忍者兵団の亜人に真っ先に切り込んだのは、やはりアンジェラだった。
苦無や他の忍術を用いて迫りくるミノタウロスやドワーフ、ケンタウロスは凡人が見ればそれだけで失禁しかねない脅威だ。しかし、怒りに満ちた女騎士には関係ない。
「邪魔をしないで頂戴、雑兵がッ!」
突き刺し、穿つが如く放たれた蛇腹剣は、敵の頭を、腕を斬撃で奪い去る。
「ブゴオォ!?」
「人間風情が、ぎゃばぁ!」
自分に肉薄しようとするアンジェラを前にして、リヴォルも同様に騎士を屠る。人形に忍ばせた刃や針で騎士を惨殺するだけでなく、自らの左腕で容易く敵の首をへし折るのだ。
「ほらほら、どうしたの? 早く私を止めないと、増援の連中も死んじゃうよー?」
「舐めた真似を……言われなくても、地獄に送ってやるわ!」
併せて八人の忍者をあの世に送り、とうとうアンジェラはリヴォルに接近した。
彼女の蛇腹剣は距離があっても相応の威力を保つが、近距離であれば遠くを攻撃するよりもはるかに高い攻撃力を誇る。
鞭のように敵を捕獲するのも、四肢を斬り落とすのも難しくない――ましてや、相手がフォン並みの忍者ならまだしも、振るった刃の一撃で絶命するような雑兵なのだ。
「この距離、この速度、もらった!」
だから、彼女は両腕の『ギミックブレイド』でリヴォルを薙ぎ払おうとした。
さっきまでの雑魚に放っていた斬撃とは別格の速度、威力。命中は間違いないと確信した。
「よっと!」
ところが、彼女どころか、人形すらも、アンジェラの必殺技を簡単に回避してのけた。
「なんですって!?」
人形を操ってカウンターを仕掛けようとするリヴォルから僅かに間を取りつつ、半ばリスクすら背負うほどの至近距離で、彼女は再び畳みかけようとする。
だが、斬撃は地面を削り取り、周囲の忍者を裂くばかりで、まるで当たらないのだ。
「攻撃が、当たらない!? どうして!?」
あらゆる技の軌道が見えているかのように、リヴォルは挑発同然に笑う。
「当たり前だよ、一度戦った相手の攻撃を避けるなんて、忍者には難しくないよ! さっきから斬り殺してる雑魚ならともかく、私におもちゃの斬撃なんて無意味なんだよ!」
「そんなことが、あって、たまるかあぁ!」
こんな調子で嘲笑われれば、アンジェラが平静でいられるはずがない。
「落ち着け、アンジェラ! 俺がそっちに行く、それまで耐えろ……このッ!」
忍者の群れに足止めされていたアルフレッドが、ようやく彼らを薙ぎ倒してアンジェラのもとへと向かおうとしていた時には、既にリヴォルが彼女の喉元に狙いを定めていた。
「これで――とどめッ!」
気づけば自身が死地に立たされていると知った時には、後の祭り。
レヴォルの凶刃が、アンジェラの喉に深々と突き刺さろうとしていた。
「させる、かああぁ!」
その刹那、アルフレッドが選択したのは、敵への反撃ではなかった。
「ぐはッ……!」
振り払われた刃は、アルフレッドの腹から胸元にかけて深く斬り裂いていた。
目の前で血が噴き出て、王子が地に伏せ、アンジェラはやっと我に返った。片目が血で汚れて、視界が遮られているのも構わず、彼女は王子に駆け寄った。
「――王子!」
「ぐう、俺に構うな、アンジェラ……! 人形の右腕は奪った、今のうちに距離を取れ!」
確かにアルフレッドの言う通り、攻撃したレヴォルの右腕は、銀色の刃で破壊されていた。
(ふーん、やるじゃん、あの王子様。けど、所詮その程度なんだよね)
感心するリヴォルだが、ぶらぶらと揺れる腕を邪魔だと判断して引き千切ったレヴォルの行動が示す通り、さして大きな怪我ではない。
寧ろ、敵を一人行動不能にして、もう一人の視界を奪った彼女の方が有利だ。
(さっきの一撃で、片目に血がかかったね! 視界が遮られた女に、私の攻撃が避けられるはずがないよ! ましてやレヴォルとの同時攻撃なら猶更、抵抗は全部無駄ってことっ!)
アンジェラとアルフレッドを囲むようにして迫りくる人形使いを見て、王子はアンジェラが自分を置いて一度退くことを期待していた。自らの命を犠牲にしても、あの忍者を倒せる機会を作るべきだと判断した。
ところが、なんとアンジェラはまだ、その場で蛇腹剣を振るう準備をしていたのだ。
「おい、なぜ逃げない!? 敵が来るぞ、早くここを離れろ!」
血の付着した右目を閉じ、肩で息をする彼女は、覚悟を決めた瞳で敵を見据える。
「そうはいきません、王子。ここがやつを仕留める、最後の好機だから!」
「駄目だ、奴らはこちらの攻撃を全て避けるんだ! 頼む、逃げてくれ、アンジェラ!」
傍から見れば勇猛な様だが、リヴォルからすれば単なる無謀であり、惨めに死ぬ人間が自己を肯定する為に勇気を奮っているように見せかけているだけに過ぎない。
つまり、相手は自ら認めたのだ。次の攻撃を避けられるはずがないと。
(逃げない? 成程、諦めたんだね! だったら、ちゃあんと殺してあげるねッ!)
アンジェラの正面からレヴォルが、背後からリヴォルが迫る。
倒れこむアルフレッドがどうにかもう一度盾になろうとするが、体に力が入らない。
せめてどちらだけでも仕留めようと、女騎士の蛇腹剣は鎌首をもたげたが――。
「行くよ、リヴォル! 忍法・秘伝奥義『双刃殺』ッ!」
前後から放たれた煌めく刃が、アンジェラの腹を、胸を貫いた。
「アンジェラ――ッ!」
虚しくも、ギミックブレイドの二つの首のうち、一つはレヴォルの反撃で破壊された。黒い紐のような素材で繋がれた刃の関節が、音を立てて地に落ちた。
つまり、彼女の攻撃はレヴォルに届かなかった。
愚かな反撃の末路を悟り、リヴォルは口が裂けるほど大笑いしてみせた。
「あはははは! 私達の同時攻撃が避け切れなかったから、せめてレヴォルだけはどうにかしようと考えたみたいだね! けど、そっちにも攻撃が届いてないじゃん!」
女騎士の腹から、口から滴る血が地面を濡らし、リヴォルの足元まで広がっている。
随分と多くの血を流す無様な死にざまだと、彼女は思った。
「散々私に復讐を果たすなんて言っておきながら、所詮忍者の敵じゃあ……」
そこまで言って、リヴォルは違和感に気づいた。
血の量が多い。人ひとりから流れるにしては、あまりに多すぎるのだ。
ちょうどもう一人、誰かが致死量の血を噴き出していれば、双方の足元に血液の水溜りを作るだろうか。そしてその血は――リヴォルの腹から流れているのだ。
「……あ、あれ……なに、が……?」
人形使いは、赤い液体を垂れ流す口から言葉を漏らした。
そんな彼女に声をかける者は、正面にだけいた。
「……避けるなんて、誰が言ったのかしら?」
リヴォルに背を向けたまま、鎧を鮮血で染め上げたアンジェラだ。
「お前が、視界の届く範囲で、全ての攻撃を避け切ることは……知ってたわよ……だったら、油断させればいいのよ……見えないように、直前で避けられないように……」
彼女は、最初から逃げるつもりも、避けるつもりもない。そこまでは、リヴォルの予想通りだった。しかし、二つだけ、彼女が予想できていないことがあった。
アンジェラ・ヴィンセント・バルバロッサが、既に生きるのを諦めていること。
己の命と引き換えにしてでも、仇敵を仕留めようと決めていたこと。
「――私自身で視界を塞がれれば、致死の一撃だって、命中するでしょう……?」
彼女の作戦は成功した。
アンジェラの放つギミックブレイドは、リヴォルの心臓を貫いていた。
自らの腹を貫通し、敵の心臓に突き刺さっていたのだ。
「ご、ぼっ――」
真実に気付き、吐血で刃の銀色が赤く染まるのに気付き――リヴォルは、斃れた。
「が、はぁ……!?」
戦いの騒ぎが遠くなる。耳が、目が、心臓の機能すら鈍くなる。
「なんで、どうして……体が、動かない……?」
血だまりの中に沈んだリヴォルの肌と髪が赤く染まり、感じなくなるあらゆる身体機能の代わりに、痛みだけが肉体を支配してゆく。
目を見開き、流れる血が止まらない様を嫌でも見せつけられる。
息が荒くなり、呼吸する度に血を噴き出す彼女が見るのは、眼前に斃れるレヴォル。
「動いて、お願い……レヴォル、胸が痛いの……苦しいの。声も、もう、出ないの」
糸の切れた人形は、何も喋らない。動きもせず、血で染まるばかり。
