どうしてここにいるのか。何故背後から姿を現したのか。
 そんな問題は、今のクロエにとっては些末の極みだった。手を震わす彼女が両親の顔を忘れたことなど一度もなかった理由は、双方の別れにあった。

(忘れるはずがない。あたしの両親は、数年前に魔物に殺された。成果をねめつけた同業者に嵌められて、武器を奪われて山奥に捨てられて、死んだ)

 以前フォンに話した通り、クロエの両親は死んだ。彼女の生まれた街では肩を並べる者がいないほどのハンターだったが、同業者から疎まれた末に、共謀の犠牲となった。彼女が見た両親は、魔物に啄まれ、半分ほど肉体が残っていなかった。
 街の人々は犯人を知っていたが、敢えて黙っていた。クロエだけが犯人達――両親の顔馴染みであるハンター達に生かされたのは、単純に油断と慢心である。

(あたしはまだ子供だからって見逃してもらえた。街を出て行くのを条件に、だけど……)

 果たして、少女は家族の死を忘れるほど純粋ではなかった。

「――クロエ、私達の仇を討ってくれたんだね」

 母親が微かに口を開いて発した言葉の通り、クロエは復讐を成し遂げていた。

(……そうだ。あたしは街の同業者の狩人を殺した。その日の夜に、一人一人殺した。お父さんとお母さんを殺した奴らを川に沈めて、街を出た)

 併せて五人の容疑者に、クロエは裁きを下した。眠っている間に喉を裂き、または酒に酔った者を川に突き落とした。そうして、街と人への信頼を失い、故郷を去った。
 だとすれば、やはり二人は死んでいるのだ。どれだけ嬉しくても、久しく会えなかった悲しみが頬を伝っても、現実的に考えればここにいるはずがないのだ。

「二人とも、どうしてここにいるの……?」

 娘の問いに、父は朗らかな笑みを浮かべて言った。

「……そんなの、決まっているだろう?」

 おかしなジョークを言われた時のような表情で、妻と顔を見合わせた後、言った。

「お前を連れて行く為だよ。まだお前だけが生きているなんて、おかしいじゃないか」

 凡そ信じられない、父の口から出てくるとは思えない、悍ましい台詞を。

「……えっ?」

 一瞬、クロエのあらゆる思考が止まった。
 両親の目は、暗く澱んでいた。クロエはてっきり――あまりにも都合の良い考えではあるが、復讐を果たしてくれたのを喜んでいるのだと思っていた。己の死を望んでいるともとれる発言をしたなど、到底信じられなかった。
 だが、首を揺らしながら闇から這い出る両親の声が、彼女に現実を叩きつけた。

「私達が死んでいるのに、一人だけ残すなんて可哀そうでしょう? だから、一緒に逝きましょう。貴女だけまだ私達の傍にいないのよ、だから、早く……」
「お前だけどうして生きているんだ、見逃してもらえたんだ……クロエ、一緒に……」

 伸ばしてきた手と、虚ろな表情で、クロエは全身が総毛立つのを感じた。
 リヴォルとの戦いやクラークの暴走など比べ物にならない恐怖を目の当たりにした彼女は、殆ど反射的に父と母から目を背け、壁を拳で叩き出した。

「――サーシャ、カレン! 誰か、お願い! 返事をして!」

 理屈が、事情が、原因が不明であればまずは助けを求めるというのが、クロエの必勝戦法の一つでもあった。彼女に恐れを抱かせているのは両親の影であるからで、仲間ならば躊躇いなく自分を助けてくれると考えたのだ。
 どんどんと壁を叩くクロエに対して、右隣の部屋からサーシャの声が聞こえてきた。

「…………なんで……」

 ただし、彼女が呆気にとられるほど、弱弱しい声だったが。

「サーシャ?」
「一族の長、皆、ここにいる、おかしい! 違う、サーシャ、掟を守ってる! サーシャ、一族の誇りを持ってる、やめろ、見るな、サーシャを見るな!」

 理由は直ぐに分かった。サーシャもまた、クロエと同様に恐ろしいものを目の当たりにして、心を乱されているのだ。
 しかも彼女のように、両親が出てきたのではない。会話の節々しか聞き取れなかったが、ギルディアに来る前のトレイル一族と話しているらしい。勿論、サーシャが一族最後の一人だと自称していたように、彼女が見ている相手も死んでいるはずだ。

