「フォン、あの家は……?」

 何の変哲もない家屋だからこそ、森の中では一際目立っていた。
 普通の家、ただの建物がどうして忍者の里にぽつりと建っているのか。三人が同時に浮かべた謎に対するフォンの回答は、先程の謎の少女の受け売りだった。

「……ここは『修練の森』だ。マスター・ニンジャが修行を積む為にのみ入ることを許可された森……あそこはきっと、鍛錬に励む者が住まう家屋だよ」
「修練を積む? そんなの、さっき一言も……」

 心を読む少女から聞いたと言っても、きっと混乱させてしまうだけだろう。

「思い出したんだよ。それよりも皆、どうしてこっちに?」

 てきとうに話をはぐらかしたフォンがカレンに聞くと、彼女は尻尾を振りながら答えた。

「探索をしていたでござるが、辺りは何もない原っぱとぼうぼうに草の生えた川岸だけで何もなかったでござる。それで、二人を連れて師匠のところに来たのでござる」
「誰かに呼ばれたりとか、声をかけられたりとかは?」
「お前、何言ってる? サーシャ達、誰にも呼ばれてない」

 サーシャにも問いかけてみたが、彼女は首を傾げるばかり。カレンもクロエも、誰かに呼ばれたり、声をかけられたりはしていないようだ。
 ならば――というよりはやはりと言うべきか、あの少女はフォンが思っている以上の力を持っているのだ。もしかすると、自分達の行動を逐一監視しているのかもしれない。
 だとしても、彼らにできることは一つだけだ。

「……そっか。なら、いいんだ。家に入ろう」

 フォンは深く言及せず、静かに家屋へと近寄っていった。

「……?」

 仲間はおかしな様子に顔を見合わせたが、フォンが構わず家に向かっていくのを見て、慌ててついて行った。
 三人が背負った荷物と共に家の傍に辿り着いた時には、彼は既に扉に手をかけていた。
 ゆっくりと木製の扉を押し開けると、家の中に溜まっていた埃がふわりと巻き上がり、扉の外へと去ってしまった。クロエ達が何度かせき込む中、フォンだけが一切表情も変えず、呼吸一つ乱さないまま、まだ埃の積もった屋内へと入っていった。
 一歩、また一歩と踏み出すが、罠はおろか、鼠の一匹すら出てくる様子がない。たった一つだけの窓から淡い光が差し込むところまで来て、カレンがぐるりと見回して言った。

「……ただの家、でござるな……」

 サーシャはメイスに手をかけたままで、クロエも背負っていた弓矢を構えていたが、カレンの隣辺りまで来ると、それを仕舞った。
 猫の魔物の言う通り、驚くほど、何も感じられないのだ。気配も、悪寒もなければ、何かしらの音すら聞こえない。不気味さを通り過ぎて、警戒しなくなるくらいに静かだ。

「テーブルと椅子、ベッドと箪笥だけ……他は、何もないね。怪しいところもないし、昔、フォンが里を出る時にたまたま燃やし忘れただけの家なんじゃないかな?」

 必要最低限の家具だけが残った一つだけの部屋は、ただ誰も住んでいないだけのように見えたが、忍者の視点からするとそうではないらしい。

「いいや、忍者の住まいは全てに謎を隠してる。ここにも、きっと……」

 フォンだけが、床と家具の隙間にある変化に気付いたようだ。
 その場に屈んだ彼は、ゆっくりと床板の隙間を指でなぞった。それから何度か、テーブルの真下と床、椅子の間を見返すと、立ち上がって小さく頷いた。

「……成程、分かった。三人とも、そこをどいて」

 言われるがまま、三人はテーブルの周りから離れた。
 皆にもう少し離れるようジェスチャーした彼は、服の裾から苦無を取り出して――。

「はっ!」

 勢いよく、床板の隙間に投げつけた。
 こん、と小気味良い音と共に苦無が突き刺さった瞬間、床板同士がずれ込むように動いた。何が起きたのかとクロエ達がフォンに聞くよりも先に、テーブルの下の床がスライドして、彼等の手前の板が完全になくなってしまった。
 板が外れた先にあったのは、ぽっかりと開いた黒い空間。陽の光がさほど明るくないせいでしっかりとは見えなかったが、じっと目を凝らしていると、巻き上がった埃の中に何があったのか、クロエはようやく分かった。

「……これって、階段……?」

 階段だ。
 どこまで続くかまるで分からないくらい長い階段が、人一人がやっと入られるくらいの幅の階段が現れた。カレンが顔を覗かせるが、猫の目でも先が見えないようだ。

「奥が見えないでござる……師匠、隠し扉にどうして気づいたのでござるか?」

 カレンが首を傾げて問うが、フォンはこともなげな様子だ。

「床の僅かな色の違い、何度も動かした痕跡、あとは忍者として教わった経験則かな」
「教わったって、誰に?」

 苦無を仕舞った彼は、当たり前のように言った。

「『先代』だよ。足元にこそ秘密が隠されているって、俺に言ってたのを思い出したんだ」

 当たり前であって、当たり前でないおかしな話を。
 フォン以外の全員が、呆気にとられた。
 先代、という人間について、彼女達は一度だって聞いたことがなかったのに、フォンはさも当然であるかのように話し始めた。しかも、一人称が僕ではなく、感情が暴走した時と同じ「俺」になっていたのだ。
 あまりに唐突に言われた為か、クロエどころか、サーシャすら沈黙してしまった。唯一口を開き、困惑した調子で彼に声をかけられたのは、カレンだった。

「……先代とは、誰でござるか? それに今、俺と……」

 戸惑った口調と表情を見て、ようやくフォンも、自分のおかしさに気付いたようだ。
 一番恐れていたのは、彼だった。異常だと思い込んでいた人格の変化が日常にまで浸蝕してきたのに、微塵も勘付けなかった彼は、自分自身に最も慄いているようだった。

「……ごめん。もう、僕が俺だと言っている自覚もないみたいだ。さっきから頭がふわふわしてるような感覚が付きまとっていて……『先代』が誰か、今の僕には分からないんだ。それに床に階段が隠れていると気づいたのも、僕じゃなかった」

 あの時のフォンが出てくれば、無自覚に人を殺そうとするのではないか。
 もしもそうなったならば、三人の命の保証はあるのだろうか。

「どっちが本当の自分なのか、曖昧になってきてる。このままじゃ、僕は……」
「師匠……」

 こめかみに手を当て、自分の存在にすら疑問を抱く彼を、カレンは慰められなかった。
 代わりに、彼の肩に掌を乗せて、慰めるのではなく元気づけたのはクロエだった。

「行こう、フォン。その真実を探し求める為に、あたし達は来たんだから!」
「サーシャ、同意。お前がどっちでも、ほんとうが分かれば、お前、悩まない」

 彼女だけでなく、サーシャもフォンを後押しした。カレンも間誤付いていたようだったが、後ろで何度も頷いていた。
 そんな彼女達の姿に勇気をもらったのか、フォンは背筋を伸ばし、皆に顔を見せた。

「……ありがとう。俺が先に降りるよ、皆はついてきて」

 やはり自分を「俺」と呼んだが、誰も何も言わなかった。
 フォンの後ろに付いて、クロエ、サーシャ、カレンの順に、石造りの階段を下りてゆく。
 青い猫の耳が床の下に消えていくのを最後に、家の中には誰もいなくなった。