「ぐおっ……!」
一瞬で、フォンの体は屋根から宙に突き飛ばされた。
終ぞの瞬間まで彼はハンゾーを睨みつけていたが、重力には逆らえず、地面へと落下した。
広場から聞こえてくる太鼓や弦楽器、管楽器の演奏がスローモーに感じられる。普通の人間なら、死の間際に感じられる遅延かと思うだろうが、フォンの場合は違う。どれだけの高さから落ちても死なないよう、精神を集中させているのだ。
遥か足元に見えるのは、彼が飛び出した窓。幸いにもまだ開いたままで、クロエも誰も顔を出していないそれを見たフォンは、墜落の速度をそのままに、桟を手で掴んだ。
みしり、と腕に全体重がかかる。加速の負荷も同様だが、乱痴気にも似た騒ぎを背中で聞きながら、廊下に入っていったフォンにとっては些末以下である。
「ただいま、皆」
彼は少しの散歩から帰ってきたかのように、廊下を歩いて仲間に駆け寄った。
「え、ちょ、フォン!?」
寧ろ驚いたのは、唐突な彼の帰投を目撃したクロエの方だ。
いきなり壁を垂直に走って行った男が、今度は突然落ちてきて、しかも当然の如く戻ってきたのだから、驚かないはずがない。それはクロエの後ろから、フォンに向かって駆け寄ってきたサーシャやカレンも同様だった。
「お前、どこ行ってた?」
「ちょっと懐かしい顔を見にね。それよりも、警備を固めなおさないといけない」
サーシャの問いに、答えになっていない答えを返すフォンの様子は、どこか慌ただしい。
「警備を固めるって、もう十分に固めてるよ? 何か気になることでもあるの?」
「気になるというよりは、のっぴきならないというべきかな。今しがた、敵の頭領、ハンゾーに会ってきたんだ」
今度こそ、三人は周囲の騎士や兵士の顔色も構わず、目を見開いて驚愕した。
「何と!? では師匠、既に戦いを……!?」
「いいや、会ってきただけさ。あの男の真意を確かめる為にね……そして確信した。奴は細かな作戦など捨てて、純粋な武力だけでネリオスを崩壊させるつもりだ。それに、戦いに必要な兵隊も既に忍び込んでる」
「兵隊……?」
「『忍者兵団』さ。あの男が育て上げた忍者の一団、正真正銘、ハンゾーの兵隊としてのみ動く危険な連中だ。しかも今度は、彼も相当本気らしい」
「まさか、アンジェラの同僚を殺した張本人?」
「そうだね、しかも今度は、僕が皆殺しにした時よりもずっと危険だ。なんせ……」
フォンは詳しく事情を説明しようとしたが、不意に口を噤んだ。
「なんせ、どうしたの?」
クロエが事情を聞こうとしたが、フォンは彼女に返事をするよりも先に、窓の外を睨んだ。
再びハンゾーの気配を感じたからではない。既にあの邪悪な忍者の気配は消え去っており、この辺り一帯にはいないのは確信できる。
問題は、宮殿にまで聞こえてきた演奏と歌声、舞踊の熱気が突然掻き消えたことだ。
あまりにぴたりと止んでしまったので、フォンだけでなく、クロエ達も、警備に勤しんでいた甲冑連中も、窓の外に目をやった。広間までは存外距離があるが、どのような状況になっているのかくらいは一目でわかる。
無数の観客に囲まれて、広場の中央に鎮座していたのは、黒衣を纏ったとある一団。つい先ほどまでは様々な楽器を携え、沢山の踊り子が舞っていたが、今は誰もが完全に沈黙している。一様に俯き、周囲の騒めきも気に留めない。
「フォン、あれは……?」
首を傾げるクロエの隣で、フォンは小さく息を呑んだ。
「……そういうことか、ハンゾー……!」
彼は、ずっと感じていた違和感の正体に、ようやく気付いた。
