五秒経っても、十秒経っても、起き上がらなかった。
空虚な眼窩で天井を見上げるだけのハンゾーを前に、最初に呟いたのはクロエだった。
「……やった……の、かな……?」
フォンは既に落ち着きを取り戻しつつ、彼女の問いに答えた。
「……ああ、もうハンゾーの術は解けた。元の人間の姿に戻った」
鱗を失い、大きな口を失い、尾を失ったハンゾーの元の姿を目の当たりにし、彼は呟いた。
「この勝負――僕達の勝ちだ」
彼がそう言うと、ようやく仲間達は安心したようだった。
今の今まで、彼女達は一瞬たりとも気が休まらなかった。不快なほど高鳴っていた心臓の音が、やっと収まってきたように思えた。
ところが、ただ一人だけ、フォンの結論に異を唱える者がいた。
「…………勝った、じゃと……くはは……」
ハンゾーだ。
まだ生きている本人が、唯一自分は終わっていないのだとアピールしていた。
「甘いぞ、フォン……儂はまだ、生きておる……死なぬ限り、何度でも……何度でも、忍者兵団は蘇るぞ……!」
「フォン、まだこんなことを言ってるけど、こいつをどうするの?」
「お前が殺せないなら、サーシャ、殺る。お前に人殺しの罪は着せない」
最低最悪の夢を尚も諦めないハンゾーを、クロエも、サーシャも、カレンも殺すつもりでいた。寧ろ、今この機会を逃せば、ハンゾーはまたも悪事を繰り返す。
重傷を負っているとしても、そう断言できる確信があった。だからこそ、クロエ達は、自分が殺して、フォンの代わりに終わらせた方がいいと結論付けていた。
ところが、フォンの下した裁きは、全く違っていた。
「――いいや、殺す必要はないよ。もう、ハンゾーは何もできない」
「え?」
彼は果たして、『人不殺』を貫いた。
なんと、あの極悪人のハンゾーを殺さないと言ったのだ。いかに人を殺さないのがフォンの信条といっても、彼を生かしておくのに利は一つもない。害で言うならば、百であっても足りないくらいだ。
誰もが分かっているのに、フォンはもう、ハンゾーに背を向けていた。
「あとのことは王都に任せよう。僕達が手を出さなくたって、彼は滅びる。そういう運命だ」
「師匠、何を言っているのでござるか? こやつを仕留めねば、また酷い事件が……」
どうにか考え直すように引き留めるカレンの声は、ハンゾーの高笑いが遮った。
「くははは! とことん、どこまでも甘い奴じゃな! 師匠にそっくりじゃよ、愚か者め!」
この期に及んで先代フォンを侮辱するハンゾーの目は、なんと元に戻っていた。
「儂の目を見よ、もう再生しておる! 喋れるほどに回復もしておる! これだけの速さで傷が治るのを知らんかったか!? 儂を甘く見るな、下賤な者どもめ!」
どうやら、改造された体は超速で肉体を再生させるらしい。鱗を含めた蛇の特徴は取り戻されていないが、目は完全に元に戻り、傷も修復されていっている。
もしも完全に目の機能が取り戻されているのなら、洗脳忍術も使いかねない。フォンが何と言おうとも、クロエはもう、彼を活かしておいてはいけないと決断していた。
「やっぱり殺した方がいいよ。フォンがやらなくても、あたしがやる」
「やってみよ、疲弊した体で、儂の心臓を一撃で砕き散らせるのならな! できぬと知っておるぞ、何をしようとも儂を殺すなど、無駄無駄――」
矢に手をかけるクロエを嘲笑するハンゾーは、正しく洗脳忍術を使うつもりだった。
仲間の一人を手中に収めれば、まだ抵抗の機会はある。この場は逃げ切って、また肉体を改造し、何年かの時を経て他の国を侵略すればいい。
上体を起こせるほどには回復した。まだ自分には時間が残されている。
復讐の機会も、フォンに地獄を見せる機会も残されているのだ。
「――む、だ?」
そう思っていたハンゾーの口から、ふと、何かが零れ落ちた。
やけに固い何かに気づいた彼は、高笑いをやめ、自分の手元を見た。
「……は? な、なにが、おきて、おる? わしの、わひのからだ、が?」
歯だった。
一本の歯が転げ落ち、呼吸と共に彼の傍に落ちたのだ。
誰もが驚愕し、青年の姿をした彼が慄いてからは早かった。なんと、ハンゾーの体がみるみるうちにやせ細り、皺だらけになり、髪がごっそりと抜け落ちた。
まるで一瞬のうちに何十年も歳を取ったかのような様に、クロエ達は息を呑んだ。
「ハンゾーの体が、まるで老人みたいに……どうなってるの……?」