「レヴォル、ねえ、返事をして? 私、一人になっちゃう、また、一人、に」
自分が操らなければ意味がないと忘れてしまったのか、息も絶え絶えにリヴォルは彼女の名を呼ぶ。人から奪い続けた少女が、死の間際になって絆を求める。
なんと愚かで、惨めで、滑稽な様だと誰に嘲笑されようとも、彼女は縋った。
「孤独は嫌、一人は嫌、レヴォル、ハンゾー、お兄ちゃん、誰でもいいから、私を――」
誰でもいい、何でもいい、一人にしないで。
隠されていたあの日々と同じに、元に戻さないで。
意識すら朦朧としてきたリヴォルの目の前で、ようやく、一つの変化が起きた。
『――何ヲ言ッテイルノ?』
レヴォルが動いた。誰も操っていないはずの人形が動いて、カタカタと呟いた。
『――貴女ハ、最初カラズット、独リ、デショウ?』
それは、幻覚だったのだろうか。或いは、悪夢の一端だったのだろうか。
どちらにせよ、リヴォルの残り少ない命の灯を削り取るには、十分過ぎた。
「……嫌、嫌、嫌あぁ、あ、ぁ」
ぱくぱくと魚のように口を動かし、どこでもない方角に目を剥いたのが最期だった。繋がりを求め、繋がりを奪い続けた忍者は、誰とも繋がれないままに死んだ。
指の先、心臓の鼓動まで動きを止めた彼女を、同じく地に伏せるアンジェラが見ていた。
(……死んだ、か。やったわよ、パパ、ママ……ベン……仇を取ったわ……)
果たして、彼女は目的を達成した。家族の仇を、今ここに取ったのだ。
だが、彼女の命も仇敵と同じく、風前の灯火であった。寧ろ体を貫いた傷が三つもあるのだ、この時まで命を保っていた方が奇跡だと言ってもいい。
(でも……私も、ここで死んじゃうけど……ごめんなさいね、フォン……貴方を助けには、いけないわ)
なるべく、死の間際には後悔を残したくなかった。
(……言っておけば……良かったわね……)
それでも、ただ一つだけ、胸の内に秘めた思いだけはあの世に持っていきたくなかった。
(貴方のこと……結構、好きだったって……あの時のキスも……冗談じゃなかったって)
カルト事件を解決した時のキス。冗談交じりのからかい程度のキス。
そう思っていたのは、フォンだけだ。アンジェラは既に、弟に似て確かな優しさと強い勇気を持つ彼に、仄かな愛情を寄せていたのだ。
といっても、もう手遅れである。彼女はこれから、ここで朽ちる。
(まあ、全部遅いわよね……せめて、貴方達だけでも生きて――)
ゆっくりと瞳を閉じた。家族の待つ空の上へと、これから向かう。
――はず、だった。
「――死ぬなよ、騎士アンジェラ」
ぐい、と彼女の体が持ち上げられた。
何が起きているのか、どうなっているのかと目を開き、彼女はわが目を疑った。
「……アルフ、レッド……?」
アルフレッドだ。
息も絶え絶えのありさまであるはずのアルフレッド第一王子が、アンジェラの肩を担いで、歩き出したのだ。自分も鎧を砕かれ、刃傷がふさがっていないのに、だ。
「君は俺よりずっと偉大な騎士なんだ……死んでくれるな、こんなところで……」
「王子、でも、貴方も怪我を……!」
宮殿の方に、引きずるようにして歩む王子もまた、虫の息だ。
「俺は、ミルドレリア第一王子、アルフレッドだ……こんな程度で、死にはしないさ」
「ですが、逃げ切れません! この傷では、忍者がすぐに……」
アンジェラの言う通り、残された忍者兵団は早くも二人に目を付けた。
ところが、彼女が思っていたよりも早く死は来なかったし、襲撃もなかった。なぜなら、彼女達の後ろには既に、騎士達がこれでもかと並んでいたからだ。
「お前達、王子とアンジェラさんを死守しろ!」
「絶対に死なせるなよ、いいな!?」
「救護班のもとまで死力を尽くして連れて行け! 鼠一匹、この後ろを通すな!」
戦い方を学んだとはいえ、まだ単体のスペックは忍者の方が高い。増援はまだ来るだろうし、最強の騎士と王子という精神的支柱の喪失は大きい。
それでも、だとしても、騎士はアンジェラ達を死守すると決意していた。
「……あなた達……!」
襲い来る忍者兵団を迎撃する鎧の雄姿を見つめるアンジェラに、王子は掠れ声で言った。
「……守ってくれる誰かがいる……孤独じゃないから、俺達は、勝てたのさ……」
一人の忍者に対して三人の騎士が挑み、一人を失って人間側が勝つ。若しくは人間側に何の損失もなく勝利する。リヴォルを失ったことは、忍者側に大きく響いていた。
騎士たちの勝利が少しずつ近づくのを背中で感じながら、宮殿の中に入り、医療器具を揃えた騎士団専属の救護班のもとへと歩み寄るアルフレッドが呟いた。
「アンジェラ……戦いが終わって、生きていたなら……」
「なんですか……? 求婚なんて言うなら、あいにくですが、私には……」
冗談を返すくらいには気力が回復したアンジェラの前で、アルフレッドが床に転がった。彼は天井を眺め、怪我の治療を受けながら、胸中を吐露した。
「……違う。俺は……亜人との関係を、見直したい」
即ち、自分の、人間の過ちを終わらせる決意を。
「俺の代で、人間が生み出した憎しみを終わらせたい……俺の死を望むなら、俺の死で蟠りが消えるなら……その時まで……この命は、絶やさせないさ」
恐怖を味わったからではない。死を間近にしたからではない。
造り上げた憎しみと不和の果てが、何よりも残酷な戦いを生み出すと知ったからだ。抑圧が当然だと思い込み、疑いすらしなかった常識を、彼の代で終わらせると決めたのだ。
自分も傍に寝転び、鎧を剥がされるのを感じながら、彼女は答えた。
「……手伝いますよ、王子。まずは亜人達の歴史から、お勉強ですがね……」
二度目の冗談に、アルフレッドはやっと、潰れた喉で笑った。
「お手柔らかに……頼む」
外からは、騎士達の雄叫びが聞こえてくる。忍者の怒声は、僅かに小さくなってゆく。
願わくば、この戦いが、人と亜人の最後の戦いとなるように、二人は祈りたかった。
いいや、そうしなければならないのだ。
(フォン、未来は変わるわ)
視線を僅かにずらし、アンジェラは宮殿の窓から見える空を仰いだ。
(だから、勝って。勝って必ず、未来を繋いで)
忍者の長に挑む、愛しい貴方達へ。
変わりゆく未来に、欠けてはいけない人達へ。
想いを雲に乗せて、アンジェラはもう一度、静かに目を閉じた。
「――アンジー?」
ふと、死屍累々の廊下を走り抜けるフォンが、少しだけ振り向いた。
遠すぎる気配の中、アンジェラに呼ばれたような気がしたのだ。声が届く距離ではないのに、どうにも耳元で、無事を祈ってくれたと思えてならなかったのだ。
「どうしたの、フォン?」
並走するクロエに声をかけられ、フォンは迷いを振り払う。
「……いや、何でもない。それよりも、この先の通路を右に曲がった先が屋根への通路だね」
既に何度も忍者兵団を退けた彼らは、もうハンゾーの足元まで迫っていたからだ。ここで余計な感傷に捉われていては、倒せる相手も倒せなくなってしまう。
「アンジーに教えてもらった道順が正しければ、『金楼の間』から『玉座の間』を通って、階段を上れば屋根に着くけど……恐らく、一筋縄じゃいかないな」
事前にアンジェラから、宮殿全体の地図を借りていたのが幸いだった。
頭の中にそれら全てを叩き込んでいたフォンは、後幾つかの大きな広間を抜ければ、屋根へと続く階段があると知っていた。だが、同時に妙な違和感も去来していた。
「敵、もう追ってこない。諦めた?」
さっきの忍者兵団襲撃を最後に、敵の攻撃がぴたりと止んだのだ。
遮る者も、妨害する者もいないなど、ハンゾーが率いる軍団においてはありえない。
「宮殿の入り口に戦力を割いているのでござるな。とはいえ、こちらを無視するとは思えないし、この先に誰かが待っていると考えるのが妥当でござろう」
「待ってるって、誰が?」
「向こうの戦力的に、兵団の奥はアンジーと王子のところに行ってる。こっちには少数精鋭になりえる面子を用意しているはずだ。控えているのはリヴォルか、若しくは――」
話しながら眼前の大きな扉を蹴破ったフォンの前に、果たして答えは待っていた。
「――やっぱり、か」
広い、広い豪奢な空間の中央で立ちはだかっていたのは、サラとジャスミンだった。