背中を走る不快感は、単なる演奏だけではなかった。騒がしさだけでもなかった。
「よくも、あれだけの数の部下を……!」
苦々しげにフォンが吐き捨てたのと同時に、広間の黒服達は、コートを脱ぎ捨てた。
――そこにあったのは、やはり漆黒の衣装だった。
黒い纏、黒い靴、黒いバンダナで口元を覆い、腰には色々な武器を携えている。ただし、その姿は真っ当な人間のそれではないどころか、人間から遠くかけ離れていた。
何十はくだらない頭数を揃えたそれらは、何れも人ではなかった。
一つは、人の体に牛の顔を持つ巨大な怪物。一つは、長い耳を有した弓矢持ち。一つは、とんでもなく長い髭を蓄えた小柄の老人。それら全てが人間ではなく、亜人と呼ばれる種族――人間が忌避し、王族が滅そうとした種族であると、その場にいた者達はわずかな間だけ、理解できなかった。
人々が唖然とする中、最も巨大な体躯のミノタウロスが吼えた。
「――反逆の時だ! 『忍者兵団』よ、悉く殺し、奪ええええぇぇ――ッ!」
怒号にも似た号令が、全ての引き金となった。
果たして、『忍者兵団』を名乗るのは広場にいた面々だけではなかった。
「「オオォォ――ッ!」」
叫び声に呼応するかのように、露店の裏側から、建物の上から、地面の下から、戸惑う人々の隙間から、まるでゴキブリの如く黒衣の亜人達が飛び出してきたのだ。その恰好は紛れもなく、フォンのイメージする忍者そのものだった。
誰もかれもが、人より大きい。人よりも凶暴で、屈強で、持っている武器も危険性が高い。刀、鎖鎌、苦無、どれもこれもがひと凪ぎで人を殺すのに十分すぎる。
そして彼らは、呆然とする人間風情に、逃げる情けを与えてはやらなかった。
「ふんっ」
忍者の格好をしたエルフの一人が、苦無で近くの男の喉を裂いた。
血が噴き出し、痙攣しながら倒れ伏せる高貴そうな男が死んだ瞬間、遂に人間達が腹の底で抱えていた恐怖と絶望が爆発した。
「うわあああああああ!」
「逃げろ、逃げろおおおぉぉっ!」
ほんの僅かな時間の間に、広場では恐ろしい虐殺が始まった。
亜人が人間を蹂躙し、さっきまでの陥落はたちまち絶望に取って代わられた。市民が襲われる恐怖は、少し離れた宮殿にも伝播していた。
「師匠、あれは……!」
慄くカレンの隣で、フォンは悟った。
「……ハンゾーの新しい『忍者兵団』だ。奴は亜人を洗脳して忍者として育て上げ、この日を待っていたんだ。長い時を経て、世界に復讐する為に……!」
思い思いに人を殺し、暴れまわる連中の目が、こちらに向いているのに。彼らはただ殺戮をするべく暴れているのではなく、目的を見定めるだけの冷静さを手に入れているのだと知ったフォンは、彼らの次の行動を予測できた。
武器を構えた無数の忍者は、怯え惑う人々を殺しながら、宮殿へと迫ってきたのだ。
叫ぶ大臣、狼狽する兵士。唐突な災害に、人々は凡そ対応など出来ない。忍者も、この場においては災害と大差ない。
あまりにも急すぎる終焉の切迫を、フォンと仲間達はただ静かに見つめていた。
自分達でも驚くほどに冷静で、去来する死の軍団を迎え撃つ気持ちしかなかった。
「おい、こっちに来る。どうする」
「……どうするって、決まってるよ。あたし達の役割は一つだから」
「うむ! いかに危険な相手であろうと、決着をつけるべく、負けられぬ!」
「――ああ。行くよ、皆」
四人の目が、迫りくる忍者の大群を見据えた。
『忍者兵団』。勇者パーティ。リヴォル。そして、ハンゾー。
恐るべき敵との決着をつけるべく、フォン達の長い一日が。
――最後の一日が、ようやく始まった。