「……自分の体の変化に気付けないほど、老いたんだな、ハンゾー」
ただ、静かに背中だけを見せるフォンは、彼がそうなるのを知っていた。
「お前は自分の体を何度改造してきた? 幼女から青年に、怪物に変化できるようになるまでに、何度寿命を無視した? そして――今のように、力を使い切ったことがあったか?」
フォンは理解していた。ハンゾーの体が、既に限界を迎えていたのだと。
禁術で何年も、何十年も改造を続けた肉体。百年を超えて生き続けた執念。それらにとって齎されるデメリットをひたすら無視し続けた体力。
いずれもがなくなる瞬間など、これまで一度もなかった。
だが、遂にその時が来たのだ。神の定めた命を侮辱し続けた報いを受ける時だ。
「その肉体は既に限界を迎えていたと、お前自身も分かっていなかったようだな。今までは精神力と鍛えられた肉体で誤魔化していたようだが、持ちうる力の全てを出し切った今、回復で無理に力を捻り出し過ぎたんだ。忍術ですら、もう自分を騙せない」
フォンが話している間にも、ハンゾーはますます衰えていく。蛇の神などと己を呼んでいたころの面影など微塵もなく、八十、九十、百歳を超えてもまだ老化は続く。
「これが、ハンゾーの正体でござるか? よぼよぼの何百歳かも分からぬ老い耄れが?」
立てなくなるほど筋肉が弱くなり、震えるだけの老人を見て、流石の仲間達も、彼を殺そうという気持ちを失った。こんな惨めな様の男に、とどめを刺す気にもなれなかった。
「じゃあ、自分で改造し続けたハンゾーの体が、元に戻ってるってこと?」
「ああ。だから僕は、何をするつもりもなかったんだ。今の奴に、何も出来るはずがない」
彼らの会話を聞き、ハンゾーは何かを言おうとしていた。
ところが、もう口が開いても、意味のある言葉は出てこなかった。
「わあ、あ、はひ、はひゅいい……」
返ってくるのは、意味のない発言だけ。誰も聞き取れない虚言だけ。
無限の隆盛を手放し、魂の在り処すら失った老人の夢は、最悪の形で終わった。
「ハンゾー、お前が最も望んだ永遠は、絶対に与えられない。罪を償う時だ」
フォンが告げた通り、ハンゾーの邪悪な願いは、終焉を迎えたのだ。
空虚な眼窩で天井を見上げるだけのハンゾーを前に、最初に呟いたのはクロエだった。
「……やった……の、かな……?」
フォンは既に落ち着きを取り戻しつつ、彼女の問いに答えた。
「……ああ、もうハンゾーの術は解けた。元の人間の姿に戻った」
鱗を失い、大きな口を失い、尾を失ったハンゾーの元の姿を目の当たりにし、彼は呟いた。
「この勝負――僕達の勝ちだ」
彼がそう言うと、ようやく仲間達は安心したようだった。
今の今まで、彼女達は一瞬たりとも気が休まらなかった。不快なほど高鳴っていた心臓の音が、やっと収まってきたように思えた。
ところが、ただ一人だけ、フォンの結論に異を唱える者がいた。
「…………勝った、じゃと……くはは……」
ハンゾーだ。
まだ生きている本人が、唯一自分は終わっていないのだとアピールしていた。
「甘いぞ、フォン……儂はまだ、生きておる……死なぬ限り、何度でも……何度でも、忍者兵団は蘇るぞ……!」
「フォン、まだこんなことを言ってるけど、こいつをどうするの?」
「お前が殺せないなら、サーシャ、殺る。お前に人殺しの罪は着せない」
最低最悪の夢を尚も諦めないハンゾーを、クロエも、サーシャも、カレンも殺すつもりでいた。寧ろ、今この機会を逃せば、ハンゾーはまたも悪事を繰り返す。
重傷を負っているとしても、そう断言できる確信があった。だからこそ、クロエ達は、自分が殺して、フォンの代わりに終わらせた方がいいと結論付けていた。
ところが、フォンの下した裁きは、全く違っていた。
「――いいや、殺す必要はないよ。もう、ハンゾーは何もできない」
「え?」
彼は果たして、『人不殺』を貫いた。
なんと、あの極悪人のハンゾーを殺さないと言ったのだ。いかに人を殺さないのがフォンの信条といっても、彼を生かしておくのに利は一つもない。害で言うならば、百であっても足りないくらいだ。
誰もが分かっているのに、フォンはもう、ハンゾーに背を向けていた。
「あとのことは王都に任せよう。僕達が手を出さなくたって、彼は滅びる。そういう運命だ」
「師匠、何を言っているのでござるか? こやつを仕留めねば、また酷い事件が……」
