【コミカライズ決定】勇者パーティーをクビになった忍者、忍ばずに生きます

 ギルディアの街を覆っていた恐るべき暗雲は、たった二日で風に飛ばされてしまった。
 理解不能な虐殺と騒動に怯えていた住民達だったが、襲撃がぴたりと止んだと知るや否や、これまでの活気をあっという間に取り戻したのだ。
 露店や商店は営業を再開し、自警団は人員が足りないながらも活動を始めた。一時的に避難していた住民、特に王都ネリオスに逃げていた富裕層も戻ってきたことから、街そのものの警戒心が薄れていくのが目に見えた。
 特に、ギルディアの象徴である冒険者組合総合案内所が活気づくのは最も早かった。組合長のウォンディが動いたというよりは、スタッフ達の施設修復が迅速であったのと、元より冒険者がそこまで危険を延々と懸念する性質ではないのが、大きな要因だ。
 軽食喫茶も盛り上がり、案内所に乱暴者が溢れかえる。そうなってくると、今まで影におびえるかのように案内所に寄ってこなかったとあるパーティも、戻ってくるというものだ。
 案内所に並ぶ円形テーブルの、一番奥。ウォンディ組合長のお墨付きである一団のみにしか着席が許されていない、選ばれたテーブルを、彼らは囲んでいた。

「……フォンの奴、死んだと思うか?」

 小さな声で仲間と物騒な話をするのは、勇者パーティを率いる青年、クラーク。
 円形のテーブルに並べられた食事に口すらつけず、彼は二日間ほど姿を見ていない忍者の生死を気にかけていた。当然、彼の身を案じているのではなく、床に伏していると聞いたフォンが死んでしまっていないかと期待しての発言だ。
 クラークの非情な発言を、仲間は誰も咎めない。四人の女性メンバーのうち三人は、クラークと同じような結果を望んでいる表情で、あとの一人は俯いている。

「宿の亭主に聞いたけど、昨日の夜の時点では目を覚ましていないらしいわ。うなされているとも聞いたし、長くはないかもしれないわね」
「随分としぶといもんだね。フォンも、あいつの仲間も」
「てゆーか、暗殺を依頼したチビからも何の連絡もないし! 二日間も音沙汰なしってことは諦めたっぽいし、ほんとーに使えないよね!」

 元々勇者パーティに長く属していたマリィ、サラ、ジャスミンは、想定外の恐怖がすっかり喉元を過ぎてしまっているのか、好き勝手にべらべらと話している。
 唯一残ったナイトのパトリスだけは、どうにも浮かない表情だ。フォンや仲間に死んでほしくはないが、勇者パーティに身を寄せている立場上、彼らの無事を願えないのだ。

「街中を巻き込む事態になったのは予想してなかったけど、私達に被害が及んでいないなら問題ないわ。フォン達に被害を与えられたのは事実だし、この様子だと報酬を支払う必要もないもの。暫くは連中の顔を見なくていいと思えばいいのよ」
「だな。その間に、また俺達の地位を盤石にすればいいのさ」
「地位といえば、組合長への贈り物も考えとかないとね。あいつが手中にあるうちは、あたし達の街での立場はまだまだ安泰だろうしね」
「こ、こんなところで、そんな話を……」
「心配しなくてもいいわよ、パトリス。誰も聞いていないし、聞いていたってどうしようもないもの。私達に抵抗出来る冒険者なんて今はもう、どこにもいないわ」

 発言を封殺されたパトリスをよそに、彼らは今日一日の予定を話し合おうとした。

「サラ、贈り物は私が用意しておくわ。クラークもついてきてちょうだい」
「おう、いいぜ。愛しい恋人の願いは、断れねえ――」

 だが、クラークは背後に感じた気配で、マリィへの返事を止めた。
 彼だけではない。勇者パーティの全員が、普段は誰も近寄ってこないはずの自分達の席に、複数人の気配が集まっているのに気付いたのだ。
 誰だろうか、とクラークが椅子から立ち上がり、振り向いた。

「……よぉ、フォンじゃねえか」

 彼ら五人に近づいてきたのは、フォンと仲間達だ。
 周囲のざわめきが妙に強まっていたような気はしていたのだが、成程、これが原因かとクラークは納得した。確かに、二日ほど姿を見せなかった男が包帯に巻かれて、しかも顔色も良くないのに、よりによって因縁深い勇者の元までやって来るとは。
 しかも、彼の仲間だって万全の状態とは言い難い。こんな様子で喧嘩を売りに来たとは思えないし、売られたところで負ける理由がない。だから、同じく立ち上がったクラークの仲間達も、彼自身も、まるでフォン達を恐れていない。
 以前に何度か威圧されて腰を抜かしたことなどすっかり忘却して、勇者は口を開いた。

「怪我の調子はどうだ? 聞いたところじゃ、随分と手酷くやられたみたいじゃねえか。さしずめ、調子に乗ってどこかで恨みでも買われたんだろ?」
「……そうだね、恨みは買ってる。くだらない逆恨みってところだ」

 後ろに立つクロエが前のめりになるよりも先に、フォンが言った。
 いつものフォンにしては、かなり刺々しい発言だ。クラークはというと、言い返されるのが随分と嫌いなようで、顔を顰め、語気を強める。

「その様子だと、反省もしてねえみたいだな。何でもできるなんて勘違いして、反感を買って無様を晒したとも思わねえのか、傲慢なやつだぜ」
「謙虚さは心得てるつもりだ。でも、君達の前でそんな態度を取っていれば、増長し続けるだろう? そうでなきゃ、案内所の中じゃ王様気取りでなんかいられないよ」

 二人の距離が近づく。顔を向け、鼻が当たるほどに。

「……王様気取りじゃねえさ。俺達はな、冒険者組合長が認めた、王なんだよ」
「だとすれば、愚鈍な王だ。足りない頭で策を練ろうとするから、つい口を滑らせるんだ」
「何だと?」

 少しだけ後ろに下がったフォンは、集まってくる冒険者達にも構わず言った。

「僕達を襲った暗殺者を雇ったのは、君達だね?」

 勇者パーティ全員の顔が、吹雪の如く凍り付いた。

「襲われたクロエとカレンから聞いたよ、ついでに僕自身も暗殺者から聞いた。ここまでの事態になるとは思ってなかったんだろうけど、頼み込む相手を間違えたね。ああ、一応言っておくけど、もう彼女は僕達を襲わない。今のところは、だけどね」