一瞬で、フォンの体は屋根から宙に突き飛ばされた。
終ぞの瞬間まで彼はハンゾーを睨みつけていたが、重力には逆らえず、地面へと落下した。
広場から聞こえてくる太鼓や弦楽器、管楽器の演奏がスローモーに感じられる。普通の人間なら、死の間際に感じられる遅延かと思うだろうが、フォンの場合は違う。どれだけの高さから落ちても死なないよう、精神を集中させているのだ。
遥か足元に見えるのは、彼が飛び出した窓。幸いにもまだ開いたままで、クロエも誰も顔を出していないそれを見たフォンは、墜落の速度をそのままに、桟を手で掴んだ。
みしり、と腕に全体重がかかる。加速の負荷も同様だが、乱痴気にも似た騒ぎを背中で聞きながら、廊下に入っていったフォンにとっては些末以下である。
「ただいま、皆」
彼は少しの散歩から帰ってきたかのように、廊下を歩いて仲間に駆け寄った。
「え、ちょ、フォン!?」
寧ろ驚いたのは、唐突な彼の帰投を目撃したクロエの方だ。
いきなり壁を垂直に走って行った男が、今度は突然落ちてきて、しかも当然の如く戻ってきたのだから、驚かないはずがない。それはクロエの後ろから、フォンに向かって駆け寄ってきたサーシャやカレンも同様だった。
「お前、どこ行ってた?」
「ちょっと懐かしい顔を見にね。それよりも、警備を固めなおさないといけない」
サーシャの問いに、答えになっていない答えを返すフォンの様子は、どこか慌ただしい。
「警備を固めるって、もう十分に固めてるよ? 何か気になることでもあるの?」
「気になるというよりは、のっぴきならないというべきかな。今しがた、敵の頭領、ハンゾーに会ってきたんだ」
今度こそ、三人は周囲の騎士や兵士の顔色も構わず、目を見開いて驚愕した。
「何と!? では師匠、既に戦いを……!?」
「いいや、会ってきただけさ。あの男の真意を確かめる為にね……そして確信した。奴は細かな作戦など捨てて、純粋な武力だけでネリオスを崩壊させるつもりだ。それに、戦いに必要な兵隊も既に忍び込んでる」
「兵隊……?」
「『忍者兵団』さ。あの男が育て上げた忍者の一団、正真正銘、ハンゾーの兵隊としてのみ動く危険な連中だ。しかも今度は、彼も相当本気らしい」
「まさか、アンジェラの同僚を殺した張本人?」
「そうだね、しかも今度は、僕が皆殺しにした時よりもずっと危険だ。なんせ……」
フォンは詳しく事情を説明しようとしたが、不意に口を噤んだ。
「なんせ、どうしたの?」
クロエが事情を聞こうとしたが、フォンは彼女に返事をするよりも先に、窓の外を睨んだ。
再びハンゾーの気配を感じたからではない。既にあの邪悪な忍者の気配は消え去っており、この辺り一帯にはいないのは確信できる。
問題は、宮殿にまで聞こえてきた演奏と歌声、舞踊の熱気が突然掻き消えたことだ。
あまりにぴたりと止んでしまったので、フォンだけでなく、クロエ達も、警備に勤しんでいた甲冑連中も、窓の外に目をやった。広間までは存外距離があるが、どのような状況になっているのかくらいは一目でわかる。
無数の観客に囲まれて、広場の中央に鎮座していたのは、黒衣を纏ったとある一団。つい先ほどまでは様々な楽器を携え、沢山の踊り子が舞っていたが、今は誰もが完全に沈黙している。一様に俯き、周囲の騒めきも気に留めない。
「フォン、あれは……?」
首を傾げるクロエの隣で、フォンは小さく息を呑んだ。
「……そういうことか、ハンゾー……!」
彼は、ずっと感じていた違和感の正体に、ようやく気付いた。
