかできなかった。認めたくなくても、実力差を心臓に刻み込まれたのだ。
「……あれと同じことを、同じ速さでできる? 殺さずに、カレンにできるかな?」
後ろからかけられたクロエの声を聞いても、彼女は振り向けなかった。
「……せ、拙者は……」
肺の底からどうにかまともな音を絞り出したカレンに、クロエはぴしゃりと言った。
「今回は生け捕りをお願いしたけど、フォンはね、普段から『不殺』を貫いてる。そうしなきゃいけない時を除いて、殺さないで済ませる手段を選ぼうとする。それはフォンが甘いからじゃない、彼の強い信念の表れなんだよ」
それでもどうにか、自分が正しいのだと言ってやりたいと、口をわなわなと震わせるカレンだったが、クロエに両肩を掴まれて無理矢理振り向かされた。
「ひっ」
ぎろり、と睨むクロエと目が合って、彼女はたちまち委縮した。忍者なら決してあり得ない感情の露呈だが、この時点でほぼ確定していた。
彼女は忍者ではなく、正義感を振りかざすだけの魔物――なりそこないである。
「そんな覚悟を持った忍者を馬鹿にする資格は、カレンにない。フォンが悪人じゃないって分かったなら、街に戻って、二度とフォンに関わらないで」
生まれて初めてのアイデンティティの崩壊で、カレンは肩の力が抜けるのを感じた。
「…………」
自失状態となったカレンの、黄色の目の焦点が合っていないのを見たクロエは、もうカレンには何もできないと悟り、軽く肩を叩いて森の出口へと歩き出した。サーシャもまた、フォンを置いて、クロエについていった。
フォンは彼女を一瞥すらせず、暫くしてからオーク五匹を一つの縄で縛り上げて、彼の体重の二十倍以上は重いはずの肉塊をたった一人で引きずりながら立ち去った。
森にはただ、立ち尽くすカレンだけが残っていた。