 何もかも全て、ばれている。
 サラやジャスミン、パトリスは今にも嘔吐してしまいそうな顔色になっているが、クラークとマリィは一瞬だけ表情を歪ませただけで、さして困惑していない。
 当然と言えば当然だ、彼らの発言には証拠がない。単なる言いがかりに過ぎず、冒険者の間でも騒めく程度で、噂にどよめいてはいるが信じているようには見えない。つまるところ、放っておいても何ら問題はない。

「……証拠もないのに、酷い言い方ね。幻滅したわ、フォン」
「俺達に恨みがあるのか知らねえが、事件の犯人に仕立て上げようったってそうはいかないぜ。寧ろ、直接襲われたのはてめえらだ。関わってるとすりゃ、そっちじゃねえか?」

 だから、こう言っておけば、相手は捨て台詞を残して去っていくだろう。いつもそうなのだし、彼らから直接危害を加えるなど、この状況ではありえない。
 ――しかし、今日ばかりは違った。

「……最初から、こうするべきだったのかもしれない」

 フォンは踵を返さなかった。仲間達も、一歩たりとも退かなかった。

「冒険者の間には、最終的な物事の決定権としての取り決めがあるらしいね。最初からその手段を選んでいれば、君達に情けなんてかけなければ、こうはならなかっただろう」

 フォンの脳裏に、これまでの因縁が思い浮かぶ。
 クビになったこと、サーシャの命を蔑ろにされたこと、カレンを嗾けたこと、生き埋めにされかけたこと、そして今回のこと。何もかも全て、くだらない難癖であると嘲笑されようとも、彼ら四人はある一つの事柄を決めていた。

「ぶつぶつと何を言ってやがる? 用がないなら、俺達はここで……」

 立ち去ろうとするクラーク達を引き留めるように、フォンは遂に、クラークに言い放った。

「――『決闘』だ、クラーク。僕達は君に、君の仲間に『決闘』を申し込む」

 冒険者達の最後の決着手段――『決闘』の挑戦状を、勇者パーティに叩きつけたのだ。
 周囲のざわめきが、これまでないくらいに大きくなった。

「おい、決闘だって!?」
「いつ以来だ、最後に決闘を見たのなんて! しかもフォンと勇者達のだぜ!?」

 久方ぶりの決闘を見られると思ったのか、冒険者どころか、受付嬢やスタッフまで集まってくる。ウォンディ組合長はいないが、騒ぎのおかげでじきにやって来るだろう。
 フォンは顔色一つ変えなかったが、クロエ達は違った。汗を一筋垂らす彼女達が投げつけた決闘という解決法は、敗北すれば全てを失う、いわば最後の手段でもあるのだ。

「……正気か? 俺達と決闘だと?」

 だから、クラーク達も想定していなかったようで、目を丸くした。クロエやカレンのように覚悟を決めた顔つきでないのは、彼らがあくまで受ける側の立場であるからだ。

「決闘の意味ってのを理解してんのか? 物事の決着を賭けて戦う裁判なんて言われてるがな、冒険者同士の殺し合いだぜ?」
「分かっているよ。分かった上で、僕達は君達に挑む」
「……イカれてんじゃねえのか。てめえらみたいなのに構ってる時間はねえんだよ。おい、ウォンディ組合長を呼んでくれ。この馬鹿共が案内所の治安を乱してるって……」

 クラークは首を横に振って決闘を拒んだが、これくらいは想定内の問題だ。

「――負けるのが怖ければ、最初からそう言えばいい。所詮は臆病者の群れだな」

 こう言ってやれば、クラークは必ず決闘を受けるのだから。

「…………あァ?」

 マリィが制止するよりも先に、パトリスが抑え込もうとするより先に、クラーク達はぎょろりとフォンを睨んだ。胸倉を掴みかねない形相でまたも顔を寄せ、荒い鼻息を彼に吹きかけるが、フォンは表情一つ変えない。

「卑怯な手を、卑劣な手を使わなければ勝てない。今もこうして、組合長を呼ばないと僕達を退かせることすらできない。そんな人間が勇者なんて、滑稽極まりない」
「……殺されてえのか、クソが」
「自分の手で殺す度胸もないのに、言葉だけは一丁前だな。弱い相手にしか喧嘩を売らず、いざとなれば賄賂を渡した組合長頼り。気づいてないとでも思ったのか、今の地位を築く為にウォンディ組合長と癒着してると?」

 今度は受付嬢達の方から、どよめきが起きた。
 クラークの怒りの中に、僅かな動揺が見えるが、彼も直ぐに取り繕う。

「妄想をべらべらと喋ってんじゃねえ、キチガイ集団が!」
「そうか、妄想か。確かにクラークの言う通りかもしれないな」

 これでも提案を呑まないのならばと、フォンはとどめを叩き込む態勢に入った。

「じゃあ、クラーク。君についてはどうだ? 君は『勇者』ではなく――」

 『勇者』。クラークの根幹に関わる最悪の秘密を、フォンは既に見抜いていた。
 彼が全てを言い終えるより先に、クラークは剣を引き抜いていた。
 まさか斬りかかるつもりかと、クロエ達も武器を構えたが、勇者は床に勢いよく剣を突き刺しただけだった。みしみしと床板が砕けたのを見て、フォンは口を閉じる。

「……いいぜ、フォン……乗ってやるよ」

 恐れたからではなく、歯を割らんばかりに食い縛るクラークが、話に乗ってくれたからだ。

「決闘を受けてやる……もう撤回はさせねえぞ、いいな、お前らァ!?」

 振り返ったクラークの怒号に慄いたのは、パトリスだけだった。マリィやサラ、ジャスミンはクラークほど怒りに満ち満ちてはいなかったが、これまでの因縁を打ち潰してやろうと言わんばかりに、目が闘志で燃えていた。
 勿論、フォンの後ろに控えているクロエ達も同じか、それ以上だ。どうしようもない邪悪を今度こそ打ちのめし、命を狙うといった愚行を考える脳味噌を叩き潰し、二度と関わりたくないと思わせてやる気に満ち溢れている。
 衆人の興奮で肉が焼けてしまうほど沸き上がる案内所だったが、冒険者達を掻き分けて、ようやく禿げ頭のウォンディ組合長がやって来た。

「な、なんだね、何の騒ぎだね!?」

 本来ならばフォンを追い出す為に呼ばれた彼だが、今のクラークの目的は違う。

「ウォンディ組合長、こいつらが俺達と決闘をしたいんだってよ! そんでもって、俺達勇者パーティはそれを受けた! 立会人として俺はあんたを指名するぜ!」
「え、えぇっ!? いきなりそんな、組合長である私の承認もなく……」
「うるせえよ、いいからつべこべ言わずに俺の言う通りにしてろ!」