かつての面影が残っているのは、顔つきとジャスミンの二刀流の剣だけ。漆黒の纏と醸し出す雰囲気、強烈な敵意は以前の二人ではない。
「待ってたよ、クソ忍者ども」
「ここから先は誰も通すなって、マスター・ハンゾーの命令だよっ!」
早々に構える二人は、クラークでも、自分でもなく、ハンゾーの意志に従っていた。
これまでは自分が強いと証明する為に、或いは自分が誰よりも可愛らしいと証明する為に戦いと悪事を重ねてきた二人だが、今はその面影すらない。どこかの誰かの命令に従うなど、絶対にありえなかったはずだ。
瞳をぎらぎらと輝かせたサラも、ジャスミンも、自我は残っていないようである。
「サラ、ジャスミン……二人とも、やっぱり洗脳を……」
「間違いないね。『王来の間』でもそうだったけど、ハンゾーの忍術の影響で完全に命令を遂行するだけの人形にされてるようだ。説得なんて、聞かないだろうね」
仕方ない、と言いたげにフォンが苦無を抜き、敵を見据える。
「やるしかない、か。だったら僕が――」
彼としては、なるべく早く決着をつけるつもりだった。ここで二人を相手にすることそのものがタイムロスに繋がるとしても、相手をしなければ上の階に行けないと思ったからだ。
しかし、ゆらりと前に出ようとしたフォンより先に、一歩進み出た者達がいた。
「――お前達、そんな余裕ない。上に行くのが、一番大事」
「師匠、ここは拙者達にお任せを! クロエ、師匠を頼んだでござる!」
サーシャとカレン。
一対の『ドラゴンメイス』と長い爪を携えた彼女達が、フォンの前に出たのだ。
「サーシャ!」
「カレンまで!?」
驚くフォン、クロエの前で、比較的好戦的な二人は鼻を鳴らす。
「幸い、奴らには……特にあのチビ剣士は拙者に恨みがあるようでござるからな! 今度こそ、ここで引導をきっちりを渡してやるでござる!」
「決着を望む、サーシャ、歓迎! 叩き潰して、終わらせる!」
自分達が留まる代わりに、フォンとクロエを先に進ませると言っているようだった。
フォンは正直なところ、ここで仲間を留めさせるのには一抹の不安があった。忍者によって強化された敵の力は未知数で、まず間違いなく忍者兵団の雑兵よりも強い。何よりハンゾーに洗脳された者は、いかなる手段を用いてでも役目を果たすと知っているのだ。
だが、ここで間誤付いていることもまた、ハンゾーの思惑通りでもある。
迷っている暇はない。フォンは刹那、刹那の狭間でだけ考え、結論を出した。
「……頼んだ! 行こう、クロエ!」
彼はサーシャとカレンの肩を叩くと、クロエの手を引いて走り出した。
「うん! 二人とも、絶対に死んじゃ駄目だよ、絶対だよっ!」
二人に激励の言葉を飛ばすクロエと、もう後ろを振り向かないフォンが向かう先は、サラ達の方角ではない。上の階に繋がる階段がある扉は、彼女達から見て右側にある。
「だーかーら、行かせないって言ってるでしょッ!」
当然、ハンゾーの部下は逃走行為など許さない。特にジャスミンはサラよりも好戦的な面があったのか、握りしめた剣を携えて突進してきた。
狂気の笑みを浮かべてフォンを切り刻もうとした彼女だったが、それこそ、フォンやクロエの仲間に対する蛮行を許さない者がいるのを忘れているようだ。
「させないとも言ったでござるよ! 忍者体術『花蓮殺法』!」
瞬時に双方の間に割って入ったカレンが、ジャスミンの剣を爪で弾いた。
フォンの予想通り体は強化されているようで、攻撃を防いだカレンの腕が痺れる。その隙を逃さず、今度はサラのかかと落としが猫の脳天を狙う。
「邪魔してんじゃないよ、このガキッ!」
「邪魔はお前ら! サーシャ、仲間を傷つける奴、許さないッ!」
サラの強靭な足の一撃を、今度はサーシャのメイスが防いだ。二人の攻撃が不発に終わった時には、もうフォン達は扉を開き、別の部屋へと向かっていた。
「ちぃッ、このぉ……!」
距離を取りつつ、殺意の視線をぶつけるサラとジャスミン。
この程度で怯むほど、やわな忍者パーティではない。視線を潜り抜けた数と修行の日々は、洗脳程度で強くなった元勇者の仲間に負けるような軟弱なものではない。
戦士と猫が並び立ち、顔を敵に向けたまま、拳をぶつけ合う。
「さて、と! さっさと倒して、師匠達に追いつくでござるよ、サーシャ!」
「サーシャ、承知! カレンと一緒に、直ぐにぶっ潰す!」
そして、広間を揺るがすほどの雄叫びと共に、戦いの幕が上がった。
「おおおおぉぉぉッ!」
拳とメイス、剣と爪がぶつかり合い、破壊が生み出される。
宮殿の外壁すら打ち砕くサーシャの打撃に、騎士の鎧を引き裂くカレンの爪に、サラとジャスミンは肉薄する。これだけのスペックを、二人は真っ当な外見を保ったまま発揮する。
決闘の際は、違法薬物を使ってやっと、ここまで強くなれた。自我も意識も残したまま、忍者の強化手段とは、どれほどまで人の限界を引き出すというのか。
「こいつら……速さも力も、決闘の時と段違いでござる! 『覚醒蝕薬』よりも強くなっていながら意識を保つとは、大したものでござるな、忍者の洗脳とは!」
「何言ってんの、これは自分達の実力だよっ!」
訂正しよう。自我が完全に残っているとは言い難い。
カレンの爪を弾くジャスミンも、サーシャに殴りかかるサラも、瞳の中に蛇の目の文様があった。つまり、彼女達は今、自分の意志ではなくハンゾーの命令で戦っているのだ。
己の成長という優越感によって、手駒とされた現実から目を背けながら。
「しかもハンゾーの手駒にされたのにも気づいていないとは……哀れでござるな!」
そんな輩に負けてやるほど、忍者パーティは甘くない。
「洗脳、洗脳って! 喧しいんだよ、あんた達は、があぁッ!」
勢いに任せて怒涛の連撃を繰り出していた二人だが、僅かな隙を突かれ、立場は逆転した。
「悪いが、この程度であれば拙者達の敵ではないでござる! さっきまでは忍者の力を得たからどれほどかと思ったでござるが、修行を経た拙者とサーシャには勝てぬ!」
カレン達の中での敵への評価は、今やすっかり下がってしまっていた。
いかに忍者並のスペックを手に入れようと、彼女達の攻撃はワンパターンだ。死線を何度も潜り抜け、忍者の里で修行を重ねたサーシャとカレンの前では、既に児戯に等しい。
「動き、見切った! 『山赦重砲』ッ!」
目にも留まらぬ拳のラッシュを放ったサラだが、悉く攻撃をかわしたサーシャのメイスの連打を腹に受ける。ジャスミンもまた、宙を舞うカレンに蹴り飛ばされた。
「剣が当たらないなんて、そんな、ぎゃあっ!」
「ぐおぉっ!?」
床に転がり込んだサラ達だが、カレンは立ち上がる猶予すら与えない。
刃を研ぐように爪を軋ませると、炎が十本の爪に纏わりつく。
眼前でそれを構えたカレンの目が妖しく光り、敵が瞬きする間に姿を消した。
「重ねて、くらうでござる! 忍法・火遁『炎猫爪襲』ッ!」
次に開いた時には、忍者の燃え盛る爪が、二人を斬り裂いていた。
「ああああぁぁああああぁあ――ッ!」
焼かれながら斬られるなど、二人にとっては人生初の経験だろう。その痛みも当然筆舌に尽くしがたく、吹っ飛ばされて壁に叩きつけられながら、彼女達は倒れこんだ。
たちまちのうちに消え去った特殊な炎を指で払い、カレンは敵を睨む。
「打撃と火遁忍術のコンビネーションでござる。これなら、流石に……」
完全に敵を退けたと思ったカレンだが、どうやらそうではないらしい。
「……まだだ、まだ……!」
「お前達を、止めるんだ……」
なんと、サラもジャスミンも、未だ抵抗を止めないのだ。
カレンの必殺技を受け、かなりのダメージを負っている。武闘家であるサラはまだしも、元の性格が戦いに対して貪欲でもないジャスミンが、ここまでの執念を見せるのは異常だ。
二つに分かれたメイスをまたも構えなおしながら、サーシャは口を尖らせる。
「……相当痛めつけた。なのにまだ、立つ。あいつら、おかしい」
「どうやら洗脳とやらは、体を強化するだけではないようでござるな。精神の方もおかしな方向に強化されたと見えるでござる」
「おかしな方向?」
カレンが見つめていたのは、ハンゾーの文様を刻まれた敵の瞳だ。
