彼が入っていったのは、里から少し離れた森だった。
 うねった木々が無造作に生えた森は、奇妙な雰囲気に包まれていた。里の周囲を覆っていた霧の残滓が残っているようで、日光もあまり差し込まない。燃え殻がここにだけない理由を、フォンは知っている。

「……『修練の森』……マスター・ニンジャ以外の立ち入りを禁じられた森……」

 一つは、ここがただの森ではなく、忍者にとって特別な意味を持つ森であること。限られた上位の忍者だけがここでの修行を許されていた。

(立ち入った記憶がないのに覚えている理由は分かる。僕はここに、同胞の亡骸を埋めた)

 もう一つは、森の奥まで進めば、フォンが皆殺しにした忍者を埋めた土の盛り上がりがあるということ。里の跡地に埋めるのを躊躇った彼は、どうやら森の中でも最も厳かな雰囲気を醸し出す暗闇の最奥部に、忍者を全て埋めたのだ。

(なら、どうして、僕は忍者を殺した? 何の為に?)

 死体を埋めるほどの冷静さがありながら、どうして皆殺しにしたのか。
 結果が分かっていても、過程が浮かんでこない。何かしらの確執で一人を殺めたわけでも、決闘の末に複数人を殺したわけでもない。全員を――里にいた忍者を、マスター、レジェンダリー問わず殺した。相応の理由が、あるはずだ。

(一人じゃない、二人じゃない、里にいた忍者を皆殺しにした。自分の居場所を自ら奪い、心の奥底に閉じ込めたのだとしたら、一体なぜ――)

 自分に取り巻く死の過去。
 存在しないはずの人格が生み出した虚構なのか、それとも。
 木々に紛れた空間から自分を隔離するほど思案に耽っていた彼は、気付かなかった。

「――知りたい?」

 己の背後から、唐突に声をかけてきた存在に。

「――ッ!?」

 振り返ったフォンの目に飛び込んできたのは、仲間ではなかった。
 水色のワンピースに身を包んだ、淡い黒髪の少女。所々に白い色の毛が混じっていて、くりくりと大きな白い瞳を有しているのに、ハイライトがない。手足は摂食障害であるかのように細く、裸足なのに足元が土で汚れていない。歳は十代前半といったところか。
 そんな少女は、あたかも最初からいたかのように、フォンの後ろに立っていた。にこにこと笑っているのに、笑っていないようにも見える、おかしな顔をしながら。

「やっと来たんだね、自分を取り戻す為に。待ってたよ、フォン」

 しかも、フォンの名前まで知っている。彼は彼女を知らないのに、少女だけが知っているのであれば、それはおかしな事態だ。

「……君は誰だ? どうして……」

 どうしてここにいるのか、と聞こうとした。

「『どうしてここにいるんだ』?」

 少女が先に口を開き、自分の台詞を全て代弁するまでは。

「……!」

 偶然的中したのではない。一字一句、フォンが言おうとした台詞を完全に模倣してのけたのだ。しかも、話している途中であり、唇を読む暇すらなかったのに、だ。
 警戒心を引き上げたフォンを前にしても、少女は一向に笑顔を絶やさない。

「私のことなんてどうでもいいよ。大事なのは、フォンが記憶を取り戻す為に必要な事柄でしょう? 自分が何者で、何を成すべく忍者になったのかを思い出したいんでしょう?」
「知って……」
「『知っているのか、僕の記憶と正体を』?」

 またも、フォンは発言を遮られた。
 抑揚のない口調で彼の言葉を先読みする少女を目の当たりにして、流石のフォンも口を閉じた。忍者の里周辺にいる時点で唯の子供ではないのは察していたが、ここまで容易く自分の唇を読む相手がいるとは思えなかったのだ。

(……読唇術か、それとも挙動を把握している?)