 組合長はクラークに一喝されると、たちまち委縮してしまい、小さく頷いてしまった。
つまり、決闘はここに成立したのだ。

「日付はそうだな、十日後だ! 傷を治してからじゃねえと、後で文句を言われそうだからな! 場所は街の西部にある噴水広場、方式はお前らの数に合わせて四人と四人、一対一での真剣勝負! 改めて言っておいてやるが、命の保証はねえからな!」
「ああ、異論はない。それで、何を賭けるかだね……僕らはもう、決まってる」

存外にもクラークがフェアな条件を提示してくれたおかげで、日程も、ルールもあっさりと決まった。あとはこの本題における最重要点、即ち何を賭けるかを、改めてこの場にいる全員の前で公言するだけである。
フォンはカーゴパンツのポケットから折り畳んだ紙を取り出し、クラークに見せた。

「この確約書にサインをして欲しい。ただそれだけでいいよ」
「……なんだ、この紙は?」
「二度と僕達に関わらないと誓う為の書類だ。君にも分かりやすく話しかけるなと説明するのに、これ以上適したものはないだろう?」
「命がかかってるってのに、それだけでいいんだな?」
「構わない。で、そっちは何を望む?」
「俺達は……そうだな、お前ら四人の冒険者登録の永久除名と街からの追放、衣服と資産の全没収と、ついでに丸刈りにでもしてやるってのはどうだ!? 素っ裸の丸坊主で街から出ていく様が見れりゃあ十分だが、どうせなら徹底的にやってやりてえ性分でなァ!」

ここでようやく、彼の恋人であるマリィが口を挟んだ。

「待って、クラーク。フォンだけは元々私達の仲間よ。とち狂っているとはいえ、やり直す機会を与えてやってもいいんじゃないかしら」
「あァ!? マリィ、何言ってんだ……」

 クラークがとてつもない形相でマリィに詰め寄るが、彼女の醜悪な笑顔を見て、唾を吐くのを止めた。自分の恋人に良心などないと、再認識できたからだ。

「フォンには、また私達の仲間になってもらうわ。永遠に離脱できない条件付きでね」

 加えて、彼女が自分以上に残虐だとも知れたのである。
 マリィは今度こそ、フォンを逃がさないつもりだ。あの時はクラークの権威等につられて彼を選んだが、性能だけを見ればフォンの方が何かと優れている。仲間に酷使させる為と嘯いて、どちらも手に入れるつもりなのだ。
 クラークは彼女の真意を見抜けなかったが、クロエ達は違う。

「この期に及んでフォンを奪うなんて許さないからね、性悪女」

 彼女が口を開けば、詰め寄ってきた勇者パーティが喚く。当然、フォンの仲間も言い返す。

「言ってればー? 私達と兄ちゃんに喧嘩売ったこと、後悔しても遅いからねー?」
「一対一、必要ない。サーシャ、一人で全員、叩き潰す」
「けッ! そのムカつく顔を今度こそあたしの拳でミンチにしてやるっての!」
「師匠が提案しなくても、お主ら全員裸で土下座させてやる故な。覚悟するでござるよ」
「うう、こんなことになるなんて……」

 様々な意志が蠢く案内所の空気は、灼熱の如く燃え上がる。禿げ頭が不安から滝のような汗をかくのも構わず、受付嬢達ですら歓声を上げる群衆の一員に混ざっている。
 街全体を巻き込むお祭り騒ぎの主役は睨み合い、初めて殺意をぶつけ合った。

「十日後――俺達の決着だ、フォン! ブチ殺してやるからよ!」
「何もかも終わらせよう、クラーク」

 忍者と勇者。善と悪。光と闇の、命懸けの戦い。
 ――即ち、ギルディア史上最大の決闘が、始まろうとしていた。
 冒険者案内所を騒がせた宣言から、十日が経った。
 勇者とフォン一行の決闘の話は、ギルディア中に広まった。
 十日後に開催が予定される決闘ではあるが、たちまち街中が活気に湧き、双方の集合場所周辺には既に露店の準備をする者までいた。決闘がいかに街でお祭り扱いされているかよく分かる現象で、人々もどこか浮かれている。
 酒場では、どちらが勝つかと賭け事が催され、決闘を見に行くので当日を休みにすると言いだす飲食店の店主までいる始末。冒険者の街は、今や決闘の街と化していた。
 そして夜、決闘を申し込んだ張本人であるフォン達は新しい宿の一室に集まっていた。

「――じゃあ、誰に誰をぶつけるかは、決まりかな?」
「そうだね……皆、もしも危険だと思ったら、降参を……」
「お前の言いたいこと、サーシャ、分かる。お前、命を大事にって言ってる」
「うむ、ですが師匠、負けを前提として動くなど師匠らしくないでござるよ。いつでも命を大事にして、尚且つ勝つ、これがフォン流でござる!」
「……うん、カレンの言う通りだ。ありがとう」

 部屋の中心に並べられた武器や防具、道具、忍具を囲むようにして、四人が座っている。四人というのは当然、クロエ、サーシャ、カレン、そしてフォンだ。
 各々の持ち物、決闘における作戦の再確認をしている最中、カレンがふと呟いた。

「……それにしても、十日というのは、あっという間にござるな」

 準備に使った時間は、文字通り矢の如く過ぎ去った。
 あらゆる武器を備え、ばれない程度に防具を買い込み、忍具と戦いを有利に進める道具をフォンに作ってもらった。彼の忍者としての技術を用いれば、如何に相手が勇者パーティと呼ばれるギルディアの支配者だろうと、怖れることはない。

「だけど、その間にかなり準備はできたね! これなら、クラーク達になんて負けない……」

 クロエは手を叩いて意気込んだが、彼女達の予想は甘いとばかりに、部屋の扉が開いて、言葉が入り込んできた。

「――その考えは甘いんじゃないかしら?」

 腕を組んで入口にもたれかかっているのは、ドレスのような騎士甲冑に身を包み、燃えるようなオレンジ色の髪を靡かせる王国最強の騎士、アンジェラだ。

「アンジー!」
「考えが甘いって、どういう意味?」

 一転して神妙な顔つきになったクロエに、アンジェラは話を続ける。

「フォンの友達のよしみで、警告しに来てあげたのよ。今まで卑劣な手段ばかりを使ってきた連中が、いくら決闘なんてフェアな環境だからって、真っ当に戦うと思う?」
「まさか、決闘だというのに、卑怯な真似をするでござるか!?」
「私ならそうするだろうなって、単なる予測よ。だけど、あいつらは相当切羽詰まってるわ。追い詰められた獣は何でもするし、何にでも手を出すわ……犯罪でもね」