「うむ。あの狂った目、痛みを解さない執念……間違いなく、命令順守以外の感情を奪われているでござる。このままだと、あいつらは死んでも戦い続けるでござるよ」
強さの代償として、ハンゾーの道具としての死を与えられる元勇者パーティ。牢獄を出たときには、まさかこんな未来が待っているとは思っていなかっただろう。
武人であるサーシャも流石に同情したのか、『ドラゴンメイス』を強く握りしめた。尤も、彼女が言うところの救済は、武骨で、ある意味残酷でもある。
「なら、引導を渡してやる、情けになる。 サーシャが仕留める、カレン、下がれ」
真っ当な死を与えるべく二人を殺そうとしたサーシャだったが、カレンが制した。
「いいや、拙者に策があるでござる。本当はハンゾー相手に使うつもりだったでござるが……やるなら、今ここしかないようでござるな!」
彼女には、秘策があった。
本来ならばハンゾーを止めるべく用いられる――フォンの命令なしでは使ってはいけないはずの忍術だが、今はそうは言っていられない。彼女の師匠も、二人の命を救う為なら、カレンの命令無視を許してくれるだろう。
瞳の色を少しずつ変化させながら、カレンは大袈裟なほど前傾姿勢となり、吼えた。
「サーシャ、二人の動きを止めてくれでござる! 拙者が決着をつける!」
「サーシャ、承知!」
彼女達の作戦会議を聞いていたサラ達は、既にしびれを切らしていた。
「何を喋っているんだ、ごちゃごちゃとおぉぉ!」
軋む体を無理矢理動かし、半ば特攻のように突っ込んできたサラとジャスミン。そんな単調な攻撃が当たるはずもなく、ひらりと避けたサーシャの反撃を、もろにくらってしまう。
「動き、封じる! これがうってつけ! 『山赦錠』!」
しかも、今度の攻撃は単純な打撃ではなく、動きを制する技だ。
ドラゴンメイスの二つの口が開き、闇雲に突っ込んできたサラとジャスミンの体に噛みつき、地面に縫い合わせてしまった。ただの怪力だけならどうにか逃れられたかもしれないが、これは忍者の武器だ。複雑な機構が、双方を逃さない。
「う、ぐ、があああ!?」
「きゃああああッ!」
どれだけもがこうと、歯を食いしばろうと、彼女達が脱出できる術はない。
「怪力と竜の口、お前らの攻撃、止める! カレン、サーシャが動き、封じてるぞ!」
「お見事でござる! では、ここからは拙者が!」
カレンが頷いて、捕縛された者達の前に躍り出た。
「この、何を……!」
目をぎょろつかせて激昂するサラの前に、カレンはしゃがみこんだ。
情けをかけるわけではない。彼女の術に必要な所作なのだ。
「拙者の目、修行で手に入れた力は、二人にはうってつけでござる。いくでござるよ――」
カレンの黄色い瞳の中に、星形の文様が浮かぶ。
蛇の目で人を操るハンゾーとは違う。彼女の目は、寧ろその逆だ。
「――闇を祓い、魂を留めろ。秘伝『幻猫眼』」
必死にもがくサラは、顔を覗き込んできたカレンと、不意に目が合った。
びくり、と震えた彼女の体が鎮まるのと同時に、その目から蛇の印が消え去っていった。
「――『幻猫眼』?」
「うん、カレンの術の一つで、ハンゾーの洗脳を解ける唯一の術だ」
カレンが忍者の術に捉われたサラ達を救い出そうとしている頃、長い廊下を走り続けるフォンは、クロエに弟子が持つ秘密の術を教えていた。
彼女も、カレンの瞳が変化することとそういった類の能力があることは知っていたが、どうして洗脳を解除できるのかまでは理解していなかった。
「ハンゾーの洗脳は目に訴えかけ、特殊な瞬きの回数や目の模様で、疑似的に眠った状態に相手を陥れるんだ。そして音波に似た波長の言葉を語り掛け、洗脳を完了させる」
「そんなに簡単に、洗脳なんてできるものなの?」
「相手に依るかな。強靭な精神の持ち主であればあるほど、洗脳には時間がかかる」
ハンゾーの洗脳は摩訶不思議な魔法ではなく、他の忍術、忍法と同じで、技術の一環だ。
蛇の目は人の思考を奪い、空っぽの状態にしてしまう。自分で考えることも、動くこともできなくなった、人の形をした人間を、命令で満たしてゆくのだ。
一度かけられれば避ける手段はほぼない恐るべき術だが、カレンは唯一の対抗策である。
「けど、カレンの目はその逆のパターンを相手に齎す。つまり、プロセスを巻き戻して、洗脳される前の状態に戻せるんだ」
カレンの術、『幻猫眼』の星形の文様は、根本を辿ればハンゾーの洗脳と変わらない。彼女の場合は、洗脳に至るまでの過程を遡って、元の状態まで戻してしまうのだ。
つまり、彼女の存在はフォンにとって最大の切り札だったのだ。
蛇の忍者を無効化する手段を、どうして同伴させなかったのかとクロエは首を傾げる。
「そんな凄い力があるのに、置いてきて良かったの?」
「ハンゾーを止める切り札だけど、彼女自身、ジャスミンには思うところがあったんだろうね。できれば、ハンゾーとの戦いでは合流したい……クロエ、構えて」
だが、既に彼女を含め、忍者パーティには他の事柄を考える余裕はなかった。
「……あれは!」
恐るべき気配を察知しつつ扉を開いたフォンとクロエの視界に飛び込んできたのは、さっきよりも一層豪華に彩られた、壁を巨大なステンドグラスに覆われた広間。
「……やっぱり、君が待っていたか、クラーク」
そして、その中央に仁王立ちするクラークとマリィだった。
サラやジャスミンと同じ格好をしているクラークは、もう勇者パーティとしての面影を殆ど残していなかった。澱んだ瞳、静かな殺意、どれもこれも、ハンゾーに洗脳されてしまった哀れな者達の末路に相応しかった。
一方で、マリィはさほど以前と変わっていない。外見もそうだが、全てを利用し尽くそうと望む、最も恐るべき邪悪な精神もそうである。
「また会ったな、フォン。月並みな台詞だが、ここから先には行かせねえぜ」
剣を抜き、突きつけたクラークに、フォンは哀憫の視線を向ける。
「クラーク、いい加減気づくんだ。それは君自身の意志じゃない、ハンゾーに心を乗っ取られているだけだ。自分ですら望んでいない戦いで、死ぬつもりなのか?」
「死ぬのは貴方よ、フォン。今のクラークは、あの時より強くなっているわ」
「ふーん? 元勇者サマはともかく、あんたは何も変わってなさそうだけど?」
なるべく勇者の感情を揺るがせたくないマリィが会話に乱入すると、クロエも同様に話し合いへと加わった。ただし、彼女の場合は魔法使いへの侮蔑が強く混じっていた。
「はっきり言っとくけど、あたしはともかく、フォンには絶対に勝てないよ。そっちが二人がかりで攻めてきても変わらない。今のうちに、降伏しといたら?」
ぎろりと睨みつけるクラークとは違い、クロエの発言に対し、マリィは顔を顰めた。
脳みその中身を空っぽにされたクラークとは違い、マリィは洗脳を受けていない唯一の元勇者パーティだ。フォンとの実力差を、ある意味では一人だけ見抜いているようだ。
「……そうはいかないわ。私達の実用性を示しておかなきゃ、忍者に殺されてしまうもの」
それでも強者の傍にいる安堵感を求めるマリィに、フォンは思わず叫んだ。
「あいつのような男が、君達を生かしておくと本気で思っているのか!」
フォンは、ハンゾーの本性を知っている。彼は自分以外を信じず、いかに使える仲間であっても、道具程度にしか思っていない。捨てるのを躊躇わないし、使い潰すのを惜しいとも思わない。代用品は、洗脳忍術で賄うからだ。
「奴にとって、自分以外の全ては手駒に過ぎないんだ! 仮に君達が忍者だとしても扱いは変わらない、それどころか君達は洗脳されただけの冒険者だ! どんな結果になろうと、その場しのぎに使われた道具として処分されるんだぞ!」
だから、彼は必死にマリィに警告した。彼女がどう考えてもハンゾーの危険性を理解していないうえ、功績を上げれば長生きできると本気で信じ込んでいるからだ。
いや、或いはそう思い込んで、自分の中にある恐れを騙そうとしているのかもしれない。
「そうならない為に、成果を出すのよ。私の心はもう、彼の配下にあるわ」
冷静さを装った、焦りを含んだ声色が、顕著にマリィの本心を示していた。
「どれだけ自分を高く評価してれば、そんな発想に行き着くのよ……」
