いかにハンゾーが忍者の長だとしても、この一撃から、死から逃れる術はない。
 確実に絶命へと至らせる一振りを浴びた彼の野望は、紛れもなくここで潰えた。なのに、ハンゾーの包帯の内側、醜く爛れた顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

「……くく……見事、見事よ!」

 まるで、希望はまだあると言わんばかりに。
 絶望を世にしらしめるにはこれが必要だと言わんばかりに。

「お主こそ真に強き忍者、『忍者兵団』を統べるに相応しき者……また会おうぞ……!」

 自らの血で赤く塗りたくられたハンゾーの目から、光が消えた。
 どう、と嫌な音を立ててレジェンダリー・ニンジャが死んだのを最後に、敵として対峙した忍者は全て死んだ。マスター・ニンジャも、一般兵の忍者も、レヴォルも、同僚も、何もかも斃れ、息絶えていた。
 延々と炎が辺りを照らす暗闇の中、ただフォンは立ち尽くしていた。そんな彼に声をかけたのは、のそりと体をどうにか起こし、後ろ姿を虚ろな目で見据える先代だ。

「……フォン……」
「――師匠!」

 我に返った彼は刀を捨て、先代に駆け寄った。これまでの冷たい感情からは一転、年相応のリアクションを取っている辺り、彼の本質はこちらなのだろう。
 そんな様子を見て満足したのか、流れる血を止めようともせず、先代は必死になって血を止め、治療を試みるフォンなど構わずに話し続ける。

「……よく、やったな……忍者の、野望を、ごほ、止めてくれたな……」
「喋らないで! 今止血する、それから……」

 彼とて忍者だ、怪我の治療にも秀でている。たった一人で何十日も戦い続けることがある彼らにとって、単身での手術すら日常茶飯事である。つまり、フォンがこのまま治療行為を続けていれば、先代は助かる可能性がある。
 尤も、そう思っているのは彼だけだ。先代は、自分の最期に気付いている。
 だからこそ、先代はフォンの手を掴み、彼の行いを止めさせた。

「……それが、お前の、本当の姿、なんだな」
「師匠?」
「……俺はもう、もたねえよ……じきに死ぬ……その前に……お前に、教えておきたい」

 ぜいぜいと漏れる血と呼吸に混ぜて、先代は言った。

「俺の、正体は……ハンゾーの息子だ」
「――――ッ!」

 自分の、血塗られた忌むべき本質を。
 フォンはまるで知らなかったが、先代がここで言うのならば真実なのだろう。彼は自らの手で悍ましき血筋を絶ち――父を殺し、忍者を滅しようとしていたのだ。

「ここで……俺が死ぬのは……必要な、ことだ……ハンゾーの、悪の忍者の血を……絶やしておかなきゃ、いけないんだよ……」

 そして彼の計画は、きっと自分が死ぬことで完遂するのだ。仮に全てが上手くいったとしても、どこかで自死を選び、ハンゾーの血を根絶やしにする必要があるのだ。
 だが、フォンだけは彼の意に反した。

「違う、師匠は師匠だ! 俺の感情を解き放ってくれた!」

 今まで一度だって見せなかった顔で、涙を湛えた顔で、フォンだけは彼の死を拒んだ。

「生きてくれ、頼む! 俺に悲しみと、誰かを失う怖れを与えてくれたのは、貴方だ!」

 そう聞いて、先代の死んだ瞳に、微かな明かりが灯った。
 正直なところ、フォンにこう言われたからといって、先代はこれから生きてやろうという気持ちにはなれなかった。どんな形であれ自分が死ぬのは必然で、ハンゾーから受け継いだ『禁術』諸共灰となるべきだった。
 だとしても、先代はこのまま死ぬわけにはいかないとも思った。己も末路が決まっていようとも、その前にできることがあるはずだと悟った彼は、静かに呟いた。

「……忍者として生まれて……育って、今までいいことなんて、何もなかった……」

 痛みと苦しみしかない記憶の最中に、唯一の喜びを与えてくれた者に、感謝と愛情を返すべく、先代はフォンの額に人差し指を当て、少しだけ押し込んだ。

「ハンゾーの命令に従って、邪悪な力を受け継いで……人を殺して、殺し尽くした俺に……まだ、できることがあるとすれば……」
「……?」

 不意に、フォンの頭の中が軽くなった。
 忍者としての依頼や任務、多くの思い出が、悲しみが砂となって消えていくようだった。

「……これだけだ。俺は、あいつと違って……記憶を操るんじゃなく……蓋をする……」

 これこそが、先代の忍術だ。
 理屈は分からない――忍者が忌み嫌う『魔法』のようでもあったが、ハンゾーが記憶を植え付けて洗脳するのであれば、彼は記憶に蓋をして忘れさせる術が使えるようだ。ただし、何故これまで使わなかったのかというと、理由は彼の反応にあった。

「お前から、忍者の記憶を……できる限り……う、ごぼッ!?」

 喋っている途中で、先代は口から物凄い量の血を吐き出した。
 恐らく、彼の術は己の体に負担を与えるのだ。明らかに致死量としか思えない量の吐血を目の当たりにして、彼の血で顔を濡らしたフォンは先代を制する。

「よせ、やめろ! やめるんだ!」
「いいや、やるんだ、やらなきゃいけない……お前の悲しみの記憶だけでも、せめて……!」

 それでも、彼の手を撥ね退けて先代は指を額に当て続けたが、次第に力が緩み、眼球と鼻から血が流れだした頃にはとうとう指がずり落ちた。

「……すまん、俺にできるのは……ここまでだ……」

 フォンは、何もかもを忘れられなかった。
 多くの思い出が、まるで水のように溶け込んでいく。なのに、忍術や自分がやって来たことの一部は忘れられていない。しかも、目の前の人も忘れられない。
 死に瀕し、体が少しずつ冷たくなる人が恩師であると、忘れられない。

「忍者の、記憶の全ては出来なかったが……がはっ……一部だけは、封じられた……げほ、ごぼ……お前の痛みを、済まない、全ては……」

 半端に欠けた記憶が途絶え始める中、先代の命の灯が消えゆく。

「……フォン、今日を、最後の……殺しにしろ……『人不殺』を守り、己の為に生きろ……」
「駄目だ、駄目だ駄目だ! 死ぬな、死んじゃいけない! まだ俺に――」

 これからできることもあるはずだ。
 共に生きられるはずだ。
 新しい道もあるはずだ。
 思いは幾らでもあるのに、何もかもが閉ざされる。瞳と共に、記憶と共に。

「そして……これだけは忘れるな」

 目が閉じる。願いなど、容易く掻き消される。

「お前は、どんな時でも――――」

 ――ここまでが、過去の全てだった。