とある宿の、とある一室。
 外の喧騒など凡そ縁遠い、静かな空間。優しく温かい空気に包まれた場所に、悲しみや痛みはない。ただあるのは、必要最低限の家具と、柔らかな日差しだけ。
 窓から光が射すそんな部屋に佇むのは、この街唯一の忍者。

「…………」

 フォンだ。
 彼はクロエ達よりも遅れて目を覚まし、怪我を忍者の秘術で治しながらも、色々と考えこんでいた。そうしてパトリスが来た今日、彼は一人だけ見送りに行かず、自分だけをここにおいてほしいと頼んだ。
 断る理由もなく、クロエ達が彼を部屋に残して、今に至るのだ。
 僅かな時間ではあるが、フォンは全ての準備を済ませていた。足元には大きな荷物を置き、服も病人服からいつもの格好に着替えている。
 そして、部屋の真ん中に立つ彼が見つめるのは、テーブルに置かれた一枚の紙。
 長々と書かれた文章は、いずれもフォンの文字。
 何も話さず、フォンは紙を手に取り、自分で記した言葉を心の中で読み上げた。

 ◇◇◇◇◇◇

 仲間の皆へ。
 先ず、何も話さず、手紙で心境を告げることを許してほしい。
 単刀直入に言うと、僕はもう、僕ではなくなっている。
 決闘の時、君達の目には僕が別人のように映っていただろう。クラークに対し禁術を躊躇いなく使い、『人不殺』の掟を破って彼を殺そうとした僕が、別人に思えただろう。

 だけど、それは違う。あの時、僕には意識があった。
 意識はあったが、自制が効かなくなっていた。どうあっても眼前の敵を殺すという意志と、自分の中の何かが奪われる強迫観念に囚われ、奪われる前に奪わなければと思い込んだ。
 思うに、この『奪う』というワードこそが、僕の意識が切り替わった原因だ。
 おかしな話だろうが、僕の中にはもう一人の僕がいる。
 彼こそが、リヴォルとの戦いで彼女を退け、クラークを倒した張本人だ。
 僕とは比べ物にならないほど強く、それでいて残酷で、確実に人の命を奪おうとする。君達の知るフォンとは程遠い人格ではあるけど、これについても、一つだけ言える。

 僕は、彼を他人とは思えない。
 寧ろ、彼こそが本当の僕であるような気がしてならない。
 前にも話したように、僕には過去の記憶がおぼろげにしか存在しない。本当に僕がフォンなのか、フォンという人間は最初からいなかったのではないかと考える時すらある。
 そんな折に出てきたもう一人の僕こそが、真の僕ではないかとも。
 ――もう、過去に背を向けて生きてはいけない。
 僕は今、自分自身を誰よりも疑っている。フォンという人間の生い立ちを知らなければ、自分はきっとどこにも行けないし、いつでも誰かを殺す恐怖に怯え続ける。君達の傍にいることすら、怖れになってしまう。

 だから、僕は過去を暴く。
 忍者の里の跡地に向かい、何があったのかを確かめる。
 本当に僕が忍者を滅ぼしたのか、リヴォルと何があったのか、僕はどうして忍者になったのか。跡地になった里に何が残っているかは期待できないとしても、それでも行くべきだと、僕の心が言っている。
 君達にこれを話せば必ずついてくるだろうから、手紙にしたためた。
 気持ちは嬉しいけど、今回ばかりは僕が一人で行かないといけないから。
 どれだけかかるかは分からないけど、必ず帰ってくる。真実を突き止めて、今度こそフォンとして、一人の人間として帰ってくる。

 クロエ、サーシャ、カレン。
 多くを語れないからこそ。
 ありがとう、そして、ごめん。

 ◇◇◇◇◇◇

 手紙を一頻り眺めたフォンは、もう一度それをテーブルの上に置いた。
 そうして荷物の詰まったリュックを背負い、窓を開いた。

「……パトリスが出て行ったのは……東側、だったな」

 普通に部屋を出てしまうと、クロエ達と出会ってしまう。そうなれば沢山の説明をしないといけなくなるし、恐らく彼女達はどう説得しても納得しない。
 やや強引な手段ではあるが、窓から屋根伝いに走り、街の外に出る。クロエ達がパトリスを見送っているだろう東側の門とは真逆の、西側の門から。
 三人が宿を出てからかなりの時間が経っていてまだ帰ってこないが、きっとどこかで日用品でも調達しているのだろう。それに、フォン自身が一人にして欲しいと言ったのだし、何かと察してくれているはずだ。
 複雑な気持ちではあるが、手段は選べない。
 窓の桟に足をかけ、振り向き、彼は呟いた。

「……行ってくるよ」

 誰の返事も貰わないまま、フォンは窓から屋根に飛び移った。
 カーテンが靡く部屋は、ただ無音のままだった。それ以上振り返らずに、フォンは屋根を伝い、街の西側に向かって駆け出した。
 真下の大通りには人が歩いているが、誰もフォンには気づかない。まさか屋根を人が走っているだろうとは思わないし、彼の隠密性を見抜ける人間はギルディアにはいない。
 瓦の上をかなりの速さで駆け抜ける彼は、足音一つ鳴らさない。家屋で生活している者はフォンの存在を悟ることもなければ、人がいるのすら分からないはずだ。ましてや瞬きをしている間にいなくなるフォンが相手ならば、気付けという方が無理な話だ。
 風のように駆ける彼を誰一人としてみることはない。

 フォンが走る方角、目的地に近づくにつれて、人気が少なくなってゆく。
 西側の門はその先に町や村があまりなく、あるのは山や森、大きな川などの、所謂危険な魔物が生息する地域だからだ。冒険者ならば目的地としても用いるだろうが、組合が機能していない現在はそれこそ誰も近寄らない。
 普通に人が走るよりもずっと、もっと早く、フォンの目に大きな門が飛び込んできた。
 東西南北の門の中で今は最も寂れた門。フォン以外の人はまばらで、門番と何人かの街の住民がうろついているだけのそこに目を付け、彼は屋根を飛び降り、着地した。
 彼が飛び降りても、誰も動じなかったのは、フォンにはありがたかった。
 ここから早々に街を出れば、クロエ達に気付かれない。
 いずれ――いつになるかは分からないが、必ず戻ってくる。
 そう心に誓い、街に背を向けて一歩踏み出そうとした。

「――っ」

 だが、足を止めた。
 忍者である彼は、人の気配に敏感だ。なのにどうして、今まで察知できなかったのか。
 鈍った自分の感覚に内心苛立ちながら、フォンはゆっくりと振り返った。

「……やっぱりか」

 フォンの後ろにいたのは、彼が置いて行こうとした仲間達。
 サーシャ、カレン――そして、クロエだった。