遠くから聞こえる修行に励む者達の声。焼け焦げた後も残っていた忌避剤と里特有の匂い。窓の外に見える背の高い木々。何もかもが、かつての里だ。

(この匂い、風景、人の声……忍者の里だ、間違いない。僕の知る限り、ここはマスター・ニンジャの居住区……訓練場から離れたところだ)

 目に映るもの全てが真実であるかを確かめたかったが、彼にはできなかった。

(でも、どうしてここに? さっきの光が関係しているのか、それともこれすら幻覚なのか? 口も動かないし、仲間も呼べない……どうなっているんだ?)

 というより、体が動かないのだ。思考だけがまともに機能していて、座ったままの体を起こすこともできなければ、指先一本動かすのも能わない。瞬きすら自分の意志ではなく、まるで誰かに操られているかのようだ。
 いずれにしても、助けすらも止められないこの状況は相当まずい。仮に幻覚でないとすれば、もしも誰かと鉢合わせれば、どんな目に遭うか分からない。

(動けない……体が言うことを聞かない。クロエ、サーシャ、カレン、どこに……)

 そうこうしているうち、とうとう眼前の木製の扉が軋んだ。
 誰かが入ってきたのだ。

(……まずい、逃げないと……!)

 頭の中だけで必死に動こうとするフォンの努力も虚しく、錆びたような音を立てて扉が開き、人が入ってきた。ここを里と仮定している以上、入ってくるのは忍者だろうと予想していた。何者かまでは分からずとも、少なくともフォンの知っている人間であると。
 しかし、フォンの前に立っていたのは、意識の中の彼が息を呑む相手だった。

「――悪かったな、急に呼び出して」
(――ッ!)

 瞬間、フォンの頭の中に恐ろしい量の情報が雪崩れ込んできた。
 偽物の自分と戦っている時の比ではない記憶が、頭を瞬時に埋め尽くした。男の存在そのものが、間違いなくフォンが今いる場所を過去の映像だと確信させた。

(彼は……そうだ、覚えている! なんで忘れていたんだ、彼が誰かだなんて!)

 真っ黒なパーカーとカーゴパンツはマスター・ニンジャの正装。光を吸い込む漆黒のショートヘア、がっしりした体型に似合わない朗らかな顔つき。何より、右頬に刻まれた深い二本の刀傷。これら全てが、フォンに結論付けさせた。

(この人は――僕の師匠だ! マスター・ニンジャの一人“先代”フォンだ!)

 そう。
 彼こそがフォンの師匠、忍術を教えた者――先代、二代目フォンだ。
 これまで彼の顔すら思い出せなかった自分を情けなく思いながらも、フォンはどうにか体を動かそうとした。聞きたいことが山ほどあり、話したいことが山ほどあったのだが、フォンの口は彼の激情に従わなかった。

「……いえ、任務の一環ですので」

 淡々と、彼は彼の声で、彼の思っていない言葉を放った。

(くそ、どうしてだ、どうして僕の意志で会話できないんだ!? これがもし過去の映像だとするのなら、僕は僕として追体験する以外の行動ができないのか!?)

 頭を掻きむしりたいほどの衝動に駆られるフォンの気持ちなど露知らず、先代はがははと笑いながら、フォンの正面にどっかりと座った。

「ハンゾーから聞いたぜ、マスター・ニンジャになる為の試練を受けるんだって? これまで一度も依頼を失敗していないお前なら、ま、余裕だろうな」
「試練自体はレジェンダリー・ニンジャからの指令です。命令は絶対です」

 フォンの声は無機質で、まるで抑揚がない。今のフォンとは真逆の声だ。
 やはり、これは記憶の映像に過ぎないのだ。小説を読んでいる者が物語に介入できないように、劇の観客が傍観者の立場に徹するように、今のフォンはあくまで追従することだけを許される立場なのだ。

(やっぱり、意識とは別に動いている……過去を追うだけなんだ、今の僕は……!)

