暗闇の中に影っていた景色が、僅かに見えてきた。
暗い壁しかないと思っていた空間だが、そうではない。匂いも、色もない煙らしい何かが、部屋の端からもうもうと立ち込めていた。
「……これは……」
今までこんな状況にも気づかなかったのか、とフォンが自分に驚いていると、壁しか存在しなかったはずの背後から、自分でも、過去の自分でもない声が聞こえてきた。
「――マスター・ニンジャにしか存在を知らされないお香だね。部屋に閉じ込められると自動で焚かれて、強い幻覚作用で精神に異常を齎すようになっているんだ」
振り向きはしたが、振り向かずとも相手が誰かは知っていた。
漆黒の中でも微かに色が認識できるのは、水色のワンピースを纏った黒髪の少女。『修練の森』でフォンにマスター・ニンジャの隠れ家について話し、彼の心を読んでいながら正体を明かさなかった、謎の少女だ。
「君は、外で会った……!」
驚いたフォンに対し、少女は後ろ手を組んだまま、彼の周りをくるくると歩き出す。彼はというと、特に攻撃をするそぶりも見せず、彼女の話に耳を傾ける。
「『修練の森』の奥、この『師に至る通路』で最も過酷な試練はここだよ。自分の思い出したくない過去を引きずり出され、戦わされる……大体の忍者は、ここで朽ちる。どれだけ修行を積んだ忍者でも、過去の闇に勝てない時があるからね」
どうやら、彼女は試練についての全てを知っていたようだ。
ここに至るまでの火炎放射や吊り天井、鉄球の罠はもとより、自らの心と向き合わせる罠についても知っているとは。それならば少しでも教えてくれればよかったのではないかと、フォンは言いかけたが、敢えて黙っていた。
少女は話を続けていたが、フォンの前まで来ると、ハイライトのない目で微笑んだ。
賞賛というよりは、己の為の喜びであるようだ。
「けど、君は、君達は違った。特にフォンは、過去が異質過ぎたから、これまで一度だって見たことのない幻影が出てきたね……忘れ去った、もう一人の自分が」
「どうして僕のことを知ってるんだい? 僕の、記憶のことも?」
「勿論、忍者についてなら全て知ってるよ。けど今は、それについて話す時じゃない」
すたすたと彼の後ろへと歩いてゆき、彼女は聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「――確かめられてよかったよ。フォン、君が『忍者兵団』を率いるのに相応しいってね」
「えっ?」
何を言ったのか、忍者であるフォンすら聞き取れなかった。
彼が確かめようとして振り返った時には、既に少女はいなかった。出口のないはずの空間からどうやって脱出したのかを確かめようとしたフォンだったが、それよりも早く、忍者同士の死闘ですら動じなかった壁に変化が起き始めた。
「壁が……!」
なんと、轟轟と音を立てて、壁が沈み始めたのだ。
即ち、完全に試練が終了したという意味だ。部屋となっていた壁が床に埋もれるにつれて、内側よりも明るい外の闇が差し込んでくる。
奇怪な音と共に沈みゆく壁は、フォンを闇の世界から引きずり出す。そうして元居た、修練の世界に戻ってきた彼は、同じ暗黒の空間にいるというのに、どこか懐かしく感じてしまった。ここに対しての愛着が、少しできてしまったのかもしれない。
ただ、理由はそれだけではない。彼を待ち望む者達が、たちまち眼前に押し寄せたからだ。
「――フォン、フォン!」
大声で叫びながら突進してきたのは、クロエだった。
「お前ええぇーっ!」
「師匠おおぉーっ!」
彼女の後に続いて、今度はサーシャとカレンが突進してくる。壁が完全に床の下に戻ってしまった頃には、フォンは女の子三人に突撃され、すっかりもみくちゃになってしまった。
忍者ならば避けるのはさほど難しくないのだが、彼としては避ける理由などまるでない。仮に自分が倒れ込んでしまうほどの勢いだとしても、心の支えとなってくれた三人を受け止める道を選んだ。
