奇怪な方向にへし曲がった腕は、クラークをたちまち現実へと引き戻した。即ち、フォンを殺して栄華を取り戻す幻想から、そのフォンに腕を折られた現実へと。

「あっ! あがッ!? あがぎいいぃぃ!?」

 じくじくと響く痛みはたちまち鈍痛、激痛になり、クラークは倒れ込んだ。
 いや、倒れ込む程度では痛みはちっとも治まらない。周りの目などまるで気にせず、どうにか痛みを和らげようともんどり打つクラークに、フォンは静かに告げる。

「『覚醒蝕薬』と言ったね。僕も詳しくは知らないけど、神経系も極端に強化するなら、痛覚も鋭くなると踏んでる。腕を折っただけでも、骨を粉微塵にされたように痛むだろう」
「が、がが、がぎゃあああぁ!」
「腕を折られただけでその痛みようだ、もう勝敗は決した。立たない方がいい」

 涎を撒き散らして叫ぶクラークだったが、フォンの言葉がこんな状況でも気に障ったのか、不意に動きを止めた。というより、痛みが凄まじいがプライドが勝り、気絶しそうではあるがどうにか耐えた、と言った方が正しいか。

「……はー……はー……俺に、命令……してんじゃねえ……!」

 膝をつき、それでもフォンを見上げて睨むクラークの目には、涙が滲んでいる。

「俺を……俺を、見下してんじゃねえ! 俺は勇者クラークだぞ、この街唯一の勇者だ! 剣術に優れ、金色の魔力を持ち、武と知に優れた完璧な人間なんだぞおぉ!」

 彼の言葉が自分に向けたものであるかのように聞こえて、フォンの目つきが変わる。
 人々を踏みつけて苦しめる男に対する怒りではなく、哀れみすら抱いてしまう。

「クラーク、勇者であることにどうしてしがみ付く? そうまでする価値があるのか?」
「うるせぇ、うるせぇうるせぇうるせぇッ! 勇者の俺にてめぇ如きが意見してんじゃねえぞ! クソ共と馴れ集まるしか能のない、マリィにも捨てられた男がよ!」

 だから、クラークの怒れる絶叫は、フォンの油断した心を抉った。

「マリィが俺に抱かれてる時、なんて言ってたか教えてやるよ! てめぇみたいな無能と話してるだけで吐き気がする、荷物持ちに慕われてるだけで死にたくなるってよ! その点俺はどうだ、あいつは俺に抱かれてると心から幸せそうにしてたぜ!」

 今更マリィへの恋慕など皆無に等しかったが、フォンは完璧な忍者ではない。悪口、罵詈など僅かにも響かないつもりだったし、何を言われても動じないつもりでもあったが、信じていた相手からの心無い言葉は、彼の鋼の心臓を少しだけ千切り取った。
 ここまならば、彼が痛むだけだった。ここで止めておくべきでもあった。

「俺達に捨てられて行き着いた先で、売れ残りのソロ冒険者と野蛮人、ちっせぇガキと組んで冒険者ごっこで出しゃばりやがって! ゴミクズ風情が勇者様の人生を、薔薇色の未来を邪魔してんじゃねえよ! 死ね、今死ね、目障りだから死んじまええぇ!」

 しかし、クラークは止まらない。止まるはずがない、寧ろこちらが本題だ。
 彼はフォンに憎しみをぶつける為であれば、何だって利用する。彼の仲間を罵倒するのは当然として、全てに責任転嫁だってしてのける。もう、勇者としての面影はこれっぽちも残っていないが、彼はまだ自分を勇者だと言い張る。
 尤も、周囲は誰も彼を勇者だと思っていない。

「……あれが、勇者だってか……?」
「普段からそりゃ横暴だったけど、惨めにもほどがあるだろ……」

 さっきまでは恐怖に慄いていた観客達だが、今は不信を募らせた目で勇者を見ている。
 目の前で膝をつき、喚き散らすこの男はどうだ。これまでの功績、強さ、時として感じる偉大さを一切合切帳消しにする惨めさで、勇者と呼べるのか。

「何を今更。最初からあんな調子だったよ」

 クロエは呆れた調子で呟く通り、最初からこんな男だと知っていたが。
 そんな無様を晒されても、フォンは狂ったようにぶつけられる罵詈雑言を受け止めていた。普段ならこのまま軽く流すところだろうが、今日ばかりはそうはいかない。