 ならばこれが行き着く先に残っているのは、恐らく過去の終わり。
 諦めた調子で、心の中で俯くフォンの前で、話は続いてゆく。

「任務に失敗は許されません。俺は確実に命令を全うします」
「そうか。だったら俺が命令した通りに、ここまで来られたんだな?」
「あらゆる挙動に、行動に誰も気づいていません。師匠の隠れ家に俺がいると知っているのは、貴方と俺だけです」

 抑揚のない声に対して、先代は腕を組んで感心したようだった。

「見事だな。流石、ハンゾーが次の長として期待するだけはある」

 自分が次の長に推されていると言われても、記憶の中のフォンは眉一つ動かさない。
 そんな彼に、先代はずい、と顔を寄せた。さっきまでのおどけた調子は欠片もなく、あるのは忍者――マスター・ニンジャの称号を持つ者の毅然とした表情だ。

「……三代目フォン、今一度聞いておく。これから話す内容は、忍者の里に仇名す行為になる。全ての忍者を敵に回す反逆だ。それでも、俺に従うか?」

 彼が示唆するのは、忍者の里への反逆だった。
 たった一言だけだが、思考だけのフォンの心臓が脈打った。忍者として決してあり得てはならない――考えることすら重罪に値する提案を、よもや先代フォンがするとは思いもよらなかった。
 当然、フォンにとっても本来黙秘していてはいけないし、他のマスター・ニンジャに密告されてもおかしくない。しかし、この時の彼はあらゆる命令よりも先代、つまり彼に忍術と忍者の全てを叩き込んだ者の発言を尊んだ。

「先代の命令は絶対です」

 必要最低限の返答だが、冷たい声は即ち肯定を意味していた。
 先代とフォンは数秒ほど目を合わせていたが、やがて先代の方からゆっくりと顔を離した。笑顔ではなかったが、少し安心したようでもあった。

「……分かった。だったら、今回の任務について話す……ハンゾーの計画についてもな」
(忍者の里に仇名す? どういう意味だ? それに、ハンゾーの計画だって?)

 フォンの疑問に答える形で話を切り出したのは、先代だった。

「単刀直入に言うぞ。ハンゾーは忍者の里の全戦力を以って、とある国に侵攻を仕掛けるつもりだ。軍事国家を支配し、他国への侵略すら企てている」
「……!」
「俺はそれを見過ごせない――進撃を始める前にハンゾーを殺し、野望を止める」

 意識が同期していれば、恐らくフォンはこの場で立ち上がり、徹底的に言及していただろう。それくらい、彼の目は驚きに満ちていた。

「他の忍者が従うのですか」

 彼の問いも至極当然だ。意識の中のフォンでも、きっと同じ問いかけをするだろう。
 忍者とは他者からの依頼で動き、世の平定を陰から支える存在だ。なのに、その忍者がよりによって自ら世の平穏を乱す行動をとるなど、これまでの忍者の歴史全てを覆す愚行と言っても過言ではない。
 忍者は軍隊でも、ましてや傭兵や国家戦闘集団でもない。というより、実行に移すとなれば、それはテロリストと同義だ。彼の知る忍者の在り方ではない。
 冗談の範疇であればと願ったが、首を横に振る先代の顔が、そうでないと示していた。

「お前も気づいているだろう? 今、里に所属している忍者は、あいつの思想に賛同する忍者が殆どだ――逆らえば能力で洗脳される。里は最早、ハンゾーの独裁状態なんだよ」
「俺と師匠以外は、でしょうか」
「そうなるな。俺も表向きはハンゾーに従っちゃいるが、あいつの洞察眼は並じゃない。いずれは……いや、もしかしたら俺の動きは全て見透かされてるかもしれない」
「なら、この作戦は失敗するのでは?」

 意識の中のフォンと同じ問いかけに対し、先代は別の意味で首を振った。

「いいや、俺も先手は打ってある。忍者を内側から瓦解させる為に、実は少し前から共謀してくれる奴がいてな。女で若いが、正義感に溢れた奴だ」
「誰です?」

 少しだけ間を空けて、先代は言った。

「お前も知っているだろう――カレンだよ。火遁忍術の使い手だ」

 今度こそ、フォンは衝撃のあまり、吐き戻しそうになった。