「皆、わっぷ、無事、だったんだ! 良かった、んぶ、本当に!」
ただし、彼女達のフォンを案じる気持ちと、タックルの力が想像以上に強かったのは予想外だった。首に、腕に、同に絡みつく体が重く、力強いのだ。
それこそ、フォンの動きを阻害して、立ち上がれなくしてしまうほどに。
気持ちへの感謝を込めながら、フォンは少しだけ申し訳なさそうに言った。
「嬉しい、凄く嬉しいよ! 嬉しいけど、ちょっと、苦しいよ……」
「わ、ご、ごめん!」
半ば首を絞めていた手を離したクロエにつられ、仲間もフォンから離れる。ようやく解放されたフォンは、少し苦しそうだったが、まんざらでもない様子でもあった。
「げほ、ごほ……過去に勝ったってことは、皆も同じ試練を?」
首を擦るフォンに、クロエはやや神妙な面持ちで答えた。
「うん、あたしもサーシャも、カレンも昔の辛い記憶を見せられた……けど、フォンがいてくれたから、それでも前に進めたんだよ!」
話の後半からは、彼女は笑顔を見せた。
苦しさと悲しさの入り混じった顔は、もうどこにもなかった。きっと、自分の過去をフォン同様に乗り越えられたのだろう。
「……ありがとう」
「拙者もでござる! 師匠を想っていたからこそ、乗り越えられたでござるよ!」
サーシャ、カレンも同様に感謝を述べると、フォンは首を横に振った。
ただし、今度は否定ではない。感謝の意味を込めた動作だ。
「……僕もだよ。皆の声が聞こえたから、僕は自分の過去を受け入れられた。道を違わず、本当に大事なものを守れた……皆がいたからだ、心から感謝するよ」
フォンの台詞は、何もかも事実だった。
仲間の存在があったからこそ、生きることを諦めずに済んだ。信じられたからこそ、師匠からの教えを思い出せた。感謝してもしきれないとクロエ達が言うのであるなら、フォンも同様に、彼女達には限りない感謝の念がある。
双方の絆が、今ここに、真に結ばれたと言えるだろう。
彼が微笑むと、仲間達も微笑み返した。
暗い壁しかないと思っていた空間だが、そうではない。匂いも、色もない煙らしい何かが、部屋の端からもうもうと立ち込めていた。
「……これは……」
今までこんな状況にも気づかなかったのか、とフォンが自分に驚いていると、壁しか存在しなかったはずの背後から、自分でも、過去の自分でもない声が聞こえてきた。
「――マスター・ニンジャにしか存在を知らされないお香だね。部屋に閉じ込められると自動で焚かれて、強い幻覚作用で精神に異常を齎すようになっているんだ」
振り向きはしたが、振り向かずとも相手が誰かは知っていた。
漆黒の中でも微かに色が認識できるのは、水色のワンピースを纏った黒髪の少女。『修練の森』でフォンにマスター・ニンジャの隠れ家について話し、彼の心を読んでいながら正体を明かさなかった、謎の少女だ。
「君は、外で会った……!」
驚いたフォンに対し、少女は後ろ手を組んだまま、彼の周りをくるくると歩き出す。彼はというと、特に攻撃をするそぶりも見せず、彼女の話に耳を傾ける。
「『修練の森』の奥、この『師に至る通路』で最も過酷な試練はここだよ。自分の思い出したくない過去を引きずり出され、戦わされる……大体の忍者は、ここで朽ちる。どれだけ修行を積んだ忍者でも、過去の闇に勝てない時があるからね」
どうやら、彼女は試練についての全てを知っていたようだ。
ここに至るまでの火炎放射や吊り天井、鉄球の罠はもとより、自らの心と向き合わせる罠についても知っているとは。それならば少しでも教えてくれればよかったのではないかと、フォンは言いかけたが、敢えて黙っていた。
少女は話を続けていたが、フォンの前まで来ると、ハイライトのない目で微笑んだ。
賞賛というよりは、己の為の喜びであるようだ。
「けど、君は、君達は違った。特にフォンは、過去が異質過ぎたから、これまで一度だって見たことのない幻影が出てきたね……忘れ去った、もう一人の自分が」