「――分かった、クラーク。君を黙らせるには、もうこれしかないみたいだ」
「あぁ!? てめぇ、何言って……」

 未だに怒鳴り散らすクラークに、フォンは静かに聞いた。

「勇者の条件を知っているな? 生まれた地域の祈祷師か長老にその実力を認められること、そして『勇者の証』を生まれ持っていることだ。この二つが最低でもなければ、どれだけの力を持っていても勇者とは認められない、そうだね?」

 フォンの言う条件とは、勇者を名乗る条件である。
 誰でも自分が勇者だと言えるのなら、簡単だ。しかし、いざ勇者として認められるには単純な強さだけではなく、生まれ持った証が求められる。金色の波動を操る力と正当なる血統、この二つが合さって初めて勇者と呼ばれるようになる。
 当然、そう簡単には見つからない。見つかってはいけないのだが、だからこそ存在が明るみに出れば人々は崇め奉り、一部の村落では神の使いとまで言われるのである。このギルディアでも、ウォンディの贔屓を差し引いても半ば英雄扱いされていた。
 さて、クラークはどうだろうか。彼はフォンの話を聞いてすぐににやりと笑うと、折れた腕を持ち上げ、激痛を堪えながら、涙を溜めながらも吼えた。

「……何を言い出すかと思えば、俺を舐めてんのか!? 証ならあるに決まってんだろ!」

 彼の手に輝くのは、剣傷のような紋章。資料が少ないから、誰も本来の形などは知らないが、彼の実力を見れば勇者であると確信するだろう。

「これだ、この痕こそが勇者の証だ! 嘘偽りない、俺が勇者である証拠……」

 己の絶対的な正しさを主張しようとするクラークの言葉は、遮られた。

「いいや、違う」
「……はぁ?」

 フォンは少しだけ間を空け、彼の真実を告げた。
 恐るべき、だが確かな現実。

「君は勇者じゃない。正確に言えば、勇者にすり替わった、ただの人間だ」

 世界が沈黙した。
 鳥のさえずり、小石の擦れ。何もかも制止したかのように、静かになった。
 クロエも、パトリスも、ウォンディも、誰一人口を開かなかった。誰一人として唐突に告げられた現実を認められない最中、最初に口を開いたのは、クラークだった。

「…………俺は、勇者だ。勇者、クラーク、だ」

 掠れるような声だったが、彼はフォンの言い分を認めなかった。
 ならば、彼はどうするか――残酷な現実の証拠を固め、クラークに突き付けるだけだ。

「……僕が君のパーティに所属していた時から、その証については知ってる。けど僕は、同時に妙だとも思っていたんだ。形のおかしさ、いかにも後付けされたような傷痕に不信感すら抱いていた。パーティに貢献する為に、忘れようと努めたけどね」
「妙だとぉ!? てめぇ、『勇者の証』に難癖つけようなんざ……」
「僕は過去に一度、『勇者の証』を見ている。他の勇者に見せてもらったのを覚えている」

 今度こそ、クラークは絶句した。

「証はすべて同じ形で、どの勇者でも例外はない。君のそれも同じ形ではあるけど、まるでどこかで見たのを模写したかのようだ。ただ、もう勇者とは会えないから確かめようもなかったんだ――」
「だろうな! この辺りに勇者は俺一人だ、どうすることもできねえだろ!」
「――だから、確かめに行ったんだよ。君の出身地、ミミカ村までね」
「…………あぇ?」

 クラークは、己の耳を疑った。
 この男が、なぜ自分の生まれ故郷を知っているのか。パーティの誰にも、組合の誰にも話さなかった故郷がばれている原因がまるで思い当たらず、彼は狼狽する。

「ど、ど、どうして俺の? ミミカ村を、知ってるんだ、なんで、なんで?」

 小さなため息と共に、フォンが答えた。

「忍者の情報収集能力を甘く見ちゃいけない。酒をあおっている時の何気ない一言で生まれ故郷を突き止めるくらいは造作ないよ。今日の為に、この十日間の間に、ギルディアから南西に三日ほど歩いた先にある隠れた村落、ミミカ村に行ってきたんだ」

 フォンによる事実上の勇者の死刑は、着々と執り行われ始めた。