 言われてみれば、そんなはずはないとは言い切れない。
 フォンを不当に追放し、一行を生き埋めにしようとして、あまつさえ暗殺者を雇ったのだ。外道にも劣るような連中が、卑怯な手段を使わないと考えるのは甘いだろう。
 だが、だとしても、フォン達が何をすべきかは決まっている。

「関係ない。サーシャ、全部叩き潰す、それだけ」

 サーシャが鼻を鳴らし、一同の想いを代弁してくれた。

「僕もサーシャに同意かな。彼らが何をしようとも、今度こそ倒す。それだけだよ」

 フォンやクロエ、カレンもにっと笑ったのを見て、アンジェラは杞憂だと笑い返した。

「ふーん、素直なのか、そうじゃないんだか。ま、貴方のそんなところも私のお気に入りなんだけどね、フォン」
「ははっ、ありがとう。でも、僕だって奥の手を持ってないわけじゃないよ」
「奥の手?」
「フォン、あたし達も聞いてないよ? 奥の手って、何を用意したの?」
「うん、できれば使いたくないけどね。クラークが暴走するようなら、彼のギルディアでの立場と信用、何もかもを立ち消えにする切札を、この十日間で持ってきたんだ。いや、正確に言うなら、連れてきたと言うべきかな」
「連れてきた? なれば切札とは、生き物にござるか?」
「うん、ある人物だよ。正体は皆にだけ教えるから、四人とも、耳を貸して……」

 言われるがまま道具を跨ぎ、三人はフォンの傍によって、耳を近づけた。アンジェラだけは関心がないのか、それとも知っているのか、耳を貸さなかった。
 彼は少しだけ躊躇った様子だったが、ここで話しておかなければ伝える機会がないとも思った。だからこそ、静かに息を吸い、仲間達にある真実を告げた。
 少しだけ長い話だったが、誰もが一言も口を挟まず、聞き続けた。

「…………嘘でしょ?」

 全てを聞き終え、顔を離したクロエ達の顔に浮かんでいるのは、驚愕どころではなかった。今まで自分達が常識だと思っていた全てが崩れ落ち、恐るべき邪悪な現実だけが勇者パーティに残るのだとも確信した。

「サーシャ、驚き。じゃあ、あのクラークは……」

 クロエやカレンはともかく、仏頂面のサーシャですら戸惑うほどの重大な秘密を伝えたフォンは、小さく頷いた。

「そうだ、彼には絶対にばれちゃいけない秘密がある。彼のパーティに所属していた時から気になっていたんだけど、調べてみて確信に至った。だけど、直ぐには言わないよ」

 優しい表情を浮かべるフォンは、敵への先制攻撃としてこれらを用いる気はなかった。どうしても使わなければならない抑止力として手にしているような、そんな態度である。

「彼らを絶対に止めなければならない時に、俺が使う。だから、明日は黙っていて欲しい」
「承知でござる! 師匠にお任せするでござるよ!」

 カレン達が同意したのを聞いて、アンジェラは彼女達なら問題ないと確信したようだ。

「私も明日は部外者だし、そこら辺をどうするかは、貴方達に一任するわ。死なない程度に、ほどほどに頑張りなさい」

 大きく欠伸をして部屋を出て行く彼女を見つめながら、フォンが言った。

「ありがとう、アンジー。それじゃ、明日も早いし、そろそろ寝よっか?」

 窓の外はすっかり暗い。普段ならコーヒーでも飲みながらもう少し起きているが、明日は自分達の命運を賭けた決闘の日だ。寝坊などしない為にも、早々に休むのも作戦だろう。

「だね、寝坊なんてしたら笑いものだよ。ちょっと早いけど、もう寝ちゃおう!」
「うむ! おやすみでござる、皆の衆、師匠!」
「サーシャも寝る。おやすみ」

 四人が円陣を組んだり、気合を入れ合ったりしないのは、いつも通りに力を出せると信じているからだ。明日を信じ、仲間を信じているからだ。
 だから、普通に挨拶をかわし、それぞれの部屋へと戻っていった。
 カレンが自室へ入り、サーシャが乱暴に扉を閉める音が聞こえる。
 フォンの部屋から出たクロエも、伸びをしながら自室のドアノブに手をかけたが、ふと捻る掌を止めた。奇妙な考えが、頭に浮かんで、彼女の行動を引き留めた。

(……あれ? フォン、『俺』って言った? いつもは『僕』なのに?)

 普段は僕と自らを呼ぶフォンが、俺、と言った。
 どれだけ怒りに満ちても、戦いに挑んでも、僕と言い続けた彼が俺と言った。どうしてだろうか、と思案するよりも先に、彼女は自分の方を疑った。

(疲れて聞き間違えたのかな……あたしもさっさとベッドに入って、明日に備えなきゃ)

 フォンに聞き直す前に一人で納得して、彼女はドアノブを回した。
 ぱたん、と閉まったドアの向こうからは、静かな生活音だけが聞こえてきたが、やがてそれすらも寝息に代わり、聞こえなくなった。
 一方その頃、フォン達が泊まる宿とは離れた別の宿に、明日の主役が集まっていた。
 真夜中だというのにまだ明かりが灯った部屋にたむろしているのは、クラーク率いる勇者パーティの面々、つまりマリィとサラ、ジャスミン、パトリスの四人だ。
 どういうわけか、肝心のリーダーであるクラークはいなかった。しかし、彼など最初からいないかのように、全員が忙しなく部屋をうろつきながら話し合っていた。

「……じゃあ、五日前に決めた例の作戦で、私達の一勝は決まりだね」
「マリィ、手筈はちゃんと整えてるんだろうね? いざ本番で失敗しましたなんて言ったら、あの筋肉バカより先にあんたをぶちのめすよ」
「抜かりはないわ。人があれだけ集まるんだもの、何をしようが誰も気づかないでしょうしね。フォン達が気づいた時にはもう手遅れ、私達の勝利は確定よ」

