――そこは、とある監獄。
 王国内の犯罪者の中でもごく一部だけが、ここに連れて来られる。
 ただの監獄ならば誰も気に留めないだろうが、夜闇に隠れるこの建物は、真下を轟轟と流れる川が埋め尽くす谷の間に建てられていた。間に存在する橋以外では灰色の建造物に辿り着けないここは、恐るべき犯罪者だけが収監される特別な場所なのだ。
 場所を誰も知らない、知られてはいけない施設。山の奥、谷の奥に設置されたそれは厳重な警備と堅牢な門、城壁に守られ、未だ一度も脱走を許した記録がない。ここへの収監は、即ち永遠に太陽を拝めない孤独と死を意味する。
 こんなところにいるということは、相当な重罪人だ。

 つまり――最奥部の檻に閉じ込められたクラーク達元勇者パーティも、そうなのだ。
 ギルディアで悪事の限りを尽くしたクラーク一行は、決闘事件の後即座に名もなき監獄へと叩き込まれた。パトリスを除いた女性陣も、勇者もどきと同じ薄暗い檻の中だ。
 四人にはまともな治療が施されておらず、サラやクラークは体中傷だらけで腕が折れたまま、マリィは鼻の骨が折れたまま。中でもジャスミンは最も酷く、肌に無数の陥没痕が残り、しかも浅黒い色がついてしまっている。
 そんな彼らは、鼠すらいない牢獄でただ沈黙し、死を待つばかりだった。

「……おい、生きてるか、てめぇら」

 時折、囚人服を着せられたクラークが声をかけるが、返事は決まっている。

「……」
「……かわいい……私……こんなの……」

 サラとマリィは口を開かない。ジャスミンは壁に向かって、ぶつぶつと呟くだけ。
 恐らく、体よりも先に心が死にゆく状態となっているのだろう。クラークもこの反応にすっかり慣れてしまったようで、腕を組んで壁にもたれかかるだけだった。

「ちっ、返事の一つもできねえのかよ――」

 このままただ朽ちるのを待つばかりだと、諦めていた。
 復讐どころか、陽の光を拝む機会すらなく、忍び寄る死を受け入れるだけなのだと。

「――ありゃー、酷い様だね、皆々様?」

 ところが、そうではなかった。
 いったい、いつからだろうか。格子の向こう側に、人が立っていた。
 ここに人が来るのは珍しくない。時折看守がパンを人数分持ってきたり、清掃と称して冷水を檻中にぶちまけたりしに来るのだが、暗黒の闇と一体化した何者かは、明らかに男の図体をしていなかった。
 寧ろ、少女のような出で立ちだ。

「……誰だ」

 クラークが一瞥して問うと、それはけたけたと嗤いながら答えた。

「誰だ、なんて質問に意味はあるのかな? ここに誰かが来るってことは貴方達を見張るか、それとも、別の用事があるかだよね?」

 やはり、甲高い声の主は少女だった。夜闇に目の慣れたクラークには、姿が見えた。
 病的に白い髪と肌、襤褸切れのような布だけを纏った格好。肩の青い龍の刺青と、頬まで裂けた口が、やけに怪しく揺らめいて勇者の瞳に映った。
 サラやジャスミン達はびくりと震えたが、クラークは努めて平静を装った。

「はっきり言え」

 そんな彼の心境を見抜いたような、澱んだ歓喜に満ちた目で、少女は言った。

「出してあげよっか、この檻から?」
「……何だと?」

 信じられない提案だった。
 彼女は未だ誰の脱走も許していない牢獄から、いとも容易く出してやると言ってのけたのだ。確かに、ここまで誰にも見つからず入ってきた手段は不明だとしても、それだけの実力があれば可能性はある。
 死んだ瞳のクラークに、微かな火が灯る。少女は、そんな僅かな変化を見逃さない。

「勿論、貴方だけじゃなくて、仲間全員を檻から出してあげる。しかも今回だけ、傷も完全に治してあげるよ。代わりに、ちょっとした計画の手助けをしてくれるって約束できるなら、だけどね」
「計画……?」
「そ、計画。ここじゃ詳しく話せないけど、本当に簡単な補助だけでいいからさ。それだけでもう一度外の空気が吸えるっていうなら、悪い提案じゃないと思うけどなあ」