どうにか考え直すように引き留めるカレンの声は、ハンゾーの高笑いが遮った。
「くははは! とことん、どこまでも甘い奴じゃな! 師匠にそっくりじゃよ、愚か者め!」
この期に及んで先代フォンを侮辱するハンゾーの目は、なんと元に戻っていた。
「儂の目を見よ、もう再生しておる! 喋れるほどに回復もしておる! これだけの速さで傷が治るのを知らんかったか!? 儂を甘く見るな、下賤な者どもめ!」
どうやら、改造された体は超速で肉体を再生させるらしい。鱗を含めた蛇の特徴は取り戻されていないが、目は完全に元に戻り、傷も修復されていっている。
もしも完全に目の機能が取り戻されているのなら、洗脳忍術も使いかねない。フォンが何と言おうとも、クロエはもう、彼を活かしておいてはいけないと決断していた。
「やっぱり殺した方がいいよ。フォンがやらなくても、あたしがやる」
「やってみよ、疲弊した体で、儂の心臓を一撃で砕き散らせるのならな! できぬと知っておるぞ、何をしようとも儂を殺すなど、無駄無駄――」
矢に手をかけるクロエを嘲笑するハンゾーは、正しく洗脳忍術を使うつもりだった。
仲間の一人を手中に収めれば、まだ抵抗の機会はある。この場は逃げ切って、また肉体を改造し、何年かの時を経て他の国を侵略すればいい。
上体を起こせるほどには回復した。まだ自分には時間が残されている。
復讐の機会も、フォンに地獄を見せる機会も残されているのだ。
「――む、だ?」
そう思っていたハンゾーの口から、ふと、何かが零れ落ちた。
やけに固い何かに気づいた彼は、高笑いをやめ、自分の手元を見た。
「……は? な、なにが、おきて、おる? わしの、わひのからだ、が?」
歯だった。
一本の歯が転げ落ち、呼吸と共に彼の傍に落ちたのだ。
誰もが驚愕し、青年の姿をした彼が慄いてからは早かった。なんと、ハンゾーの体がみるみるうちにやせ細り、皺だらけになり、髪がごっそりと抜け落ちた。
まるで一瞬のうちに何十年も歳を取ったかのような様に、クロエ達は息を呑んだ。
「ハンゾーの体が、まるで老人みたいに……どうなってるの……?」
「……自分の体の変化に気付けないほど、老いたんだな、ハンゾー」
ただ、静かに背中だけを見せるフォンは、彼がそうなるのを知っていた。
「お前は自分の体を何度改造してきた? 幼女から青年に、怪物に変化できるようになるまでに、何度寿命を無視した? そして――今のように、力を使い切ったことがあったか?」
フォンは理解していた。ハンゾーの体が、既に限界を迎えていたのだと。
禁術で何年も、何十年も改造を続けた肉体。百年を超えて生き続けた執念。それらにとって齎されるデメリットをひたすら無視し続けた体力。
いずれもがなくなる瞬間など、これまで一度もなかった。
だが、遂にその時が来たのだ。神の定めた命を侮辱し続けた報いを受ける時だ。
「その肉体は既に限界を迎えていたと、お前自身も分かっていなかったようだな。今までは精神力と鍛えられた肉体で誤魔化していたようだが、持ちうる力の全てを出し切った今、回復で無理に力を捻り出し過ぎたんだ。忍術ですら、もう自分を騙せない」
フォンが話している間にも、ハンゾーはますます衰えていく。蛇の神などと己を呼んでいたころの面影など微塵もなく、八十、九十、百歳を超えてもまだ老化は続く。
「これが、ハンゾーの正体でござるか? よぼよぼの何百歳かも分からぬ老い耄れが?」
立てなくなるほど筋肉が弱くなり、震えるだけの老人を見て、流石の仲間達も、彼を殺そうという気持ちを失った。こんな惨めな様の男に、とどめを刺す気にもなれなかった。
「じゃあ、自分で改造し続けたハンゾーの体が、元に戻ってるってこと?」
「ああ。だから僕は、何をするつもりもなかったんだ。今の奴に、何も出来るはずがない」
彼らの会話を聞き、ハンゾーは何かを言おうとしていた。
ところが、もう口が開いても、意味のある言葉は出てこなかった。
「わあ、あ、はひ、はひゅいい……」
返ってくるのは、意味のない発言だけ。誰も聞き取れない虚言だけ。
無限の隆盛を手放し、魂の在り処すら失った老人の夢は、最悪の形で終わった。
「ハンゾー、お前が最も望んだ永遠は、絶対に与えられない。罪を償う時だ」
フォンが告げた通り、ハンゾーの邪悪な願いは、終焉を迎えたのだ。