「……そんな……カレン、カレンってば!」

 今度はカレンを呼びかけるが、これまた返ってきたのは、震えて掠れた声。

「…………ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい!」

 しかも、サーシャとは違って何かに謝っているようだった。

「知らなかったでござる、拙者の正義が間違っているなど、殺してもいい正義が存在しないなど! 殺したのは反省しているでござる、だから来ないで、来ないでえぇっ!」

 姿は見えないが、クロエには猫が必死に蹲っている姿が想像できた。
 カレンに見えているのは、きっとこれまでに殺してきた悪党達。フォンと出会うまで、彼女は悪であれば殺しても構わないと考えていた。それが間違っていると知った今、無意味な死と捨てられた者達がもし眼前にいるのなら、その畏怖はどれほどのものか。

「……サーシャ……一族の掟を守らない、愚かな生き残り……死で償え……」

「お前が俺を殺した!」
「殺したな!」
「身勝手な正義で!」
「正義と名乗って!」

 荒い息で耳をそばだてていると、声まで聞こえてくる。
 各々の部屋で起きている常軌を逸した事態に、クロエはようやく気付いた。

「……違うものを、見ている? まさか、トラウマを、見せられてる?」

 心を抉る光景を、最も深く関わった者に傷として抉られる。そんな恐怖がこの世にあるだろうかと、クロエは心底ぞっとした。
 だが、恐怖を傍から見ているだけではいられない。

「クロエ、お父さんの言うことが聞けないのか?」

 彼女にもまた、過去の影が迫っていたからだ。

「ひっ……!」

 いつもの気丈なクロエは存在しない。振り返った彼女の目は大きく見開き、武器も持っていない、近寄ってくるだけの両親らしい何かに心底から怯えている。
 自分は両親の為に、魂の尊厳の為に復讐を遂げたというのに、二人の望みが娘の死だと言うのなら、どうすればいいのか。何を以って二人を説き伏せられるというのか。
 答えも出ないまま壁に張り付いていると、ついに両親が目と鼻の先までやって来た。

「だったら、無理矢理連れて行こう。言うことの聞けない、一人だけのうのうと生きているお前を連れて行こう。そうだね、母さん?」
「そうね、クロエ、ようやく会えたのよ。一緒に死にましょう? 死なないなら――」

 最初に動いたのは、体の端々から黒い闇を漏らす母親だった。

「――殺してあげるわ、クロエ!」

 凄まじい力で、彼女の首を締め上げたのだ。

「うぐっ……!?」

 両親は揃ってハンターをしていたので、腕力が強いのは知っている。だとしても、幾らなんでも年老いていて、今のクロエを持ち上げられるほどの強さはないはずだ。なのに、母親はどろりと渦巻いた目で娘を睨み、首を掴んで体を持ち上げた。
 抵抗したいと思っているのに、荷物を落としたクロエは手が動かない。父親が顔を掴んできても、彼女は理不尽な感情の激突によって生まれる後ろめたさが、彼女から力を奪う。小刻みな呼吸で必死に仲間に助けを請おうとしても、響いてくるのは仲間の悲痛な声。

「よせ、サーシャに触るな! サーシャ、掟を守ってる! サーシャ、悪くない!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 サーシャは掟に対する後ろめたさが、カレンは己の行き過ぎた正義に対する後ろめたさがそれぞれ形を持って襲い掛かっている。がちがちと歯の鳴る音が、現実から逃げようとする悲鳴が、四方八方から反射する。

「死ね、クロエ」
「クロエ、死んでちょうだい」

 両親は、己の死を望んでいるのか。何の関連もなく、ただ生き残っているというだけで娘の死を望むのが父の姿か、母の姿か――或いは、自分の復讐すら間違っていたのか。
 あの時後を追ってゆくのが、正解だったのか。
 クロエの思考から、真っ当なものが削ぎ落され、死を肯定し始める。

(……死んだ方がいいなら……あたし達が死にたくなるようなら……)

 理不尽を前に屈し、絶望して終わりを受け入れようとした刹那だった。

(――フォンは、どんな恐怖を、見せられてるの?)

 不意に、フォンの顔が浮かんだ。