『許す?』

 フォンの問いに頷いた先代は、やはり涙を流していた。
 泣く、という行為の理由が、当時のフォンには理解できなかった。というより、忍者は決して涙を流してはいけないし、感情的になってもいけない。なのに、今の先代は忍者の掟を破っているようにすら見えた。
 だが、フォンはねめつける気にはなれなかった。彼の言葉を、ただ聞いた。

『そうだ。己であれ、敵であれ、許すことだ。俺にはできなかった……自分の血を、邪悪の末裔であることをどうあっても許せず、憎み続けてきた』

 彼の罪を、忘れられない悲しみを聞いて。

『フォン、お前はそうあってくれるな。最も打ち破らなければならない宿命は、何よりも許し、愛し、受け入れてやらなきゃならないんだ――』

 彼の教えを受け入れた時、フォンの前に迫るのは、憎悪に満ちた過去の彼だった。
 苦無を握る力が弱まった。だが、怖れや逃避からではない。

「……そうか」

 呟きと共に、真に為すべきことをようやく理解したからだ。
 フォンは逆手に構えた苦無を下ろした。
 これでいいのだと、もう一度瞳を閉じて――。

「僕のやるべきことは……分かったよ、師匠」

 静かに微笑み、死を受け入れた。
 もう一人のフォンが突き付けた刃が、フォンの胸を貫いた。
 衝動が、衝撃がフォンの心臓を穿った。
 戦いの全てが、完全な静寂と共に終わったようだった。だらり、と力なく垂れ下がったフォンの体と項垂れた顔を見つめ、過去のフォンは苦々しげに呟いた。

「…………どうしてだ」

 勝利したはずなのに、彼はまるで嬉しそうでも、喜びに満ちていてもいなかった。理由はただ一つ、彼の前にいるフォンの、微かな指の動き。

「……どうして、苦無を突き付けなかった。俺を倒して、自分が正しいと証明しなかった」

 そして、顔を上げたフォンの表情だ。
 彼は死んでいなかった。
 心臓を貫いたはずの刀は、まるで刃など最初からなかったかのように、彼の体をすり抜けていた。血も流れず、体も破壊されず、貫いて見える刀は何も齎さないまま、静かに過去のフォンが引き抜くと、すう、とフォンの体を離れた。
 死んでいないからといって、彼はもう一度刃を突き立てようとはしなかった。どちらも戦う意志を見せない最中で、フォンが柔らかな瞳で自分を見つめ、言った。

「……殺せないよ。君も、僕なんだ」

 彼の出した答えは、単純だった。
 自分が何故苦しんでいるのかを見出し、答えを一緒に探した。過去の自分がどれほど拒んでも、隣を歩んでやることしかできなかった。
 ただ、フォンは知っていた。そうするのが、最も正しい、優しい道であると。

「君は、自分の過ちを許せなかったんだ。師匠を殺した罪を許せなかった。救えなかった自分を許せなかった。無力な自分を許せなかった」

 果たして、答えは見つかった。
 過去の自分が許せなかったのは、自分の方だった。師匠を死に追いやった忍者の在り方でも、ハンゾーでもなく、とどめをさしたも同然の自分だった。
 地の獄、闇の底まで沈み切ったとしても許されない罪を背負って、彼は生きるつもりだった。永遠に己をねめつけ、痛めつけ、それでも師匠の言葉通りの自由を享受して生きる。それは、どれほど恐ろしく、辛い罰だろうか。
 そのような苦しみを抱えて生きる者を、自分でなくとも見過ごせるだろうか。

「――代わりに許すよ。僕が、君を、何もかもを許す」
「……ッ!」

 そんなはずはない。
 だからこそ、フォンは言ったのだ。許すと、罪を背負う必要はないと。
 かっと目を見開いた過去のフォンを諭すフォンの声は、どこまでも澄み切っていて、優しい。再び彼が刀を突き付けないのは、その声に聞き入っているからだ。

「傲慢かもしれない。詭弁だと思われるかもしれない。でも、君が何よりも許せずに憎んでいるのが僕じゃなく、自分自身だっていうのは分かってる。君は、僕なんだから」
「そんなこと……」
「誤魔化さなくていい。僕を許せないんじゃなく、自分が憎くて仕方ないから、怒りをぶつけていたんだろう? 今なら分かるよ、君の想いも、悲しみも、痛みも」
「分かったような口を利くな!」

 怒鳴りつけても、フォンの想いは変わらない。
 何より、彼は知っている。

「いいや、分かるよ。『俺』は『僕』だ。だから、君も師匠の言葉も覚えているんだよ」

 彼は自分で、自分は彼。ならば、腹の底に秘めた感情や感傷も、同じだ。

「人を倒すだけが道じゃない。自分を許すことで、初めて他者を信じられて、自分や誰かを許す力になるんだ。そしてそれが、先代が最も望んだ――いいや、違うね」

 ならばもう、迷う理由はない。

「――僕が望んだ力だ。人を救う、『人不殺』の果てにある望みだ」

 苦無を落とした彼は、代わりに自分の手を握り締めた。

「だから、僕は君を殺さない。君と一緒に、忍者として歩みたいんだ」

 そして、笑った。
 あの時は一度だって見せた記憶のない笑顔を、今度こそ誰かに見せた。
 生き様、生き方、その他諸々、何もかも詰め込んだ笑顔を目の当たりにしても、過去のフォンは無表情だった。記憶の冷たさを抱えたままの顔つきだった。

「……とことん、甘い奴だ。忍者なんかには不向きだ」

 声もまた、冷徹な意志を伴っていた。

「――だけど、フォンとしては合格だよ」

 だが、心の優しさだけは、目の前のフォンと同じだった。
 彼は呆れた調子で小さく頷くと、手を軽く握り返した。
 途端に、過去のフォンの姿が薄れ始めた。代わりに、青色の光の粒になって、彼の体が今のフォンの中に溶け込んでゆく。まるで、最初からそうなるのが分かっていたかのような光景を前に、フォンは少しだけ戸惑った。

「これは……?」

 一方で、青い粒子になりゆく過去のフォンは、ただ笑うばかりだった。

「何を驚いてるんだ? 俺はお前なんだから、お前のもとに帰るのは当然だろ?」

 消滅も、消失も怖れていなかった。
 いや、もう何も怖がる必要はない。恐怖に打ち勝つべく、刃を振るう必要もない。
 柔らかな優したと喜びの中に、ただ還ってゆくだけだ。

「だけど、もう道は阻まないさ。今度は、お前の未来を生きてくれ――」

 体が消え、顔が消え、全てが淡い光になって消えても、彼の声は聞こえた。

「――よろしくな、『フォン』」

 自分は、自分自身に託された。
 光が彼の体に溶け込んでいくのを感じながら、フォンは声を返した。

「……よろしくね、『フォン』」

 闇が、少しだけ晴れた気がした。