「強者に魂を売ったのか、マリィ……」
変わってしまったのか。それとも、本性が歪みに歪んで、今に至るのか。
ただひたすら自分を安心させる為だけに媚びを売り、他者の強さに寄り縋っていなければ己のアイデンティティすら維持できない、これが今のマリィなのだとフォンは思った。クロエに関しては、もう惨めさに対する同情すら顔に浮かべていた。
そんな二人の視線に気づく由もなく、マリィは自身の務めを果たすべく動き出した。
「さあ、行くわよ、クラーク。真の勇者に戻る為に、フォンと仲間を始末しましょう」
つまり、クラークを焚きつけて、フォンを始末する手伝いに回る作業だ。
「……ああ、分かってる。俺はもう一度、勇者になって栄光を取り戻してやる!」
「勇者であることが、そんなに大事か……!」
どこまでもずれてしまった、勇者という名の忍者の道具に成り下がってしまったクラークの決意に、フォンは心を痛めるような気持ちになってしまった。
できれば彼の闇を祓ってやりたいと思ってはいたが、自分では彼を深淵から救い出せないのだろうか。ほんの僅かな間ではあるが、フォンの心に微かな迷いが生まれた。
「こっちもやるよ、フォン! あたし達は、ハンゾーを倒さないといけないんだから!」
しかし、隣で弓を構えるクロエの声で平静さを取り戻せた。
「分かってる……ここで最後にしよう、クラーク!」
バンダナで口元を覆い、苦無を構える。
ハンゾーのもとに向かう為の、最期の試練が始まる。
「クロエ、援護をお願い」
「うん、任せて!」
「マリィ、魔法でバックアップしろ!」
「分かったわ」
人数は同じ。戦法も同じ。ならば、差が出るのは個々の実力と連携だ。
剣が床を擦り、苦無が空気を裂いた刹那――。
「クラアアアァァクッ!」
「さっさと死ねよ、フォオオォォン!」
これまでの全ての因縁に『決着』をつける戦いが、刃同士の激突と共に始まった。
フォンの苦無と鍔迫り合うクラークの剣。双方の筋力は拮抗していた。
忍者と同等の力を手に入れたのは、やはり間違いないようだ。ついでに言うなら、相変わらずクラークの目の中には、ハンゾーに操られた証である蛇の文様が浮かんでいる。
「この腕力……さっきもそうだったけど、ハンゾーに強くしてもらったようだね!」
「知ったこっちゃねえ! これは俺の強さだ、勇者の本当の力だァ!」
「違う、偽りの強さだッ!」
右手だけでなく、左手でも苦無を持ち、フォンはクラークの攻撃を弾く。
二、三度斬撃を交えた二人は、打ち合わせしたかのように距離を取り、叫んだ。
「マリィ、火だ!」
「クロエ、矢を!」
ともに求めたのは、後方でそれぞれの武器を構え、バックアップに徹する仲間の名だ。
マリィが構えた杖の先端から、太陽の如き巨大な火球が膨れ上がる。クロエが番えた矢の先端に、槍を模した鋭い炎のエネルギーが発現する。
互いに補助を頼んだタイミングが同じであるように、彼女達の攻撃の瞬間も同じだった。
「『爆炎球』!」
「『忍魔法矢』――『猛火槍』!」
二人の背後から放たれた火球と炎の槍が、双方の眼前で激突した。
近づくだけで肌を焼くような力は、最初はぶつかり合っていたが、たちまちクロエの炎がマリィの日を上回り、クラーク達を貫かんと襲い掛かった。
「そんな、私の炎が……きゃあぁ!」
元勇者パーティのコンビは辛うじてかわしたが、クラークの頬には何かが掠めたような跡がついていた。クロエの矢ではなく、マリィが放った火球が彼に近すぎたのだ。
「何やってやがる、マリィ! 俺まで巻き込みかけやがって、この無能が!」
「……次、私を無能扱いしたら、本当に巻き込んでやるわよ……」
ぎゃあぎゃあと怒鳴り散らすクラークに対し、マリィは軽い舌打ちと共に殺意を露にする。こんな二人が、息の合ったフォンとクロエに敵うはずがないだろう。
「はっ、そんなコンビネーションであたしとフォンに勝とうだなんて、百万年早いね!」
クロエが次の矢を構え、風の力を纏わせる。
「フォン、マリィの動きはこっちで止める! クラークを倒すのに集中して!」
彼女に全幅の信頼を寄せるフォンが、仲間を疑う理由はなかった。マリィの妨害を完全に阻止してくれると判断したフォンは、豪快な攻撃で敵を鎮める戦法を選んだ。
苦無を仕舞い、これまたどこからともなく取り出したのは、『王来の間』で勇者パーティとリヴォルを吹き飛ばした、巨大な鉄の扇。勢いよく開いたそのさまは、これまでのフォンと違う、忍ばない意志の体現だ。
変化を察したクラークが、口喧嘩をやめて突撃してくるが、今のフォンにはいい的だ。
「ありがとう、クロエ! ならこっちも……秘伝忍術『剛壊』ッ!」
バチン、と勢いよく音を立てて閉じた扇を持ち上げ、フォンは刃を振りかざすクラークめがけて、鋼の武器を振り下ろした。
いかにクラークの剣が勇者のオーラに纏われているとしても、忍者秘伝の武器を斬り裂けない。しかも、質量と腕力の差で、攻撃を仕掛けた方が圧倒される始末だ。
「なんだ、俺の斬撃諸共圧し潰して、う、ぐわああぁぁッ!?」
あっさりと吹き飛ばされ、マリィの足元まで転がったクラークに、フォンが告げた。
「忍者の力を甘く見ない方がいい。腕力も、技術も、僕の方が君より上だ」
「な……め、んじゃねえええ!」
勝利など凡そ遠いと警告しても、クラークも、マリィも聞く耳を持たなかった。
剣を携えた彼が突進を仕掛け、マリィが炎や突風の魔法を放っても、フォンにはまるで届かない。斬撃は悉く弾かれ、魔法は悉く撃ち落とされるからだ。
互いにフォンを倒すことにしか固執していないコンビでは、とてもではないがフォンとクロエの絆を打ち破れないだろう。どちらがどう動くかを完全に把握した二人は、的確に相手の攻撃手段を打ち砕いてゆく。
このままいけばいつかぼろが出て、マリィがクラークに魔法を当てるか、クラークの弾かれた剣がマリィを貫くだろう。だとしても、彼らは攻撃の手を緩めないのだ。
ハンゾーの洗脳とはここまで強力なのかとフォンは思った。
だが、そうではなかった。クラークが戦う理由は、別にあった。
「俺は、勇者だ! 英雄だ! ギルディア最強の冒険者なんだ! そうじゃねえと、俺は、俺は何の為に紋章まで刻み込んで、俺はああぁッ!」
――彼は、認めたくなかったのだ。
ぶつかり合う彼の目をもう一度見据えたフォンは、蛇の文様の奥に、クラークの真意が隠れているのを悟った。彼の原動力は怒りではなく、悲しみと苦しみのるつぼなのだと。
全てを知ったフォンの瞳から敵意が消え、代わりに憂いが生まれた。
「……そうか、そうだったのか」
勇者の剣に鉄扇を激突させながら、フォンはクラークに問いかけた。
「クラーク――君は何になりたいんだ?」
鉄同士が衝突する不快な音が、一歩退いた勇者の顔を歪ませた。
「なん、だ、と?」
「君は本当に勇者になりたいのか? ちやほやされる為に、偉ぶる為だけに勇者の道を選んだのか? 付き人だった頃から、ただそれだけの為に生きてきたのか?」
「てめぇが、決闘の時に言っただろうが! その通りだってなァ!」
マリィの魔法も、クロエの矢も放たれなくなった。破壊された広間の中に、フォンとクラークの声だけが響き、忍者は静かに首を横に振った。
「いいや、違う。僕は、初めて会った時から、ずっと君を勘違いしていた」
「アァ!?」
血管が浮き出るほど強く剣を握りしめたクラークを、フォンが見つめた。
彼にとって、クラークとは野蛮で、危険な男だった。自分の利益と栄光の為であれば仲間すら犠牲にして、己だけが偉大に見え続ければいいと考えているのだと思っていた。
しかし、そうではない。フォンはようやく、クラークの心に触れられたのだ。
たとえ彼が望まずとも、フォンは気づけたのだ。
「傲慢で、人のことなんて微塵も考えない男だと思い込んでいた。だけど、勇者を目指す人間が邪な志しのまま、生きていけるはずがない。君の師匠も、君を見込むはずがない」
「何が言いてえんだ! はっきりと言いやがれ、フォン!」
「やっと分かったんだ。僕が君と決着をつけるのに必要なのは、命の奪い合いじゃないって。僕が僕を取り戻した時と同じなんだ」
