一方、クラークは動かなかった。
 どれほど彼の体が強靭であろうと、首が奇怪な方向に折れ曲がっているなら、大抵の生き物は死ぬ。クラークもその例に漏れず、痙攣すらせず、ただ不動だった。

「……死ん、だ……?」

 クロエは疑問を抱いていたが、アンジェラは気づいていた。

「首が折れてる。普通に見れば死んでるだろうけど、傷が塞がりつつあるから――」

 切り傷が塞がっている。元の健康且つ暴走した肉体へと戻ってゆく。
 めきめきと地面が隆起する音と共に、アンジェラの予想通り、それは復活した。

「――フォオオォォォォオオオンッ!」

 剣すら捨てたクラークが、またも起き上がったのだ。

「嘘でしょ、折れた首も再生して、復活した!?」

 信じられない再生能力を――恐らくは『覚醒蝕薬』の作用の一種を最大限活用したクラークは、動こうともしないフォン目掛けて、大木よりも太い腕で殴りつける。いくら剣も波動も伴っていないとはいえ、直撃すれば人の頭くらいは容易に潰れる。

「グアアァッ!」
「フォン、危ない!」

 クロエが叫んだが、彼女の心配は全くもって不要だ。
 勇者の剛腕が地面を貫いた時、フォンはまたも、瞬きの間に彼の視界の端へと移動していたからだ。しかも今度は、瞬間移動など些末に思えるほどの異変が起きていた。

「――ナン、ダト?」

 狂ったクラークすら、目を丸くする異常。
 物理現象を超越した、視界の端と端に同じ人間がいる奇怪な事態。

「……フォンが、二人、いる?」

 クロエの言葉通り、彼女達とクラークの前には、フォンが二人いた。
 幻覚ではない。狂気に触れたわけでもない。同じ武器を持ち、同じ格好をしたフォンが二人、クラークを睨んでいるのだ。彼は双子なのかとアンジェラはあり得ない想像を膨らませてしまったが、よくよく見てみれば、からくりは見抜けた。
 彼の足元だけを見れば、残像の如く消えている。同じ場所を何度も、しかも超高速で動いている。到底信じられないが、女騎士の予想は当たっていた。

「禁術・『双天』。俺は一人だ、二人に見えるほど速く動いているだけに過ぎない。だが、お前にはこの程度で十分だろう――全てを奪うには、事足りる」

 フォンは一人だ。ただ、二人に錯覚するほど速いだけだ。
 言葉だけなら簡単だが、クロエとアンジェラはいよいよ、彼を人間として見なくなった。
 そんな奇異の目線すら構わず、フォンは動き出した。苦無と鎖鎌を構え、二人でいる状態のまま、クラークを斬り刻み始めたのだ。

「アァ、ガアアアァァアッ!」

 勇者もどうにかフォンを退けようとするが、攻撃は虚しく空を切る。フォンに当たってもそれは残像で、本体がクラークの手を、足を、顔を、腹を斬る。
 傷が塞がるより何倍も速く傷が形成されてゆく。血が噴き出し、クラークの体を、地面を、フォンの手足を濡らしてゆく。なのに忍者はまるで動じず、縦横無尽に跳び回り、駆け回り、クラークの肉体を徹底的に破壊し尽くす。
 百、二百、もっと、もっと斬り刻まれる。
 血が辺りを埋め尽くす。人間の出血量など優に超え、赤い絵の具の如く世界が染まる。
 クラークに、もう抵抗の余地はない。思考するのは、自らの弱さと敵の強さのみ。
 これが、忍者か。これが、真の人知超越か。

「ただでさえ速いフォンが、二人に分身して……あんなの、人間業じゃない」
「クラークも再生能力を早めて対応するみたいだけど、あの様子じゃ追いつかないわね。はっきり言って、私でも避けきれない連撃を繰り出されれば……」

 唖然とした二人が見つめる前で、とうとう怪物に限界が訪れた。

「グゥ、ウゥア……」

 両手足を千切れる寸前まで斬られたクラークが、地に膝をつけたのだ。しかも、傷は再生が酷く遅れ、髪も、肉体も次第に元に戻りつつある。抵抗する力を失ったと見たのか、フォンは二人から一人に戻り、血塗れの武器を下ろした。
 薬の効果は無限ではない――大量に摂取した薬物の効果が、切れたらしい。

「……ああなるわね。『覚醒蝕薬』があろうがなかろうが、もう虫の息よ」

 決着と見たアンジェラに逆らうように、元の勇者に戻ったクラークが、手を止めたフォンを睨む。呪い殺すかのように視線をぶつける彼だが、またも変化は訪れた。

「……フォン……この、野郎――おぼろろろろぉぉ!?」

 ジャスミンの時と似たように、クラークが血を嘔吐し始めたのだ。

「うげ、ふぉん、でめぇはげぼおおろろぉぉぉぉッ! うごおおぉぉぉ!?」

 しかも、勢いは彼女の比ではない。瞳がしぼんでしまうのでは、内臓も口から吐き出してしまうのではないかと思うほど、クラークの口から血の滝が迸る。
 目が上下左右を忙しなく見回し、痙攣が止まらない。薬を過剰に服用した分、副作用も途轍もない。体中の血が抜けてしまったかのように筋肉がやせ細り、骸骨のようにさえなってしまったクラークに、戦う余力はない。どう見ても、決着はついた。
 クラークがこれ以上戦えないのは明白だし、このまま放置していればじきに死ぬ。
 だが、フォンは違った。

「…………全部だ。奪われる前に、俺がお前から、奪う」

 死ぬのを待つのではなく、死を与える気だ。
 苦無を逆手に持ち替え、一歩ずつクラークに近づくフォンを見て、クロエが叫ぶ。

「フォン、まさかクラークを殺す気!?」
「ま、見るからにそうでしょうね。勇者も死んで当然でしょうし、好きにさせたら?」
「駄目に決まってんでしょ、フォンに人殺しなんて絶対させない!」

 これまで何度も守ってきた『人不殺』の掟を、今、彼は容易く破ろうとしている。クラークに決して愛着があるわけではないが、フォンが掟を破ってはいけないと、クロエは確信していた。もしも人を殺せば、もう彼は彼でなくなるような気がした。
 アンジェラをその場に下ろしてでも、クロエはあらん限りの声で言った。

「待って、フォン、止まって! クラークでも殺しちゃいけない、殺さないで!」

 彼は聞かない。クラークの眼前に立ち、殺意の波動を放つ。

「ハァ、ハァ……ぐぶ、うぐ……」

 クラークは動けない。恐怖と激痛で足が竦み、顔を上げるのが精一杯だ。
 フォンが彼を殺すのは容易だ。だからこそ止めねばと、クロエが必死に制する。

「あの時言ったよね、絶対に人殺しだけはさせないって、約束したよね!? お願い、フォン、殺したら二度と戻れなくなる! だからやめて、フォン!」
「クロエ、貴女……」

 アンジェラの隣で、喉から血が出そうなくらいに叫ぶクロエだが、フォンは止まらない。彼の目的はただ、自分から奪おうとした者を滅するのみ。
 死を与える。与える行為を以て、奪う。

「お前を、お前の全てを――」

 フォンは自分自身を捨てるかのように、静かに苦無を振り上げて――。