まさかの大逆転に会場が湧きたつ中、カレンは静かに、しかし強い足取りでフォン達の元に戻ってきた。仲間達はというと、彼女の怪我を案じて不安げな様子だ。

「カレン!」

 フォンが彼女の肩を支えるように掴むと、どうやらカレンの緊張の糸が切れたようだ。

「師匠、クロエ、見てくれていたでござるか? 拙者の……戦い、を……」

 ぐらりと大きく揺れた彼女の体は、フォンに向かって倒れ込んだ。

「ちょ、カレン!? 大丈夫!?」

 クロエが身を乗り出して彼女を揺するが、彼女の呼吸は止まっていなかった。大きく、静かな吐息をフォンの胸の中で漏らすカレンに、師匠は心底安堵したようだった。

「……怪我は酷いけど気を失っているだけだ、きっと体力の限界だったんだろう」

 悪を許さず、苦境に置かれても諦めなかった。最後まで仲間を信じ、立ち続けた。

 どれほどの人が真似できるか。どれほどの勇気を求められるか。普段はお調子者とも言える困った弟子は、もうフォンのもとを離れてもいいほど勇猛に、気高く育っていた。

「頑張ったね、カレン。どれだけ非道な相手でも諦めずに勝ちを掴んだ、君は立派な弟子だ。師匠として、誇らしく思うよ」

 彼の言葉をもしも彼女が聞いていれば、どれほど喜んだだろうか。

 すっかり目を閉じたカレンを担ぎ、フォンが言った。

「クロエ、僕はカレンを診療所に連れて行く。第三試合は……頼めるかい?」

 フォンの頼みに対し、彼女は笑顔で応えた。

「ま、大将戦が残ってると思えば、順当にいけばあたしの番よね。任せときなさい!」

「ありがとう。けど、見たところ薬物は全員所有しているはずだ。油断はしないで」

「わーかってるって! 相手がジャスミンやサラならいざ知らず、残ってるのはパトリスだけだもの! 上手くいけば、試合が始まる前に終わっちゃうよ!」

 そうこう話しているうちに、ジャスミンは救護班に担架で診療所へと連れて行かれていた。彼女の吐瀉物も片付けられ、綺麗になった広場を確認したスモモは、どこか怯えた態度のウォンディを無視して、アナウンスを再開した。

『えー、怪我人の搬送と広場の掃除が終わりましたので、第三試合を開始します! 各選手は中央に来てください!』

 フォンとクロエは互いに頷き合った。

 仲間を背負った忍者は、少しばかり急ぎ足で診療所の方へと走っていった。ウォンディからのねめつけがないのは、彼としてもこれ以上ぼろを出したくないし、何かに関わっていると思われたくもないからだろう。

 彼の後ろ姿を見つめてから、クロエは真っ直ぐ広場の中央に歩き出した。

 向こうからやって来るのは、当然クラークではない。彼はフォンが出てくるのを待っているかのように仁王立ちしており、代わりにとぼとぼと歩いてきたのはパトリスだ。

『クラークパーティからはパトリス、フォンパーティからはクロエの出場をそれぞれ確認しました! それでは、第三試合――開始!』

 双方が向き合ったのを確かめ、スモモが試合開始の宣言をした。

 本日何度目になるか分からない会場の沸き上がりを肌で感じながら、クロエがパトリスを見ると、彼女は堅牢な鎧に包まれているのにずっとびくびくとしていた。盾に加えて長い斧まで背負っているのに、ちっとも構えず、ただ辺りを見回している。

「う、うう……私、私、どうしたら……」

 か弱い小動物の如く震えるパトリスに対し、クロエは弓を構えすらしなかった。

「……パトリス、戦うだけじゃなくて、棄権って選択肢もあるんだよ?」

「え?」

 代わりに、彼女は優しく、ある提案――これから殺し合いをするのではなく、棄権という形で戦いを回避する手段をパトリスにしてやった。

「先に言っとくけど、あたしはカレンやフォンみたいに、敵に情けをかけないから。あんたが敵だと確信した時点で矢を放つし、殺す気でやる」

 クロエの発言に、嘘偽りはない。

 もしここでパトリスが、クラークに仇名す者を倒す態度を少しでも仄めかしたなら、クロエは躊躇なく頭を射抜く。サーシャやカレンは敵を倒す目的で戦っていたが、彼女は必要ならば人を殺すダーティさを持ち合わせている。