 しかも、サラやジャスミン、マリィの邪悪な笑みが示すのは、彼女達が決行を予定する作戦の恐ろしさだ。人に気付かれてはいけない、気付かない作戦が真っ当であるはずがない。
 腕を組むサラ、歯を見せて笑うジャスミン、さも当然の如く杖の手入れをしながら計画を話すマリィはともかく、パトリスだけはどうにも乗り気ではない様子だ。元より彼女は、手段を選ばない勇者パーティとそりが合わないのだろう。

「うぅ、こんなことをして本当にいいんでしょうか……」

 だとしても、もう脱退や決闘の辞退は許されない。
 戦いの意志を持たない者を引きずり出す必要があるほど、マリィは焦っていた。

「使える物は何でも使うのよ、じゃないと……この戦い、相当に不利よ」

 何がというと、明確に彼女が感じ取った、フォン達と自分達との戦力差だ。
 誰もこれまで敢えて口に出さなかったが、マリィはとうとう吐露した。パトリスはやはり、と言いたげに顔を慄かせ、サラは認めたくない現実を突き付けられたように苦々し気な顔を隠そうともしない。
 唯一、現状をきちんと理解していないのはジャスミンだけだ。

「不利って、まだ始まってもないじゃん! あんな奴ら、テキトーに斬り刻んでやりゃいいじゃん! 魔物退治じゃ知らないけど、殺し合いなら私達が負ける理由はないっしょ!」

 自分の二刀流剣術に絶対の自信を持つジャスミンを、マリィが冷たい目で睨む。彼女に直接説明しても無意味だと思ったのか、魔法使いは武闘家にわざとらしく聞いてみた。

「……サラ、貴女もそう思う?」

 そんなことはない。自分の拳は、憎きサーシャの頭を叩き砕く。
 こう言えたなら、どれほど幸せだろうか。現実は、彼女の発言を認めない。

「あいつらの前で大見得を切った以上、負けたくはない、ってのが正直な感想ね。ただし、現実的な話をすれば……マリィの言う通りなのも、否定できないところだよ」

 サラまでもが同意し、僅かに自信が揺らいだジャスミンに、マリィが追い打ちをかける。

「ジャスミン、私達はこれまで、フォンの存在を軽視し過ぎていたのよ」
「どーゆーこと?」
「獅子を一人で倒し、カルト集団を追い詰め、私達が雇った暗殺者を撥ね退けた。そんな男が、私達の弱点を見抜いていないと思う? 私達より弱いと思う? その気になれば、多分彼一人でクラークを含めた全員を瞬時に殺せるわ」
「嘘でしょ、マジで言ってんの!?」

 ようやく、馬鹿な小娘でもフォンの強さが計れた。
 というよりは、マリィがそこまで言うのならば事実だろうと判断しただけである。
 だが、それでも、脳味噌が頭蓋骨の空洞に満ちていないジャスミンにしては上出来だとマリィは思った。

「そこまでの力を持つ男を……私達は、あいつを軽視し過ぎてたってわけか?」
「フォンだけじゃない、他の面子も単純な戦闘力で言えば相当厄介よ。しかも残りの三人は、フォンと違って泣き落としも情けも通用しない。私達を明確に敵と認識してるわ」
「……フォンさんも、そう思っているのでは……」

 もしかすると、この場で一番冷静なのはパトリスかも知れない。マリィですら、フォンがまだ自分達に情けをかけてくれると勘違いしているのだから。
 はっきり言って、決闘まで持ち込んだ時点でフォンに温情は存在しない。殺人にまでは至らずとも、勇者パーティを倒す為に仲間への助けは惜しまないし、必要とあらば忍者としての情報も明け透けにする。それくらい、彼はもう容赦しない。
 いずれにせよ、待っているのはパーティの破滅。これだけは、逃れようがない。

「とにかく、あまり言いたくはないけれど、まともにやり合えば勝率は五分か、それ以下ね」
「…………」

 マリィが弾きだした現実的な数値を聞いて、4人とも沈黙してしまった。
 こうなると、苛立ちの矛先はこの場にいないクラークへと向けられてしまう。

「チィ、こんな時にあの勇者はどこをほっつき歩いて――」

 むかむかした態度で部屋の壁を小突くサラが、勇者に怒りをぶつけたがっていると、部屋の扉が乱暴に開いた。

「――俺を呼んだか、サラ?」

 入ってきたのは、四人を纏めるリーダー格、勇者クラークだ。

「クラーク!」

 仲間達の視線を一点に集めるクラークは、いつも通りの逆立った銀髪を一層強く撫でつけ、いかにも何かをしてやったと言いたげな顔をしている。しかもその右手には、真っ黒な布袋が握られているのだ。
 その中身が何であっても、マリィの視線と口調のきつさは変わらなかった。

「どこに行っていたの? 必要な物を買ってくると言って二日も私達から離れて……何をしていたのか、教えてちょうだい」

 二日間も帰ってこなかったリーダーへの対応としては、当然ともいえる。
 恋人に杖の先を軽く向けられても、クラークはけらけらと受け流すばかりで、全く悪びれない。手にしたものが金貨や金塊でもない限り、許されるはずもないだろうに、だ。

「おいおい、そう急かすなって。俺だって、ただぶらついてたわけじゃねえぜ。あいつらに勝つ、いや、殺す為に必要なアイテムを調達してきたんだよ」

 クラークはどかどかと部屋の真ん中まで来ると、テーブルの上に布袋を置いた。
 そして袋を広げると、中身らしき真っ黒な指先程度の大きさの球体が、幾つも転がり出てきた。一同は近寄って顔を覗き込ませ、勇者に袋の中身が何であるかを問い質す。

「これは……?」

 不安と好奇心、半々の疑問に対し、クラークは半ば凶器を湛えた笑みを浮かべ、答えた。

「『覚醒蝕薬』――別名『狂人薬』。人間を超えた力を手にする、禁断の増強剤だ」

 彼の声色が、このちっぽけな丸薬の山の危険性を、確かに伝えていた。
 これは危険である。しかも、凡百の危険物とはわけが違う。

「『覚醒蝕薬』!? クラーク、貴方、これをどこで手に入れたの!?」

 思わずテーブルに手を叩きつけ、目を見開いたマリィの表情が、丸薬がどんなものであるかを伝えていた。フォンがどれほど強くても、カルト集団に攫われても声を荒げなかったマリィの焦り具合が、一層四人に緊張感を齎す。
 しかし、クラークはいたって平静だった。彼は黒い塊が何かを知っているのだから。