もう一度フォンを斬りつけようとしたクラークの前で、彼は予想外の行動を取った。
「クラーク、君が求めているのは勇者としての栄光じゃない。それを今、証明するよ」
なんと、フォンは鉄扇を手放し、明後日の咆哮に投げてしまったのだ。
苦無はまだ残っているが、圧倒的な有利を齎す武器を自ら捨ててしまったのは、この場においては異様極まる行為だ。クロエどころか、マリィですら意味が理解できていない。
「武器を捨てた!? フォン、どうしたの!?」
「なんだか知らないけど、好機ね……!」
クラークはというと、舐められているとでも思ったのが、未だに動こうとしない。
「……フォン……!」
鬼の形相で彼を睨むクラークに、フォンは言った。
「――僕を殺してみろ。己が犯した過ちに、永遠に呪われる覚悟があるなら」
彼は、元勇者に賭けた。
残虐に見える男の人間性と――その間に見出した真の意志に、賭けたのだ。
「クロエ、手出しは無用だ。勿論、マリィも」
「そんな……!」
「手出しなんてしないわ。自分から死んでくれるなんて、好都合だもの」
いきなり降って湧いた絶好のチャンスを、クラークはともかく、マリィが逃すはずがない。
フォンの指示に従って動かないクロエとは違い、彼女はクラークに歩み寄り、甘い言葉を囁いた。洗脳にも似た、勇者の心を乱す、惑いの言葉を。
「さあ、クラーク。愛しい私のクラーク。フォンを殺して、勇者になりましょう。私とサラとジャスミンと、もう一度全てをやり直しましょう」
そして元勇者も、躊躇う理由はないと確信していた。
「……言われなくても、やってやるよ……!」
剣がぎらりと光り、勇者の狂った瞳を映し出した。
「ダメだよ、フォン! クラークを倒さないと、あいつに情けなんてあるはずがない!」
「必要ないよ、クロエ。彼をやっと理解できたんだ、もう刃を交える意味はない」
クロエは耐えきれず叫んだが、フォンは尚、因縁深いはずの相手を信じているようだった。
倒し、倒されるはずの相手であったはずのクラークを、フォンは今や敵とは思っていなかった。ズボンのポケットに手を突っ込んだ、無抵抗の姿こそがしょうこだった。
「師匠を失って、生きる目的を失って、過ちを犯した――クラーク、君は僕と同じだ。覚えているか、いないかだけで、僕と君はずっと同じ痛みを抱えていたんだ」
それは確信だが、確証ではなかった。フォンの願いと希望の集合体に過ぎなかった。
「だから、僕にはわかる。君の中に残り続けているのは、正しい感情だ。力の渇望と悲惨な過程がそうしただけだ……強情でも、勇者に仕えていた頃の君が、本当の君なんだ」
「一緒にすんじゃねえ! 俺はクラーク、勇者の遺志を継いだ男だ!」
「クラーク、自分の過ちを認めないと前には進めない。君が望みを果たしても、心を埋め尽くすのは闇だけになるぞ。それでも――永遠にもがき続ける覚悟があるなら、僕を殺せ」
言葉は無用と思い、彼は目を閉じた。
避けられるだろう。反撃できるだろう。そう、ここにいる誰もが思わなかったのは、彼の纏う気配が完全な無抵抗を意味していたからだ。
話す必要がないと判断したのは、フォンだけでなく、クラークも同じだった。
「……やってやる……やってやるぜ、フォン! 俺様が殺してやるッ!」
マリィの闇を受け入れた彼は、剣を構えて駆け出した。
「フォン!」
「やりなさい、クラーク! 貴方の為に、ハンゾーの為に!」
弓を携えていながら射ようとしないクロエと、勇者の栄光を信じて顔を喜びに歪ませるマリィ。どちらも双方を信じたいからこそ、動かないし、動けない。
ならば、ここはクラークの独壇場だ。このまま、憎き忍者を殺せるのだ。
首を刎ね、四肢を斬り刻み、腸を裂く。今までの憎悪を全て、思う存分ぶつけられる。
金色のオーラを迸らせる刃。最強の勇者の証を、完全なものにするのだ。
「これで俺は戻れるんだ! 勇者に、誰からも尊敬される最強の勇者に――」
そこまで言って、クラークはふと、世界が遅くなるのを感じた。
フォンに近づくのも、瓦礫が崩れるのも、自分の動きも全て、遅く感じた。
(最強の、勇者? 何の為に、最強になるんだ?)
ふと頭を過った、一つの疑問が、彼の世界を揺るがしてしまったからだ。
気迫も勝者の笑みも、一瞬で掻き消えた。代わりに残ったのは、自分が求め続けていた、維持しようとしていたアイデンティティすらも立ち消えになるほどの問いかけだ。
誰もが尊敬する勇者。女を侍らせ、魔物を打倒し続ける勇者。永遠にギルディアに、国に名を遺す勇者。クラークの存在を、永久に知らしめたいとずっと願い続けていた。
なのに、彼は何故、自分が最強の勇者の称号を求めているのか分からなくなった。
(どうして俺は勇者になったんだ? 誰にも尊敬されなくて、いつも頼りにされているのは『あの人』だけで、俺は何一つ感謝されなくて――)
その時、クラークははっと気づいた。
彼の記憶の中にいるのは、いつも『あの人』だ。あの人がここにいれば何と言うだろうか。今までなるたけ考えないようにしていたが、一度回想に浸れば、嫌でも思い浮かぶ。
彼との日々は、多くが森や林の中だった。人々に頼まれて魔物を退治し、夜は焚火を囲んで話し合うことが多かった。大抵は世間のことやその日に倒した魔物のことを話した。
金色の長髪と整った顔立ち、輝く剣を提げた若い『あの人』は、いつもクラークの向かい側に座っていた。まだ髪も逆立てず、勇者の証も持っていない彼は、やはりいつも、鬱屈した顔を隠そうとすらしなかった。
『――クラーク、いいかい。感謝なんて、口に出す必要はないんだ』
そんなある晩、とうとう彼は、ぱちぱちと燃える火の向かい側でクラークに言った。
この日もやはり、彼はクラークと共に魔物を討伐した。勇者は魔物を倒して、人を救って当然だと思われているので、誰も何も言わなかったのがクラークは許せなかったようだ。
『でも、勇者ガルシィ! あの人達は、貴方に助けてもらったのに礼の一つもなかったんですよ! それどころか、報酬も支払えないから帰ってくれだなんて!』
『いいんだ、彼らは助かった。大事なのはそれなんだよ』
『だからって……!』
ガルシィ、と呼ばれた勇者は、小さく微笑んだ。クラークが何を考えているのか、どんな感情で今まで彼についてきたのかを、全て見抜いているようだった。
『……君には、少し許せないのかもしれないな。君が自分の力を見せようと、感謝されようと躍起になっているのも、きっとそこに原因があるのだろう。違うかい?』
だから、一番突かれたくないところを突かれて、途端にクラークは狼狽した。
『そ、それは……』
誰かに褒められたい。誰かから認められて、尊敬されたい。しかし、勇者のサイドキックにすらなれないただの付き人では、とても人の敬愛を集められない。
こんな日々がいつまで続くのかと、クラークが思い悩んでいるのを、ガルシィは知っていた。彼は決して、クラークの考えを否定しなかったし、「そんな邪な意志で勇者の傍に居てはいけない」と、多くの人のようにねめつけもしなかった。
ただ、己の信条を、勇者を目指す者に教えてやるだけだった。
『クラーク、許しなさい。自分も、他人も愛することで、人は初めて強くなれるんだ』
はっと、クラークはガルシィを見た。
愁いを帯びた目は、誰よりも優しくて、悲しく見えた。
『認められるのも、尊敬されるのもその過程にすぎない。もしも君が本当に勇者として生きたいと思うのなら――それだけは、忘れてはいけないよ』
それだけは、忘れてはいけない。ガルシィは確かにそう言った。
なのに、どうして今の今まで、忘れてしまっていたのだろう。
もう一度、大袈裟なほど瞬きをすると、彼は元の世界に戻ってきていた。フォンが目を閉じ、今まさに斬り伏せられようとしている瞬間だ。
しかし、さっきまでの殺意と優越感は、もうクラークの中にはなかった。
(――俺はどうして、忘れていたんだろう。勇者の言葉を、人を許すのを)
迫るフォンの顔が、ガルシィに重なって仕方なかった。
金色のオーラが鈍り、剣を握る手の力が弱まったような気がした。
(本当に、俺は勇者になりたかったのか? 愛されたいから、尊敬されたいから?)
