隔離された空間に響いた声を、もう一人のフォンも聞いていた。
 唐突な苦無の防御に不意を突かれた彼は、圧倒的優勢であるにも拘らず敵と距離を取った。まさか生きる意志を失った相手が、無意識の防衛を行うとは思っても見なかったのだ。
 一方、防御姿勢を取ったフォンは、漏れるような吐息と共に立ち上がってみせた。

「何だ、この声は……?」

 記憶の中に埋もれた彼は知らなかったが、これまで生きていたフォンの方は知っている。自分の名前を必死に呼んでくれた声が何者であるか、どこの誰であるか。

「……クロ、エ?」

 クロエだ。
 壁の向こう側の景色は見えず、誰が何をしているのかはまるで見当もつかなかったのだが、今は違う。四方を囲む黒い壁の外がどうなっているのか、想像がついた。

「フォン、聞いて! 今、フォンが何を見ているかは分からないけど、呑み込まれないで!」

 仲間達が壁を叩き、叫んでいるのだ。
 クロエだけではない。サーシャやカレンも、狂ったように吼えている。部屋の中で苦しみに耐えているフォンを想った彼女達は、もう黙ってばかりではいられなかったのだ。
 勿論、メイスですら破壊できない堅牢な壁を叩いて無傷でいられるはずがない。叩きつける拳は己の血で赤く染まり、無音の世界に声を届かせる為に、喉は血を噴かんばかりに腫れあがる。舌と口がひりつき、掌に血が滲む。
 だとしても、三人はフォンを応援するのだ。何度も、何度も叫ぶのだ。

「今見せられてるものは現実かも知れない、拭い去れない過去かも知れない! だけど、あたし達は乗り越えた! 苦しいけれど、辛いけど乗り越えられた!」

 彼女達も、死の闇と向かい合った。どんな形であれ、先へ進めた。
 どうしてか。フォンを想ったからだ。

「――だったら、フォンだって前に進める! 誰よりも強くて、優しいフォンなら!」

 ならば、逆も然りであるはずだと、クロエ達は確信した。
 どれだけ独りよがりであろうとも、身勝手であろうとも、自分達は仲間だ。互いに互いを信じ合い、苦境に立ち向かってきた。サーシャも、カレンも、過ちの中に希望を見いだせたのは、今まさに苦しんでいるだろう者がいたからだ。
 ならば、今度こそ希望を伝えなければ。愛を叫ばなければならない。

「お前、サーシャより強い! 悔しいけど、サーシャ、認める!」
「師匠が教えてくれた思いで、拙者は闇を乗り越えたでござる! 過去も過ちも乗り越えて、拙者は闇に呑み込まれなかったでござる!」

 今こそ、彼の全てに報いる時なのだと、サーシャもカレンも分かっていた。

「だって、お前、いいや、フォンはサーシャを認めた! サーシャが怖がってた掟を否定した! フォン、凄い、こんなところで終わらない!」
「だから、だから、師匠! 今度は拙者が、師匠の背を支える番でござるぅーっ!」

 涙で顔がぐしゃぐしゃになっても、精悍な顔がどれだけ崩れようとも、フォンを応援した。
 心の底から彼を信じると誓った。苦しんでいるなら助け船に、架け橋になるとも誓った。なのに、今こうして声援を送ることしかできない自分の姿に、彼女達は心底情けなく思った。
 無為に身を削るだけだと、もう一人のフォンは思った。このまま叫び続ければ破滅への歩みを進めるだけだというのに、なぜこんな無駄な行いができるのか、疑問でならなかった。

「……障壁を超えて声を伝えるなんて……自分の喉を裂くのと同じだぞ……?」

 理解が及ばないのは当然だ。彼にとって、クロエも、サーシャも、カレンもどうでもいい。ただ単に仮初の人格が仲良くしていただけの相手に過ぎず、自分の人生には凡そ縁遠い相手だからだ。
 ――しかし、彼には違った。

「……ありがとう」
「何だと?」

 小さく呟いた仮初の人格の言葉を、もう一人のフォンは聞き逃さなかった。
 気づくと、彼は完全に立ち上がっていた。操られた傀儡のような足取りではなく、確かに自分の意志で直立している彼は、決意を湛え、顔をもう一人の自分に向けた。

「僕は、自分に何もないと思っていた。全てが仮初だと思っていた……けど、違う」

 自分が孤独で、虚無だと認めるのは簡単だ。
 だが、その行いは、自分を信じてくれた人達への最大の侮辱であるのだ。
 ちっぽけな繋がりを最後まで守ってくれたクロエを。
 戦いでしか分かり合えなかったサーシャを。
 己の信じた歪みのみを全てとしていたカレンを。
 三人を救った――三人に救われた絆を、自らの手で蔑ろにするのが、どれほど信頼を裏切る行為なのか。それが理解できないほど、フォンは愚かではなかった。
 そしてそれこそが、自分と本当のフォンとを分ける唯一の要素でもあった。

「もしも僕の全てが仮初だとしても――彼女達は、仲間は偽りじゃない!」

 だから、フォンは声を張り上げた。
 ただ一つの願いと友情こそが、自分を、彼女達の知るフォンだと証明するのだと。

「戯言を……!」

 納得するしかなかった片割れの言葉も、今だけは認めるわけにはいかない。
 戯言ではない。虚言でもない。これだけは、それだけは真実だ。

「仲間の為にも、僕を信じてここまでついてきてくれた皆の為にも、僕はここでは死ねない、死ぬわけにはいかない! 不条理だとしても、世の摂理に、道理に反するとしても!」

 突き付けた苦無と、立ち上がり床を踏みしめる足と、燃える瞳が証明した。
 落ち着いた顔でも、怒りに染まった顔でもない。
 新たな、そして真実のフォン。

「――僕はフォンに、ただのフォンになってみせる!」

 ――戦いへの決意を誓った、フォンだ。
 そんな彼の様を見たもう一人のフォンは、最早怒りで顔を悍ましく歪めていた。ずっと諦めていた人間が、よもや勝手に勇気を振り絞り、本物に挑むというのだから、その怒りたるや計測もできないだろう。
 血管が浮き出るほど強く握りしめ、柄が曲がりかねない刀が、憤怒の証明だ。

「紛い物の人格如きが、本物の俺を拒むなあぁッ!」

 本物のフォンは金切り声に近い絶叫を轟かせながら、偽物に斬りかかった。
 先程までなら間違いなく彼の体を縦半分に斬り裂いていた一撃だが、今度は違う。勢い良く叩きつけた刀は、振り上げた苦無によって遮られた。

「この、速度……俺よりも、速い!?」

 迷いのない目が、もう一人の自分を捉える。
 勇気を満ち満ちさせた彼に、敵はない。

「忍者には当然の速さだ! 忍び忍ばず、フォン、いざ参るッ!」
「俺の前で、俺の名前を語るんじゃあないッ!」

 例え、己の在り方を全て否定されて憎悪に燃えるもう一人の自分が敵だとしても――振るう苦無と、蹴り上げる足と、突き付ける拳に躊躇いはなかった。
 目にも留まらぬ速度で、フォン同士の決着をつける戦いが始まった。