「なに、ちょっと闇市場の商人と知り合いでな。二日ほど駆けずり回らせて集めたんだよ。安心しな、商人の方はしっかり口封じをしといたから、取引の話が漏れる心配はないぜ」
「口封じはいいとして……噂には聞いていたけど、まさか実在するなんて……!」
「ご存じなんですか、マリィさん?」
「マリィ、こりゃ何だ? ただの薬じゃないのか?」

 べたべたと黒光りするそれを手に取り、宝石であるかの如くしげしげと眺めるマリィの傍に寄ってきたサラとパトリスの問いかけに、彼女は静かに答えた。

「……『覚醒蝕薬』は、人間の力を限界まで引き出す特殊な薬よ。文字通り、限界までね」

 意味は大まかにしか察せなかったが、二人には十分だった。
 つまり、クラークが説明した通りである。これは増強剤――ドーピングの一種だ。

「そうだ、こいつは一粒呑めば体中に浸透し、肉体のありとあらゆる要素に働きかける。そして一時的にだが、あらゆる能力を飛躍的に高めてくれるんだよ。腕力、脚力、魔法力……知能までは助けてくれねえが、他は例外なく強くしてくれるぜ」
「強くしてくれるって、どれくらい?」
「商人に聞いたら、前にこれを呑んだ冒険者が、素手でワイバーンを捻り殺したんだと」

 しかも、クラークの話が正しいとするのならば、強化する範囲も効果も尋常ではない。
 ワイバーンと言えば、前脚のないドラゴンのような姿をした、凶悪な魔物として名が通っている。勇者パーティも倒せなくはないが、道中ではなるべく遭遇したくないと思えるほど凶悪で、おまけに並の魔物よりも狡賢い。
 そんなワイバーンを、武器も使わずに捻り殺す。人間の何倍もの体躯を誇る怪物を、小鳥を蹂躙するように殺せるようにするとして、果たして人間が服用して良い薬なのだろうか。

「わ、ワイバーンを!? 熟練の冒険者五人がかりでも倒せない魔物を!?」

 そう考えると、クラークの笑顔とは裏腹に、パトリスが焦るのも無理はない。

「一粒で人間を辞めるくらい強くなる丸薬が、こんなにあるんだ。勿論、副作用もそれなりにあるみてえだが……お前ら、当然使うだろ?」

 彼女の焦りなどどこ吹く風の調子で、使うのを前提として話しているのだから。
 驚愕するパトリスの隣で、マリィはあっさりと首を横に振った。

「私はやめておくわ。作戦に支障をきたすと困るの。サラとジャスミン、パトリスは?」

 マリィが使用を拒むには、相応の理由があった。確かに、作戦の実行者であるマリィが万が一、薬のせいでおかしくなってしまったなら、折角の一勝をふいにしてしまう。薬を使わずとも勝てるのならば、策を台無しにする必要はないだろう。
 彼女達が企てている作戦の詳細をクラークも知っているようで、だから彼も無理強いはしなかった。ならばと、今度は目を泳がせるサラとジャスミンに声をかけた。

「サラ、ジャスミン、このままあいつらに舐められたままでいいのか? 俺達ギルディアの勇者パーティは、いつまでもあんな雑魚連中を目の前でのさばらせるのか?」

 クラークの挑発は、二人の目に殺意の炎を灯らせた。
 勝率が低いのを、彼も知っていた。だとしても勝ちたい、あわよくば殺してしまって、自分の強さを街中に証明したいと思っているのも。
 仮に恐ろしい薬の副作用があったとしても、所持するだけで法に触れるような闇市場も商品だとしても、二人の憎悪の感情はまともな思考を鈍らせてしまっていた。

「…………面白い、使ってやる。あの筋肉バカを殺せるなら、なんだって使ってやるよ」
「私も! 副作用ったって、どうせ大したことないでしょ!」

 二人とも『覚醒蝕薬』を一粒ずつ掴んで、服のポケットに入れた。

「良い判断だな、二人とも」

 仲間達の熱い闘志に感動したクラークだが、直ぐにパトリスをぎろりと睨んだ。

「で、パトリス、お前はどうして直ぐに使うって言わなかったんだ? まさか、俺達の仲間なのに、他の皆は使うって言ったのに、自分だけリスクを背負わないのか?」

 全身の汗腺から液体が噴き出すのを、パトリスは鎧の内側で確かに感じた。
 彼女はクラーク達ほどフォン一行に恨みも抱いていないし、いつも暴走しがちな彼らを宥める役割だった(必要とされているかはともかく)。
 今回はというと、クラーク、サラ、ジャスミンは平常な考えがもう頭に残っていないのが見て取れる。数少ない常識人のマリィは薬を使わないと言ったが、作戦の実行者という名目で、リスクを背負わないように立ちまわっているのは明らかだった。
 辺りの光を吸い込んでしまいそうなほど暗い球。こんな悍ましいアイテムを呑めばどうなるのか、パトリスは吐きそうな気持ちをこらえて、どうにか説得を試みた。

「……だ、だって、人をそこまで強くする、闇取引で手に入れた薬ですよ……副作用が起きて、五体満足で助かる保証なんて、どこにも……」

 だが、彼女のまともな発言は遮られた。

「――じゃあ、お前は俺達の仲間じゃねえな」

 目をぎょろつかせたクラークの抜いた剣が、彼女の首元にあてがわれたからだ。

「ひっ……!」

 思わず、彼女は失禁しそうになった。
 クラークの瞳は――いや、パトリスを見る全員の瞳は、彼女を仲間と認識していなかった。冒険における盾役、小言でパーティを制する面倒な女ですらない。
 彼女は道具だ。フォン達のうち一人でも道連れにできれば上出来の、丸薬を呑んだ末にどうなろうが知ったことではない、剣や盾よりもぞんざいな扱われ方をする道具だ。

「選択肢は二つだ。俺達の仲間として丸薬を呑んで、あいつらを殺すか。それともここで断って、不慮の事故で死んだってことにするか……どうする?」

 ならば、クラークがここで選択肢を与えたのは、ある意味では有情かも知れない。
 内臓が抉り出されそうな恐怖と、目の前に確かに迫った死は、パトリスの意志すらも鈍らせてしまった。死を、勇者パーティを恐れる彼女の決断は、一つしかなかった。