背中を走る不快感は、単なる演奏だけではなかった。騒がしさだけでもなかった。
「よくも、あれだけの数の部下を……!」
苦々しげにフォンが吐き捨てたのと同時に、広間の黒服達は、コートを脱ぎ捨てた。
――そこにあったのは、やはり漆黒の衣装だった。
黒い纏、黒い靴、黒いバンダナで口元を覆い、腰には色々な武器を携えている。ただし、その姿は真っ当な人間のそれではないどころか、人間から遠くかけ離れていた。
何十はくだらない頭数を揃えたそれらは、何れも人ではなかった。
一つは、人の体に牛の顔を持つ巨大な怪物。一つは、長い耳を有した弓矢持ち。一つは、とんでもなく長い髭を蓄えた小柄の老人。それら全てが人間ではなく、亜人と呼ばれる種族――人間が忌避し、王族が滅そうとした種族であると、その場にいた者達はわずかな間だけ、理解できなかった。
人々が唖然とする中、最も巨大な体躯のミノタウロスが吼えた。
「――反逆の時だ! 『忍者兵団』よ、悉く殺し、奪ええええぇぇ――ッ!」
怒号にも似た号令が、全ての引き金となった。
果たして、『忍者兵団』を名乗るのは広場にいた面々だけではなかった。
「「オオォォ――ッ!」」
叫び声に呼応するかのように、露店の裏側から、建物の上から、地面の下から、戸惑う人々の隙間から、まるでゴキブリの如く黒衣の亜人達が飛び出してきたのだ。その恰好は紛れもなく、フォンのイメージする忍者そのものだった。
誰もかれもが、人より大きい。人よりも凶暴で、屈強で、持っている武器も危険性が高い。刀、鎖鎌、苦無、どれもこれもがひと凪ぎで人を殺すのに十分すぎる。
そして彼らは、呆然とする人間風情に、逃げる情けを与えてはやらなかった。
「ふんっ」
忍者の格好をしたエルフの一人が、苦無で近くの男の喉を裂いた。
血が噴き出し、痙攣しながら倒れ伏せる高貴そうな男が死んだ瞬間、遂に人間達が腹の底で抱えていた恐怖と絶望が爆発した。
「うわあああああああ!」
「逃げろ、逃げろおおおぉぉっ!」
ほんの僅かな時間の間に、広場では恐ろしい虐殺が始まった。
亜人が人間を蹂躙し、さっきまでの陥落はたちまち絶望に取って代わられた。市民が襲われる恐怖は、少し離れた宮殿にも伝播していた。
「師匠、あれは……!」
慄くカレンの隣で、フォンは悟った。
「……ハンゾーの新しい『忍者兵団』だ。奴は亜人を洗脳して忍者として育て上げ、この日を待っていたんだ。長い時を経て、世界に復讐する為に……!」
思い思いに人を殺し、暴れまわる連中の目が、こちらに向いているのに。彼らはただ殺戮をするべく暴れているのではなく、目的を見定めるだけの冷静さを手に入れているのだと知ったフォンは、彼らの次の行動を予測できた。
武器を構えた無数の忍者は、怯え惑う人々を殺しながら、宮殿へと迫ってきたのだ。
叫ぶ大臣、狼狽する兵士。唐突な災害に、人々は凡そ対応など出来ない。忍者も、この場においては災害と大差ない。
あまりにも急すぎる終焉の切迫を、フォンと仲間達はただ静かに見つめていた。
自分達でも驚くほどに冷静で、去来する死の軍団を迎え撃つ気持ちしかなかった。
「おい、こっちに来る。どうする」
「……どうするって、決まってるよ。あたし達の役割は一つだから」
「うむ! いかに危険な相手であろうと、決着をつけるべく、負けられぬ!」
「――ああ。行くよ、皆」
四人の目が、迫りくる忍者の大群を見据えた。
『忍者兵団』。勇者パーティ。リヴォル。そして、ハンゾー。
恐るべき敵との決着をつけるべく、フォン達の長い一日が。
――最後の一日が、ようやく始まった。