過去と記憶に苛まれるのがこの試練であるならば、予てからそれに追われ続けてきたフォンに忍び寄っているのは、どれほどの恐怖か。自分達の想像や予想を遥かに超える絶望が、鎌首をもたげているのではないか。

(そうだ……ここに来たのは、フォンの過去を、あたし達より深い闇を取り払う為だ)

 顔を掴まれ、みしみしと骨が鳴る音を頭から取り払うクロエの目に、灯が宿る。

(こうして怯えている間にも、彼はもっと怖い思いをしているかもしれない……親より、一族より、犠牲者よりも恐ろしいものと向き合っているのかもしれない)

 彼女達がここに来た理由を、今一度思い出す。
 仲間として共に歩む為。守られてばかりではなく、今度こそ守る為。
 ならば、自分達よりも苦しい闇に囚われているのなら――救い出さねば。

(一人で戦わせない――フォン、今度こそあたし達が傍にいる!)

 暗い掌の奥で、クロエはかっと目を見開いた。
 そうして、娘を死に導こうとする両親の前で、喉が張り裂けそうな言葉を漏らした。

「――ごめんね、お父さん、お母さん。あたし、まだ死ねない」

 両親は、ただ首を傾げるばかりだ。どれだけ本気の言葉を投げかけても、二人がただ彼女を死に追いやろうとしているだけなのを見て、クロエは確信した。
 彼は、彼女は、本物ではない。蘇ってもいないし、ましてや霊体でもない。

「あたしが無念を晴らしたって一人で思い込んでたとしても、二人が本当はあたしも一緒に来てほしかったって思ってたとしても、行けない。だって、だって――」

 ならば、遠慮する必要はない。覚悟さえ決めれば、決着がつく。
 ぎりぎりと歯を鳴らしたクロエは、落とした荷物の中から矢筒に触れ、それを握り――。

「まだ、フォンがあたしを必要としてるからッ!」

 母親の顔に、矢を思い切り突き刺した。
 悲鳴は上がらなかった。掌が顔を掴む力が弱まったのを感じたクロエは、思い切り右腕に力を込めると、ずぶずぶと眉間に矢を突き刺した後、全力で引き抜いた。黒い血のような液体が飛び散るのを見ずに、彼女はそのまま、父親の方に飛び掛かり、矢を刺した。

「ううぅ、うぅ、ぐうあああぁああぁ――ッ!」

 影はやはり叫び声の一つも上げなかったが、代わりにクロエが叫んだ。傷は一つもついていないのに、家族の面影に矢を突き立てる行為が、彼女の心を抉った。
 喉を潰すほどの絶叫は、壁を隔てた二人にも届いた。

「……クロエ?」
「……クロ、エ……?」

 手を無為に振り回すサーシャと、ただ蹲るだけのカレンに。
 ぱくぱくと口を動かし、黒い液体を撒き散らす父親の歪んだ顔を凝視しながら、クロエは吼えた。そうでもしなければ狂ってしまうと言わんばかりに、しかし確かな勇気を胸に、彼女は仲間達の目を覚まさせるべく叫び続けた。

「二人とも、フォンが今一人で戦ってる! きっと、あたし達よりも恐ろしい幻影を見せられてるんだよ! 助けないと、今度こそ守ってもらってばかりじゃなくて、助けないと!」

 フォンを守るべく。フォンの闇と痛みを分かち合い、防ぐべく。
 腹の奥に燃え盛る炎を研ぎ澄まし、最初に覚醒したのはカレンだった。

「……すまん、すまんでござる、拙者が殺めた者達よ……!」

 頭の上から覆いかぶせていた腕を、ゆっくりと離した彼女は、うぞうぞと蠢いていた手を払い、自分を無理矢理鼓舞するかのように立ち上がった。
 彼女の知らないところで、サーシャもただ手を振り回すだけの無駄な行為を止めた。掟を守らずに現状に甘える彼女を殺すべく近づいてくる、民族衣装に身を包んだ同胞の幻影を前に、ばきぼきと指の骨を鳴らす。
 死を求める者達に対し、最早カレンもサーシャも、迷わなかった。

「それでも拙者は、師匠の為に進まねばならん! なればこそ今は、御免ッ!」
「サーシャ、掟を守る! けど今は、一族よりも、あいつを守るッ!」

 いや、迷いを無理矢理振り払ったのかもしれない。
 目を閉じながら、カレンは長い爪で、サーシャは唸る筋肉で幻影をねじ伏せた。血の如く闇が噴き出すのを見るのに耐えられなかった彼女達の、必死の勇気の形だ。
 壁の向こうで二人が重圧から解き放たれたのを悟ったクロエの前で、ゆっくりと父親の影が消えていった。何かを言いたそうにしていたが、彼女にはもう届かなかった。

「……ごめんね……本当に、ごめん……!」

 理不尽だとしても、本物でないとしても、クロエはただ詫びるほかなかった。
 影が溶けていく様を見続ける彼女の周囲にあった壁が、少しずつ床に戻ってゆく。三度目の地鳴りの音が響いた先にあったのは、それぞれ黒い液体に塗れ、己の心にあった闇を踏み潰してでも仲間を手繰り寄せた三人だった。

「部屋が……!」

 立ち上がったクロエのもとに、仲間達が駆け寄ってくる。

「クロエ、サーシャ! 無事でござったか!」
「おかげさまでね……皆、幻覚を見せられていたのかな」
「……フン」

 二人とも肯定はしなかったが、つまりはそれが答えなのだ。

「でも、これであたし達に対する試練は乗り越えられたってとこだね。なら――」

 彼女はてっきり、全ての試練が終わったものだと思った。
 だが、ただ一つだけ、未だ黒い鋼の壁に閉じ込められた世界があった。

「――そんな、フォンの部屋だけまだ残ってる……!」

 フォンの部屋だ。
 全く声も通じない、中から何も聞こえてこないフォンの部屋だけが、まだ解除されていないのだ。自分達が出てこれたから彼も無事だというのは、とんだ思い込みだった。

「あいつ、出てきてない!?」
「二人とも、そこを退くでござる! 忍法・火遁『鬼火の術』ッ!」

 困惑するクロエとサーシャをどかし、カレンは指先から火を放った。打撃が通じないのであれば炎ならば、と予想した攻撃だったが、炎が舐め回した先にあるのは、傷一つ、焦げ一つついていない、黒光りする壁だった。

「駄目でござる、傷一つつかぬとは……!」
「フォン、フォン! 聞こえる!? 何が見えてるの、ねえ!?」

 焦りと恐れから、クロエは壁に張り付き、必死に拳で叩く。
 何が起きているのかと、もしかするともっと恐ろしい事態が起きているのではないかと考えただけで、瞳が見開き、心臓が酷い意味で高鳴る。
 声の一つ、挙動の一つ確かめられればいいのに、何一つ感じられない。
 完全な虚無だけが悲しく響き渡る中、部屋の中にはやはり、フォンが立っていた。
 松明が消え、光源が何もないというのに、彼の視界はやけにはっきりしていた。部屋の大きさはそれほどでもないのに、何故かギルディアの冒険者案内所よりも広く感じられた。
 ただ、いずれの要素よりも、フォンの視線をくぎ付けにしたのは、眼前のそれだ。

「……君は……」

 同じ髪。
 同じ瞳。
 同じ服。
 同じ姿。
 彼は、己の網膜を疑った。

「――初めましてだな、『俺』」

 まさか――もう一人の自分が、目の前にいるなどと思わなかった。