「わ、わ、分かりました! 呑みます、呑ませてくださいぃっ!」

 震えて涙を流しながら懇願するパトリスを前に、クラークは笑った。
 ただし、最早勇者とは呼べないほど醜悪な笑みだ。仲間達も、同じだ。

「それでいいんだよ、俺達の仲間ならな。それじゃあ改めて、明日の目的を話しとくぜ」

 丸薬をつまみ、握り締めたクラークは、四人の前で己の目的を呟く。

「フォンと仲間達を皆殺しにするぞ。決闘での生死は、法で裁かれないからな……明日奴らが死んだとして、偶然の事故になるってわけだ」

 『覚醒蝕薬』。文字通り、人を目覚めさせ、蝕む薬。
 尤も、クラークの声を聞く面々には、大して不安などないだろう。
 彼女達は各々違う理由で、すでに狂っている。

「後悔させてやるぜ――俺に、勇者に喧嘩を売るってことが、どれほど間抜けかってなァ!」

 それとは比べ物にならないほど、最早クラークは正気を失っていた。
 どろりと濁った瞳で空想を吼える彼を見るのは、唯一常人であるマリィ。
 安全圏から人々の滅びを見据える彼女だけが、心の底から微笑んでいた。
 明くる日の朝から、ギルディアの街はここ数年で一番賑わっていた。
 街の西部に広がる最も大きな広場、噴水広場にとてつもない数の人々が集まっていた。荒くれものの冒険者から子連れの夫婦、カップル、老人の集い、老若男女問わず街の人口の半分以上が、広場を囲むようにやって来て、中央を囲むように座り込んでいた。
 殆どの人が何かの始まりを待っているが、ここにいるのは観客だけではない。

「らっしゃい、らっしゃい! 斑猪の串焼きが銅貨三枚だよーっ!」
「ミズゴケクサのシェイク、今日だけの限定品! 虎柄餅とセットもあるよ!」

 人々から更に外側には、ここで稼がなければいつ稼ぐと言わんばかりに露店が広がっていた。ぐるりと広場を包むように立ち並んだ露店の数は、二十は下らない。

「さぁさぁ、張った張った! クラーク達とフォン達、どっちが勝つかを賭けておくれ! 今のところはクラーク優勢だよ、さぁ張った!」

 九割以上が飲食店だが、中には賭け事の元締めもいる。内容は当然、今日ここで始まる暫くぶりの大イベント、『決闘』の勝敗に関わるギャンブルだ。賭けるのは当然、どちらが勝つかで、意見も群がった人の数だけ違う。

「おい、お前はどっちに賭ける? 俺はクラークだが、貴様は?」
「貴様!? オラはそうだな、フォン達の方が最近はかつやくして……あっ、来たぞ!」

 持論をぶつけ合いながら金銀銅貨を店に渡して札に名前を書き、渡している冒険者達だったが、そのうち一人の声で、一斉に広場の中央に視線を向けた。
 彼らだけではなく、集まった人々全員――露店の店主も含めて、誰もが二組を見た。向かい合い、それぞれ南北の方角から歩いてくる、雌雄を決する者達。
 即ち、フォンとクラーク、そして双方の仲間達だ。

「クラーク、やっちまえーっ! あんな連中、ぶっ殺せーっ!」
「頼んだよ、フォン! あいつら、前々から怪しいと思ってんだ! 大したことない奴らだって、ここで勝って証明しておくれ!」

 真ん中に向かって足を踏み進めるにつれ、観客席から歓声が沸き上がる。自分達ではなく、他人が行う決闘とは、つまりギルディアのような街においてはイベントに過ぎない。格闘技場で明日すら危うい最中で戦い続けるグラディエーターを見ている気分だろう。

「自分達は戦わないからって、随分勝手を言ってくれるね」

 背中に背負った大きな弓を揺らしながら、周囲を見回し、クロエが口を尖らせる。

「サーシャ、気にしない。戦って、倒す、それだけ」
「拙者もサーシャに同意でござるよ。今日ばかりは負けられない……おやっ」

 サーシャとカレンが勝利への意気込みを語りながらフォンの後ろをついて歩いていると、不意に彼が足を止めた。つまり、クラーク達と向き合った証拠だ。
 ただし、理由はそれだけではないようだった。ひょっこりと顔を出し、フォンの隣に並んだ三人は少しだけ彼の顔を険しくした原因を探り、彼の言葉で察した。

「……人数が足りないようだけど、クラーク?」

 対面したクラーク達勇者パーティのメンバーは、一人だけ足らなかった。
 勇者クラーク、武闘家サラ、剣士ジャスミン、ナイトの(どこか不安げな)パトリスはいるが、魔法使いのマリィだけがいない。つまり、四人しかいないのだ。

「マリィは体調を崩しちまってな、宿で休んでるよ。なに、てめぇらも四人、俺達も四人でちょうどいいだろ? それともなんだ、数で劣ってる方が嬉しいマゾだってのか?」

 フォンを煽るような言いぶりだが、彼は誤魔化されない。人数差という絶対的なメリットを手放すほどクラーク達は間抜けではないし、油断もしていないように見える。
 何より、マリィはフォンが知る限り最も残虐で、敵の破滅を見るのを望んでいる。そんな彼女が体調を崩した程度で決闘の席を外し、宿で静かに仲間の勝利を祈るような人間だとは思えない。クロエ達も、同じ考えなのは表情で分かる。

「信用できない。彼女が宿にいる証拠は?」
「くだらねえ質問してんじゃねえよ。組合長、決闘のルールを説明してくれ」
「この、師匠の問いに……」

 彼の問いを無視するクラークをカレンが問い詰めようとするが、先に駆け寄ってきたウォンディが、半ば強引に大声を張り上げた。

「では、今回の決闘のルールを話そう!」

 こうなると、もう話には割って入れない。
 カレンは細い目を一層細め、尻尾をコートの中で逆立てながらも、フォンに頭を撫でられて後ろに下がった。組合長という強い味方を擁する彼らの嘲笑が、彼女には苛立たしくて仕方なかった。
 しかし、ウォンディは努めてフォン達を見ないようにしながら、大声で説明を始めた。

「今回の決闘では、一対一の戦いを基本とする! 互いに選出したメンバーでの戦いは、魔法、武器、何を使っても良いぞ! ただし、外部からの手助けや道具を受け渡すことは禁止とする! ルールを破ったと私が判断した時点で、即失格となるから注意するように!」

 彼の声は、いつもの気弱さはなく、何倍もの大きさになっていた。
 恐らく、口元に近づけた棒状の魔法道具によって拡声されているのだろうが、その点を差し引いても異様に元気だ。フォン達が敗北し、後ろめたい事柄の憂いがなくなると思っているのだろうか。