 口を閉じ、心でだけ敵を観察する。忍者の常套手段に、フォンは移行する。

(いずれにしても、それができるのなら彼女は忍者か、その類だ。油断は……)

 心までは読めない。相手が魔物だとしても、そこまでの能力はないはず。

「『油断はできない。なるべく動揺を悟られないように、必要な情報だけを聞き出そう』」

 そんなフォンの予想は、簡単に裏切られた。少女が口を開いて放った言葉は、一字一句違わず、彼が心の中で呟こうとした発言そのものだったのだ。
 いよいよ、眼前の女の子は魔物とほぼ変わらなくなってしまった。ともすれば恐るべき敵にすら見えてきたフォンは、静かにカーゴパンツのベルトに留めた苦無に手をかけながら、そっと戦闘の構えを取る。

「……読んでいるのか。僕の心を」
「さあね。それよりも、私の後ろに見えるものの方が、フォンにとっては大事だと思うよ」

 少女が自分の背後に手を翳した時、フォンは苦無にかけた手を思わず放してしまった。
 何故なら、彼女の後ろ――少し離れたところに、焼け焦げてない木造の一軒家がぽつんと建っていたからだ。
 フォンは、我が目を疑った。ここに来るまでも、来た後も何一つ逃さないよう目を見張っていたのに、こんな家屋はなかったからだ。まるで、少女の声に応じて現れたかのようだ。

「これは……どうして、今まで……」

 呆然と声を漏らしたフォンの意志を、少女はまだも代弁する。

「『今まで気づかなかったんだ』? 『修練の森』は見えるものが見えず、見えないものが見える修行の森だよ。大事な事柄は木々の隙間に隠れて、暗黒に潜むんだよ」

 里の、森の全てを知るかの如く語り掛ける。

「フォン、自分が何者であるか知りたければ、このマスター・ニンジャの棲み処に入るといい。瞳に映る姿だけが真実ではないと覚えていれば、きっと全てを取り戻せるよ」

 いいや、きっと彼女は里どころか、フォンについても知っている。
 信じられない話ではあるが、フォンは彼女が、自分よりも自分に詳しいのではないかと錯覚すらし始めていた。彼が僕を「俺」と呼ぶ原因も、人を躊躇いなく殺そうとする人格への変貌も分かっていて、尚且つ自身を試しているのではないかと思えてきたのだ。

「……君は、いったい……」

 ようやく、フォンは彼女の正体の方を気にかけた。
 少女について知りたいと思えてきたのだが、既に遅かった。

「そろそろ仲間がこっちに来るよ。それじゃあ、また会おうね」
「えっ?」

 彼女が発した言葉通り、フォンの後ろ――彼が来た道から、声が聞こえてきたのだ。

「――師匠、どこでござるかー?」

 紛れもなく、カレン達がこちらに駆け寄ってくる足音だ。しかもそれらはあまりにも近く、それこそフォンがずっと存在に気付いていなかったかのように、草木の向こう側までやって来ていた。

「あ、いた! フォン、あっちの方には何もなかった……どうしたの?」

 だからこそ、クロエが顔をひょっこりと覗かせるのと、声をかけられるのと、フォンが静かに振り向くのは同時だった。
 おまけにサーシャとカレンも木々の隙間から現れて、フォンをじっと見つめた。それくらい、奇妙な体験をした彼はぼんやりとしていたのだろう。ふと少女の方に向き直って見ると、大方予想は出来ていたが、ワンピースも黒髪も、影も形もなくなっていた。

(……いない。今のは幻覚か? それとも……)

 暗い森の幻か、それとも過去を追い求める執念が生み出した虚構か。

「お前、ぼさっとしてる?」

 いずれにしても、もう取り戻せるあてはない。
 影霞よりも容易く闇へと溶け込んだ少女を探す手段など有り得ないと、フォンは思った。

「……何でもない。それよりも、手掛かりなら見つけたよ」

 諦めた調子で彼が指差した家屋を、三人は目にした。
 これだけは幻覚や虚像ではなく、彼女達にも見えるようだった。