 それは、彼女の目を見ても明らかだった。パトリスが背中の斧に手をかければ、或いは盾を持って突撃しようものなら、両目に瞬時に矢を突き刺すだろう。

「けど、棄権するならあたし達とあんたは敵じゃない。何に怯えてるのかは知らないけど、それからもできる範囲で守ってあげるよ。だから聞かせてほしいんだ、パトリス、クラーク達がやったことについて何を知っているのかを」

 だが、同時に敵でないなら必要以上の攻撃もしない。クロエの確かな事実の一つであり、彼女の目を見れば、パトリスにも嘘ではないと察せた。

 ある意味では、慈愛の提案だろう。サーシャなら問答無用で頭を砕き、カレンなら爪で引き裂いていた。クロエがこういった話をしたのは、敵の妙な態度が理由だ。

「わ、私は……そんな、そんな……!」

 彼女は、パトリスはしきりに、クラークの方を見ている。

「……パトリス?」

 ただ立っているだけのクラークに怯え、まるで心臓を握られているかのようだ。何をどうすれば彼にそこまで怯えるのかとクロエが首を傾げた時、パトリスが漏らすように言った。

「……駄目なんです、できないんです。私があの人に従わないと、殺されるんです!」

「何だって?」

 クロエの問いかけなど聞いていない。パトリスは、堰を切ったように叫ぶ。

「私だけじゃない、私の故郷もばれてるんです! どこから来たか、何をしていたか! あの人の思い通りに動かないと、皆さんを倒さないと、田舎の家族達が殺されるんです! 決闘が終わってからそこに行って皆殺しにするって、絶対にやってやるってッ!」

 観衆や司会、診療所の方には聞こえていなかっただろうが、クロエには聞こえた。

 パトリスもまた、クラーク達に人質を取られていたのだ。しかも、ここではないどこか――彼女が生まれた土地に住まう親戚や家族を殺すとまで言われれば、心優しい彼女は勇者パーティには逆らえないだろう。

 がくがくと震え、首に縄をかけられたような表情になるパトリス。鼻水と涙を垂れ流し、狂ったように喚く彼女を説得しようとしたクロエに、隙ができたのは紛れもない事実だ。

 だからこそ、彼女は見逃してしまった。

「もう、もう……ごめんなさい、ごべんなざいぃ――ッ!」

 凄まじい勢いで泣き叫ぶ彼女が、鎧の腰に提げた巾着から取り出した黒い丸薬を。

 しかも、三個も握り締め、思い切り呑み込んでしまったのを。まずい、と思ったクロエが弓を手に取り、矢を番えた時には、すでに遅かった。

「――ウウゥゥオオオォォォ――ッ!」

 クロエの矢を番える力が弱まるほどの変貌が、彼女の前で起きていた。

 筋肉増強の影響か、強固な鎧に内側からひびが入り、長いブロンドは炎の如く揺らめく。背丈は今やクロエより頭二つ分ほど伸びて、脳に異常をきたしたかのように目が爛々と輝いている。口、目、耳、空いた穴という穴から血が流れ続けている。

 肌の色こそ変わっていないが、顔の至る所に黒いひび割れが入った姿は、明らかに肌や髪の変色よりも異形さを醸し出している。それほどまでに異様な怪物が、背中に担いだ斧と盾を石畳に叩きつけると、床は軽々と粉砕された。

 高い背と、魔物の如き瞳と、正気を失った形相を前に、クロエですら息を呑んだ。

「……交渉決裂、ってとこかな」

 弓を引き絞る手に、不自然なほど力が篭った。