考えた。どうしてかを考えたが、もう考える必要すらなかった。
答えは既に、クラークの心の中で確かに芽生えていた――最初から、だ。
(……そうか。俺は、勇者に成り代わったことを、出来心で犯した罪を許せないでいたんだ。勇者として好き勝手に暴れようと、認められたくて躍起になっていたのも、罪から目を逸らしたかったからだ)
果たしてクラークは、自分の闇と弱さを認めたくなかっただけで、蛮行を働いた。
マリィをフォンから奪い取り、サラとジャスミンを連れ、ギルディアで好き勝手に暴れ続けた。何もかも、求めていたからではなく、無意識に逃げ続ける手段として選んでいたからだ。永遠に奪い続けることで、永遠に逃げ切れるはずだと願っていたからだ。
(俺は許されない。それが怖くて、必死に逃げていただけだ)
現実は違った。最初から逃げ切れるはずもなかったのだ。
ただし、クラークの場合は、もっと大事な事柄にも気づけた。
(だけどもし、誰かが俺を許してくれたなら……いや、違う)
フォンと同じだ。彼もまた、奪うより、殺すよりも大事な在り方を知った。
(俺自身が――クラークが、自分を許してやるんだ)
許すことこそが、全てを終わらせ、始まらせる償いとなるのだと。
彼が全てを悟るのと同時に、フォンに剣が振り下ろされた。
クロエは叫ぼうとした。マリィは勝利を確信した。
一人の忍者の物語は、勇者の無慈悲な一撃で終わるはずだった。
――はず、だった。
「……剣が……止まった?」
クラークの振るった剣は、フォンの頭を裂く寸でのところで止まった。
どちらも動かず、どちらも傷つかなかった。クロエですら番えた弓と矢を下ろし、戦いを忘れるほどの光景だったが、マリィだけは望みどおりにならない現実を前に叫んだ。
「クラーク、何をしているの? 早く、早くとどめを刺しなさい! ハンゾーの為に、真の勇者になる為にフォンを殺さないといけないのよ!」
ずっと勇者を支え、或いは支配してきた言葉。甘く都合のいい台詞の羅列だが、今のクラークに対しては何の意味もなかったようで、彼はまるで反応しなかった。
代わりに、刃をゆっくりと仇敵の傍に下ろしながら、尚も冷たい声で聴いた。
「……フォン、お前は、どんな罪を犯したんだ?」
だが、その瞳にはもう、蛇の文様は残っていなかった。
フォンは静かに目を開き、言った。
「最愛の師匠を殺した。忍者の里を滅ぼし、記憶に蓋をして、もう一つの人格を作り出した。本当のフォンを封じ込めて……自分を騙して、生き続けた」
いつもの目の色を取り戻したクラークに対し、フォンは安堵すらしていた。一方で勇者は、自身と同じ苦しみを抱いていた彼に、共鳴すら感じ取っているようだった。
「許せたのか?」
「許したし、許されたよ。もう一人の僕を信じて、受け入れたんだ」
そこまで聞いて、クラークはとうとう、フォンに剣を向けるのをやめた。
剣を向けるのが敵意だとするのならば、クラークは彼に対する敵意をかけらも持っていなかった。勇者はただ、ようやく知れた忍者の過去に、深い痛みを覚えていた。
同時に、少しだけ苛立ちも募った。フォンはやはり、自分よりも強く、偉大だったと気づき、認めたくない点もあった。今までひたすらに憎み続けていた相手に勝てるはずがないと理解したなら、誰でも感情をぶつけるあてがなくなるものだ。
「……ムカつくよな、本当に。ずっとそうだ、てめぇは……俺よりもずっと強くて……何でもできて、人に愛されて……けど、大事なことじゃねえんだな……」
尤も、怒りも憎しみも、今のクラークには大事な事柄ではない。
「本当に大事なのは、俺が、ずっと見えないふりをしていただけって現実だ」
何よりも知るべきだったのは、仮初の強さを隠れ蓑にした自分の弱さだ。
剣を握る手が震え、声が掠れるほどに目を背け続けた、過去が連れ来る弱さだ。
「今なら分かる、言える、認められる……俺は、俺はずっとガルシィさんに顔向けできないままだったんだ……死んだあの人の願いを踏みつけて、紋章を彫り込んで、教えてもらった全部を蔑ろにしてまで……逃げ続けた、臆病者だ」
勇者の紋章も、勇者として偽り続けた日々も、勇者の成を必死に求める有様も、全ては追いかけてくる過去から逃げる手段に過ぎなかった。
そんな人間を、人は何と呼ぶだろうか。自分は何だと認識するだろうか。
「俺は、自分の罪が怖くて虚勢を張るだけの、弱っちい男だったんだ……!」
弱者。クラークは、その表現以外で、自分を記す言葉を知らなかった。
生まれて初めて自分をそう呼び、彼は惨めさと虚しさ、師であるガルシィを裏切り続けていた罪悪感で、俯いて涙を流した。こんな時ですら、ごめんなさいと誰にも言えない自分が酷く情けなく、格好悪く思えてならなかった。
しかし、フォンは彼を嗤わなかった。怒りもせず、彼を見た。
「……クラーク、それはこれまでの自分だ。今は違う」
はっと顔を上げたクラークの前で、フォンは微笑んでいた。
涙が見えたような気がして、クラークは頬を伝う雫を拭くのも忘れ、フォンを見つめた。
「洗脳に抗えた。弱い自分と向き合って、本当に見つめなければいけないことを知れた。僕やギルディアとは色々あったけど、それでも、今の君になら言える」
侮蔑などしない。己の弱さを認め、前に進み出した男を嘲笑するなど、誰ができるだろう。
フォンは彼をまっすぐ見つめ、仲間に見せる優しさと同じ笑顔を浮かべて、言った。
「――君は紛れもなく、勇者だ。その心こそが、紋章よりも確かな、勇者の証だ」
ぐしぐしと目元を擦り、いつもの高慢な顔を取り戻し、クラークは軽く笑った。
「……てめぇに褒められたって、嬉しくねえっての、バカ野郎が……」
二人の間に、もう蟠りはなかった。
代わりに芽生えたのは、友情の小さな、小さな種だった。
クビにして、クビにされて、騙し騙され、殺し合いすらした二人は、ようやく真の意味で手を取り合えた。フォンとクラーク、忍者と勇者は、同じ根元の人間だったのだ。
そんな彼らの姿を見て、クロエはほっと一安心したようだった。下手をすればフォンが殺されると思っていたし、クラークの心を彼が見抜いているとも、ましてや勇者が改心するとも思っていなかったからだ。
「……そっか。フォンは信じたんだね、あの時と同じように――」
これもひとえに、闇と痛みを乗り越えたフォンにこそ成せることだ。
男同士の繋がりにつられて、クロエも小さく笑った時だった。
「――『極大火球』!」
とんでもない大声と共に、クラークの背後から熱と赤い光が迸った。
誰もが動かない最中で行動を見せるのは、この場においては一人しかいない。
ただ一人だけ、目の前で起きる自称を許せずにいたのは、凄まじい形相をしたマリィだ。彼女は杖の先端から生成されたとてつもなく大きな火球を、フォンめがけて放ったのだ。
しかも、狙いは彼だけではない。大きさからして、フォンの仲間も、クラークすらも巻き込むつもりだ。あまりに唐突過ぎるマリィの蛮行に、忍者すらも驚愕する。
「マリィ!?」
「なんだと!? クラーク諸共、僕達を殺す気か!?」
クラークが驚き、フォンが咄嗟に閉じていた鉄扇を開こうとしたが、それよりも先にクロエが動いていた。彼女は唯一、魔法使いを警戒し続けていたのだ。
「そうはさせないっての! 『忍魔法矢』ッ!」
彼女が放った矢は、水のようなオーラを纏って火球に激突した。
僅かに膨れ上がった炎は炸裂し、花火のように散った。誰一人焼くことのなかった奇襲の結果は、マリィの狂気にも似た憎悪の表情を残すばかりだった。
「ふー……ふー……どいつもこいつも、計画通りに動いてくれない愚図ばかりね……!」
もう、彼女は策士としての顔すらしていなかった。クラークを操れず、何もかも思い通りにならない現実にただ怒りをぶつけるばかりの、一人の人間に過ぎなかった。
そんなマリィを見て、クラークは思わず手を伸ばした。
「……マリィ、悪かった。俺が、お前をずっと……」
「近寄らないで、クラーク! フォンにほだされて、汚らわしい!」
ところが、勇者の遠い手を嫌悪しながら、マリィはただ喚くばかりだ。
