「……いつから?」
「フォンが一人にして欲しい、って言ってからかな。絶対にこうするだろうと思って、荷物を別で集めておいて正解だったね」

 反射的に口をついて出た問いに答えたのは、クロエだ。

「師匠に気付かれないか、ひやひやしていたでござるよ」

 次いでカレンがはにかんだが、フォンは微塵も笑っていなかった。せっかく逃げ切れたと思っていた彼の今の目つきは、敵に向けるそれと大差なかった。
 自分がこれからどこに行くのか、何をしに行くのかを説明する気すら湧かなかったが、クロエ達を納得させるには会話をするしかないと諦め、フォンは口を開いた。

「……多くは説明できないけど、僕は行かないといけない。僕の過去が、記憶が……」

 手紙に記した内容をそのまま話そうとしたフォンだったが、今度はクロエが遮った。

「――そんなの、今はどうでもいいから」
「…………そんなの?」

 しかも、フォンが眉を僅かに顰めるほど、きつい口調で。

「こっちに来て。フォン、黙ってこっちに」

 クロエはただ、無表情で彼に手招きした。

「……?」

 言われるがまま、フォンはクロエに近寄る。
 何をされるのか、何をするつもりなのか。忍者としても凡そ想像の付かない彼女の行動の結果を予測していたフォンだったが、予想はあらゆる意味で裏切られた。
 ぱん、という鋭い音と共に。

「――ッ!?」

 フォンの右頬を、クロエがはたいたのだ。
 忍者なら避けられるはずの攻撃をかわせなかったのは、あまりに唐突だったから。それこそ、両隣に立つサーシャ達ですら、こうするとは想定していなかったほどに。

「クロエ!?」
「お主、師匠に何を!?」

 片方の頬を赤く染めたフォンの前で、クロエは息をこれでもかと荒げていた。今度は別の意味合いでどうしてかと考え、理解の追い付かない彼に、クロエが鬼の形相で吼えた。

「――一人で抱え込んで逃げ出すくらいなら、最初から仲間なんて、家族なんて呼ぶなッ!」

 激怒と悲哀を混ぜ、ぐちゃぐちゃになったクロエの目からは、大粒の涙が溢れていた。
 自分達が信じられていなかった悲しみ。自分達を置いて行こうとした裏切りへの怒り。彼女自身ですら訳が分からないほどの感情が溢れ出し、堰を切って涙として、声として、周囲の住民などの顔などお構いなしにフォンに感情を叩きつける。

「あたし達がそんなに力不足!? 傍にいるだけで死んじゃいそうなほど、フォンには弱く見えるの!? 守ってやらないと息もできないほど貧弱に見える!?」

 クロエの怒りは、頼られない自分達の弱さへの怒りでもあった。
 ひたすら守られてばかりの甘さへの悲しみでもあった。

「分かってるよ、忍者に比べれば足手まといで、力になんかなれないって! それでもフォンが苦しんでるなら力になりたい、助けたいって思うのは当然でしょ、家族だよ!?」

 だとしても、クロエは仲間を、フォンを家族だと思っていた。
 思っていたのだが、フォンはどうだったか。己がどうなっても構わないという考えは、つまり自分の死を、失踪を悲しむ者がいないと結論付ける、傲慢なものでもあった。
 そんなはずがない。置いて行かれた手紙を読んだ仲間達がどんな顔をするか、どれほど悔やむかなど、フォンは欠片も頭に浮かべていなかった。彼は周りの為を想って、最も仲間達が苦しむ手段を、またも取ろうとしていたのだ。
 リヴォルとの戦いから、彼は何も奪わせないと誓った。
 その末に、何も奪わせないまま、掌から零れ落ちるとも知らないで。

「それを一人でどうにかしようって、自分だけが苦しめば済むって、ふざけるのも大概にしてよ! あたし達の助けが要らないなら、最初から、あの時から……!」

 遂に、クロエの声が嗚咽へと変わった。
 彼女の涙で、フォンは己の罪を知った。

「……クロエ……」

 無言の時間の末に、フォンは重い口を開いた。

「……どうすればいいか、分からなかったんだ。どうやって人を頼ればいいのか、守ることと真実を追い求めることの両立なんて、到底無理だって諦めてたんだ」

 彼の守り方は、いつだって不器用だった。
 忍者としての技量だけを見れば、器用だろう。だが、自分を犠牲にする手段と、他人の気持ちを鑑みない姿は、不器用そのものだ。相手がクロエ達でなければ、近くに誰もいなくなってしまうほど、孤独への道を作り上げていた。
 しかし、フォンは理解できた。真に必要なのは、守護でも、孤立でもないと。

「だけど……やっと、やっと気づけたよ。何を言えばいいのか、どうすればいいのか」

 たった一つ。たった一つだけの、簡単で、彼には難しい答えがある。

「西に山を四つ越えた先に、人が立ち入らない山林地帯がある。そこはもともと忍者の里で、今は焼け野原になってる。どれほどの情報が手に入るかは不明だけど、そこにしか手掛かりは存在しない。僕一人で、どこまでできるか分からない。だから――」
「お前……」
「師匠……」

 三人が見守る中、彼は答えを告げた。

「――僕を、助けてくれ。僕の記憶を探す手助けを、して欲しい」

 彼が選んだ答え――それは、手を握ることだった。
 自分の力の限界を認め、仲間の助けを得て、本当の形で真実を手に入れるには、フォンは誰かの手を握らなければならない。過ちも、愛情も全て分かち合える、最も近い手を取ることすら、彼はずっと忘れていた。
 今は違う。今からは、違う。
 指先を静かに触れられたクロエは、彼の手を強く握り返した。

「……勿論だよ。あたし達は、どんな理由があっても、フォンを助けるから。行くよ」

 そして、涙を空いた手でぐっと拭うと、自分の顔を務めて見られないようにするかの如く、門の外へ、フォンを連れてすたすたと歩きだした。
 あっさりとした解決だったが、サーシャにも、カレンにもこの結末は予期出来ていたようだ。二人は顔を見合わせて笑い合うと、二人の後について行った。
 横に並んだ四人の間に湧きたつ優しさは、いつもよりも少しだけ大きく。

「クロエ、泣いてる」
「泣いてないよ、ちょっと目にゴミが入っただけ」

 温かく、心に染み入って。

「嘘でござる、それに師匠も泣いてるでござるよ!」
「そうだね、泣いたのなんていつぶりだろう」

 彼の本音を――きっと、心の底からの本音を、初めて引き出した。

「――嬉しくて泣いたことなんて、きっとなかったんだ」
「え?」

 三人がフォンを見ると、目じりに少しだけ、ほんの少しだけ涙が浮かんでいた。
 彼はそれを拭い、笑った。

「なんでもないよ。さ、皆、行こうか」

 笑顔を分かち合い、彼らは歩き出した。
 目指すは遠く、山を遥か越えた先。
 因縁の闇と、痛みが渦巻く過去の坩堝。
 フォンの故郷――忍者の里だ。