「どうして僕のことを知ってるんだい? 僕の、記憶のことも?」
「勿論、忍者についてなら全て知ってるよ。けど今は、それについて話す時じゃない」
すたすたと彼の後ろへと歩いてゆき、彼女は聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「――確かめられてよかったよ。フォン、君が『忍者兵団』を率いるのに相応しいってね」
「えっ?」
何を言ったのか、忍者であるフォンすら聞き取れなかった。
彼が確かめようとして振り返った時には、既に少女はいなかった。出口のないはずの空間からどうやって脱出したのかを確かめようとしたフォンだったが、それよりも早く、忍者同士の死闘ですら動じなかった壁に変化が起き始めた。
「壁が……!」
なんと、轟轟と音を立てて、壁が沈み始めたのだ。
即ち、完全に試練が終了したという意味だ。部屋となっていた壁が床に埋もれるにつれて、内側よりも明るい外の闇が差し込んでくる。
奇怪な音と共に沈みゆく壁は、フォンを闇の世界から引きずり出す。そうして元居た、修練の世界に戻ってきた彼は、同じ暗黒の空間にいるというのに、どこか懐かしく感じてしまった。ここに対しての愛着が、少しできてしまったのかもしれない。
ただ、理由はそれだけではない。彼を待ち望む者達が、たちまち眼前に押し寄せたからだ。
「――フォン、フォン!」
大声で叫びながら突進してきたのは、クロエだった。
「お前ええぇーっ!」
「師匠おおぉーっ!」
彼女の後に続いて、今度はサーシャとカレンが突進してくる。壁が完全に床の下に戻ってしまった頃には、フォンは女の子三人に突撃され、すっかりもみくちゃになってしまった。
忍者ならば避けるのはさほど難しくないのだが、彼としては避ける理由などまるでない。仮に自分が倒れ込んでしまうほどの勢いだとしても、心の支えとなってくれた三人を受け止める道を選んだ。
「皆、わっぷ、無事、だったんだ! 良かった、んぶ、本当に!」
ただし、彼女達のフォンを案じる気持ちと、タックルの力が想像以上に強かったのは予想外だった。首に、腕に、同に絡みつく体が重く、力強いのだ。
それこそ、フォンの動きを阻害して、立ち上がれなくしてしまうほどに。
気持ちへの感謝を込めながら、フォンは少しだけ申し訳なさそうに言った。
「嬉しい、凄く嬉しいよ! 嬉しいけど、ちょっと、苦しいよ……」
「わ、ご、ごめん!」
半ば首を絞めていた手を離したクロエにつられ、仲間もフォンから離れる。ようやく解放されたフォンは、少し苦しそうだったが、まんざらでもない様子でもあった。
「げほ、ごほ……過去に勝ったってことは、皆も同じ試練を?」
首を擦るフォンに、クロエはやや神妙な面持ちで答えた。
「うん、あたしもサーシャも、カレンも昔の辛い記憶を見せられた……けど、フォンがいてくれたから、それでも前に進めたんだよ!」
話の後半からは、彼女は笑顔を見せた。
苦しさと悲しさの入り混じった顔は、もうどこにもなかった。きっと、自分の過去をフォン同様に乗り越えられたのだろう。
「……ありがとう」
「拙者もでござる! 師匠を想っていたからこそ、乗り越えられたでござるよ!」
サーシャ、カレンも同様に感謝を述べると、フォンは首を横に振った。
ただし、今度は否定ではない。感謝の意味を込めた動作だ。
「……僕もだよ。皆の声が聞こえたから、僕は自分の過去を受け入れられた。道を違わず、本当に大事なものを守れた……皆がいたからだ、心から感謝するよ」
フォンの台詞は、何もかも事実だった。
仲間の存在があったからこそ、生きることを諦めずに済んだ。信じられたからこそ、師匠からの教えを思い出せた。感謝してもしきれないとクロエ達が言うのであるなら、フォンも同様に、彼女達には限りない感謝の念がある。
双方の絆が、今ここに、真に結ばれたと言えるだろう。
彼が微笑むと、仲間達も微笑み返した。