自分が原因でもあると考えているのだろうか、クラークは決して強くは出られなかった。代わりにフォンが前に出て、目をぎらつかせる彼女を説得しようと試みた。
「君も分かっているはずだ。現実から目を逸らせば、待ち受けるのは死だけだ」
「私は死なないわ、今までこうやって生き続けてきたもの! 強い人間に従い、力を失えば他の者に縋る! 何を言われようと、嘲笑されようと、私は私を肯定し続けるわ!」
クラークの声すら届かないのだから、フォンの声などもう、存在しないに等しい。
利用した二人を手放してなお、彼女は自分の選択を誤っていないと信じ込んだ。
「これが、これが正しい道なのよ! 誰にもただの魔法使いだなんて、無能だなんて言わせない! 生き続けさえすれば、それが有能の証になるのよおおぉッ!」
あはは、はははと笑うマリィの顔は、もう弱気な魔法使いではない。
まともではない。自分を支える全てが崩壊した今、彼女はありえない空想を、己の未来とした。そうしなければ、今ここで精神の均衡を失っていたはずだ。
――いや、もう失っているのだ。
「……狂ってるね。フォン、あの魔法使いだけはもう、救えないよ」
心底彼女を軽蔑するクロエの言葉が、今のマリィの全てを表していた。
このまま無視していても、彼女は叫び続ける。杖を振るうし、必要であればフォン達に攻撃を続ける。結果を予期すらできない相手に、クロエは半ばうんざりしていた。
「どうする、フォン? 頭を撃ち抜いて終わらせようか?」
「……いや、放っていこう。構っている余裕はないから」
無視を決め込もうとしたフォンだが、やはりマリィは杖を地面に叩きつける。
「行かせないとも言ったはずよ! 止まりなさい、止まれと言っているでしょう!?」
その手に持った杖は飾りだというのか。本気で止めたいのなら魔法を使えばいいのに、それすらすっかり忘れているらしい様子は、呆れを通り越して怒りすら齎す。
どうやら、本当に死なないと、自分の愚かさを理解できないらしい。
「あいつ、命だけは助かるってのに……」
クロエがとうとう弓矢を構えて頭を射抜こうとした時、彼女の前に躍り出る姿があった。
「俺がマリィを止める。お前らはハンゾーのところに行け」
剣を掴む手に力を込め、涙を拭ったクラークだ。
まさか彼がマリィを止めるとは思っていなかったのか、フォンもクロエも驚いた。
「クラーク……!」
「勘違いすんなよ。あいつがああなったのは、俺にも責任がある。お前からあいつを奪ったのが始まりだってんなら、その俺がケジメをつけないといけねえだろ」
彼の瞳に決意の光を見たフォンは、少しだけ迷って、小さく頷いた。
「……任せるよ、クラーク。僕達は上に――」
クラークがマリィを引き留めているか、倒してくれるうちに、フォンとクロエは屋根に向かう。ここからハンゾーの待つところまではもうすぐで、ほぼ予定通りにことは運んでいる。
あとは、力の限り広間を走り抜け、階段を上るだけだ。
フォンは迷いなくマリィの横を駆け抜けて、まっすぐ走るつもりだった。
「――必要ないぞ、フォン。儂が来てやったからのう」
だが、その必要はなかった。
マリィの後ろにいつからか現れていた黒い何者の声で、ぴたりと彼は足を止めた。
ここにいるはずのない男の影に隠れていたかのように、ぞろぞろと漆黒の纏を羽織った者達も姿を見せる。併せて十はくだらない彼らを率いる者の顔を、フォンは知っていた。
「――ハンゾー……!」
ハンゾーだ。
尖った鼻と暗い色の短髪、継ぎはぎ模様の傷痕、螺旋模様の鋭い瞳。黒いコートを脱ぎ捨て、唐草模様の着物を纏う彼の顔を、見間違うはずがない。
とても信じられないことだが――屋根の上で待っているはずのハンゾーが、わざわざこの広間に、部下を連れてやってきたのだ。
「俺を洗脳してくれやがった野郎が、自らお出ましってわけか!」
怒りにも似た感情を剣に込めるクラークとは裏腹に、クロエは困惑している。
「でも、あいつは屋根に居たんでしょ!? 自分だけじゃなくて、忍者兵団まで引き連れて、なんで下に降りてきたの!?」
「待っているのも少々飽いたものでな。どちらにせよ、お主らの滅びの運命は変わらんのじゃ。上にいようが、ここで戯れてやろうが同じであろう?」
一行との戦いを遊び程度に捉えているハンゾーは、けらけらと笑った。
どうして老人と聞いていた男がこれほど若い容姿なのか、どうやって音もなく広間に仲間を引き連れてきたのか、疑問は多かった。だが、今の彼女にとって最も大事なのは、命がけでここまで向かってきた自分達を、幼子程度にしか思っていない点だ。
「何よ、あたし達を子ども扱いして!」
「いいさ、クロエ。わざわざ出向いてきてくれたんだ、好機には違いない……それよりも、あいつと目を合わせちゃだめだ。洗脳されるからね」
目を細めて矢に手を伸ばすクロエを、フォンは止めなかった。彼もまた、鉄扇を開くと、ハンゾーを倒す機会を逃すまいと気迫を漲らせている。
いずれにせよ、フォン達の目的は変わらない。ハンゾーを倒す結果を変えるつもりはない。
ただ、それは誰よりもハンゾーに近いところに居る彼女にとっても、同じだった。
「――は、ハンゾー様! クラークは裏切りました、貴方の洗脳を解いたのです!」
唯一忍者兵団を裏切らなかったマリィは、敵意を一転させて、ハンゾーに媚びへつらって縋り付いた。当然の如く、クラークを売り飛ばした彼女だが、凶行はまだ続く。
「ですが、私はまだあなたの忠実なるしもべです! どうぞ、奴らに死の罰を!」
マリィは、自分こそは誰よりも忠誠を誓った偉大なる部下だとでも言いたげに、ハンゾーの傍に立つ。兵団に仕える忍者や首領の冷めた目に気づいてすらいないらしい彼女がどうなるか、フォンは既に察していた。
だから、どれほど邪悪な相手であろうが、彼は警告せずにはいられなかった。
「よせ、マリィ! 奴に近づくんじゃない!」
だが、もうマリィがフォンの、クロエの、クラークの説得を聞き入れるはずがない。
目をぎらつかせて、勝利を確信した魔法使いは杖を振りかざして喚くばかり。
「さあ、裏切り者と最も邪魔な者を始末してください、ハンゾー様! 忍者の栄光と王国の支配の為に、あの三人を殺してください!」
「そうじゃのう。では、お主の望み通り――」
そんな彼女に、ハンゾーは頬が裂けるほど微笑みかけた。
マリィはようやく、自分の望みが叶うのだと思った。理想が叶うのだと思った。
果たして、ハンゾーは自分が言った台詞と一言一句違わない事象を実行した。
「邪魔者を、取り除くとするか」
――隣に立つマリィの首を掴み、体を持ち上げたのだ。
驚愕で目を見開いたマリィの顔は、痛みと困惑がぐちゃぐちゃに混じっていた。
「ぐがはッ!? な、なに、を……!」
忍者の腕力で喉を潰されたらしく、マリィの声は老婆の如く嗄れてしまった。
それでもどうして、なんでと問う彼女に、ハンゾーは心底滑稽だとでも言いたげに、健康そのものの喉を鳴らして嗤った。
「何を、じゃと? おかしなことを言う女じゃのう。儂は儂にとって、『最も邪魔な者を排除』しているだけ――それが、お主自身だったというだけよ」
「ぶぐ、う、ぐ……!?」
「忍者の力を与える価値も、並の魔法使い程度の力もなく、勇者の手綱すら握れない。強い者に媚びるしか能のない屑を、間抜け、不要と呼ばずして何と呼ぶか、のう?」
ハンゾーの右腕が、マリィが噴き出した血で汚れる。杖が手を離れ、床に落ちる。
誰も止めない、止められない。蛇の忍者は、それほどまでに圧倒的な覇気を放っている。
やがてハンゾーは、これ以上話すのも無駄だと言わんばかりに、軽く手を凪いだ。
「使われる価値もない廃棄物の末路など一つよ――死ぬが良い」
そして、マリィをステンドグラスめがけて投げつけた。
巨石を投げつけたかの如き勢いで激突した彼女の体は骨が砕け、奇怪な方向へと曲がりながら、割れたステンドグラスの向こう側へと舞った。
つまり、窓の外。宮殿の三階の、足元には何もない宙空に。
修行も訓練もしていない者が、そんな場所に投げ出されればどうなるか。
「あぎゃあああぁぁ――……」
彼女の断末魔が、その答えだった。
落ちていく声と共に、何かが潰れるような音がして、直ぐに何も聞こえなくなった。