 わざとらしく左腕をぶらぶらと揺らす少女をよく見ると、右目には眼帯が巻かれ、右腕が欠損しているようだった。やはり、こんな檻に来るだけあってまともではない。
 しかし、クラークにとって大事なのはそこではなかった。素晴らしい提案を受けても我関せずを貫く女達とは違い、彼だけは邪悪な提案に活路を見出した。

「……外に出る……体を治して……また、あいつらを……」

 自分がいるべき場所は、薄暗い監獄ではない。明るい空の下だ。
 闇の奥に潜む原因となった理由はただ一つで、しかも決して許してはならない。
 消えたはずの執念の炎がもう一度めらめらとクラークの中で燃え上がった時、彼は勢いよく格子に手をかけると、肉食獣のような目で少女を睨んだ。

「――出しやがれ、俺を」

 そして彼は、看守が来るかもしれない可能性を無視して、吼えた。

「いいや、俺達をだ! マリィを、サラを、ジャスミンをここから出せ! フォンと仲間達を皆殺しにする機会がもう一度得られるなら、何だってしてやるぜッ!」

 彼の望みは、果たして再びフォンと相まみえ、彼と仲間を皆殺しにすることだった。その悲願が叶うのであれば悪魔にでも魂を売ると、彼は今、心から誓った。
 荒い鼻息と共に吼え猛るクラークの声に、ようやく周囲の女性達が同調した。復讐に、復権に、美の獲得に――各々が自分のことしか考えていないが、とにもかくにも、少女と契約して牢を出たいと思ったのだ。
 一方、少女はクラークの大声に驚かなかった。彼らに道が残されていないと、そして強欲であるとも知っていたかのように、彼女は一層口を吊り上げた。

「……じゃあ、交渉成立だね。レヴォル!」

 少女が指を鳴らした途端、地割れのような音が牢獄中に響いた。
 この辺りだけではない。壁が崩れる音や燃えるような臭い、炸裂音が様々なところから聞こえてくる。中には囚人らしい男達の叫び声や歓声、看守の悲鳴も混じって聞こえる。

「な、なんだぁ!?」

 クラークが思わず格子から手を離すと、少女の隣に、天井からもう一人の少女らしい何かが落ちてきた。何か、と形容したのは、ぎしぎしと軋んだような音と奇怪な動きが、どう見ても人間の挙動ではなかったからだ。
 まるで血の繋がった妹であるかのように何かと肩を組む少女の後ろで、爆発が起きた。向かい側の檻と眠っていた囚人が粉微塵に吹き飛び、壁に穴が開く。

「私、静かに脱走するなんて一言も言ってないよ? 潜入するよりはぶち壊した方が早いし、他の囚人も逃げてくれるからどさくさに紛れて隠れられるしね……っと!」

 にやりと笑った少女が格子を撫でると、それらは鉄がぶつかり合う音を立てて斬り落とされた。これで、クラーク達を阻むものはなくなったわけだ。

「で、どうするの? 逃げるの、ビビって逃げないの?」

 壁に開いた穴から吹き抜ける風と月明かりが、一同の背中を押した。誰とも言わず、静かに立ち上がり、手枷と足枷の付いた体を起こした。
 そしてクラーク達は互いに頷き合い、見開いた目で応えた。

「……上等だ、乗ってやるよ! 行くぞ、てめぇら!」

 新たなる暗い希望に満ちた彼らの目を見て、少女――リヴォルはほくそ笑んだ。

 ――後にこの一件は、『大脱走』として国内外の治安を守る者達を震え上がらせた。
 牢獄は全壊。看守は全滅。脱走した凶悪犯は数え切れず。主犯についての情報は一切手に入らず、ある種の完全犯罪として後世に語られることとなる。
 しかし、勇者を騙った犯罪者集団、クラークの脱走は誰にも気づかれなかった。