「どちらかが降参するか、死亡するか、私が失格宣言をした時点で決着となり、多く勝利した方が勝ちだ! 今回は四人での戦いなので、勝ち数が並んだ場合は別で最終戦を用意する! 今回の決闘では死亡した後の責任は取れんから、危険と判断したら降参するんだぞ! 特に勇者パーティは、今日の決闘の後も依頼の予約が入っているんだからな!」

 同時に、勇者パーティへの贔屓を隠そうともしていない。
 観客席の声は一層大きくなり、クラーク達を応援する者達ははしゃぎ、フォン達を応援する者はブーイングをぶつける。クロエも、許すならブーイングをしてやりたかった。

「こっちの心配はナシって、分かりやすすぎてありがたいね」

 カレン同様に怪訝な顔をするクロエを、ウォンディは絶対に見ない。

「最後に、フェアな状況を作る為、決闘の会場を双方のメンバーが離れるのは禁止だ! 如何なる理由があっても、指定された場所か特設診療所以外の場所に行った時点で失格とする! 仮に前の試合で勝った者なら、勝利は取り消しだ! 以上!」

 ただ、彼の態度よりも、マリィの不在よりも、フォンは最後のルールが気にかかった。

(僕達の移動を制限した? 有事でも対応できないようにする為か?)

 彼らが広場の外に出るのを制限するというのは、普通に聞けばさほどおかしな話ではない。こっそり抜け出して卑怯な真似をさせないのは、大まかなルールしか定まっていない決闘では正々堂々さを補助するだろう。
 しかし、相手にはそうではない者がいる。しかも、最も危険性の高いマリィがこの場にいない。要するに、彼女が何かをしでかしても、フォン達は対処できないのだ。
 おまけに、一度疑い始めると、クラークの仲間達の様子まで奇妙に見えてしまう。

(それにサラもジャスミンも、パトリスも一言も喋らない。まるで何か、異常な決意を固めたみたいだ。パトリスは特に、恐怖が顔に浮かんでいる……)

 震えが止まらないパトリスに声をかけようとしたフォンだが、クラークが遮った。

「何だ、フォン? 決闘のルールに、文句でもあるのか?」

 ぎろりと睨む彼を厄介だと感じ、フォンは首を横に振る。

「……いいや、ないよ。異論はない、ルールには従おう」
「それでいいんだよ。ウォンディ組合長、決闘開始の宣言をしろ、高らかにな!」

 勇者に言われるがまま、ウォンディは大袈裟に右手を掲げて、叫んだ。

「分かった――ではここに、クラークパーティとフォンパーティの決闘を開始するッ!」
「「オオオォォォ――ッ!」」

 ギルディアの街の未来を左右する決闘の開始が告げられ、大歓声が轟いた。
「「クラーク! クラーク!」」
「「フォン! フォン! フォン!」」

 観客は狂ったように、各パーティのリーダーの名を叫ぶ。中には賭け事に使う札を握り締めて絶叫する者や、家族総出で応援に来ている者までいる。
 街で最も盛り上がる――死を間近で体験できるイベント、決闘を見に来るのも当然だ。

「各チームは後ろに下がり、第一試合に出場する選手のみ前に出るように! ゴングを鳴らすと同時に、試合開始とする!」

 ウォンディが手にした棒を下ろし、二つのパーティは中央からそれぞれ後方に下がる。冒険者案内所と同じくらい広い広場の端まで歩き、敵を見据えるフォン達の後ろの観客席から、騒ぎ声に混じって、どこか楽し気な声が聞こえてきた。

「さてさて、勇者パーティの方は最初に誰を出すかしら?」

 どこかで聞いた声に振り向くと、立ち入り禁止を意味する白線の向こうから、つまり住民に混ざってアンジェラがフォン達に微笑みかけた。
 国内最強の騎士、同時に自警団の頼もしい助っ人であるはずの彼女だが、樽ジョッキと串に刺した肉を手にやや高揚した調子で立っている。他の自警団の面々は、決闘場で他の喧嘩が起きないように警備をしているはずだが、そんな様子は微塵もない。

「あれ、アンジー? 自警団は警備に就いてるはずじゃなかったっけ?」
「ただの観客よ、気にしないで。でも、私の勘が正しければ……」

 自分のやりたい仕事しかしない気まぐれ屋の彼女がクラークパーティの先鋒を予想するのと、耳を劈く怒声が響いてきたのは、ほぼ同時だった。

「――出てきやがれ、サーシャ・トレイルウゥッ!」

 肩をいからせ、ずんずんと歩いてくるのは、赤い短髪を揺らしてくるサラだ。
 しかも、初めて会った時から因縁深いサーシャを指名している。きっと、今回の決闘で今度こそ完全な決着を付けようと目論んでいるのだろう。

「……武闘家のサラだね。サーシャ、脳筋バカがお呼びだけどどうする?」

 さて、こちらは名指しされたからといって彼女を出さなければならないルールはない。寧ろ、近接戦闘の身に攻撃手段が限られた相手なら、弓手のクロエが有利だ。

「サーシャ、出る。あの女を黙らせる、サーシャの役目」

 しかし、サーシャは敢えて自ら前に進み出た。
 これに関して、クロエ達も、アンジェラも驚かなかった。サラとサーシャの因縁は知っていたし、決着を付けたいと思っているのはサラだけではないとも分かっているからだ。だから、クロエが念の為聞いてみたのも、まあ、無意味というわけである。
 背負った巨大なメイスに触れ、羽織ったぼろ切れを靡かせる彼女は、戦士の闘志を瞳に燃やしていた。その情熱を失わせないよう、しかし仲間として、フォンは彼女に警告した。

「油断しないで。奴らはどんな手段を使ってくるか分からないよ」
「お前の心配、無駄。サーシャ、負けない。自分の為、一族の誇りを賭けて、勝つ」

 サーシャは軽く鼻を鳴らし、広場の真ん中へと歩いていく。
 腕を組み、どこか心配そうなフォンの隣から、ひょっこりとカレンが顔を出した。

「師匠、サーシャの強さは拙者達の中でも折り紙付きでござるよ。ウォンディの贔屓があったとしても、負けるなんてありえないでござる」

 彼女の強さならば、フォンも重々理解している。単純なパワーだけならばフォンにも肉薄し、自分よりずっと巨大な魔物や人間にも引けを取らない戦闘力は、確かだ。
 確かだからこそ、彼はどこか奇妙な自信を持っているらしい勇者達が気になっていた。

「いいや、僕が心配しているのは、組合長より……クラーク達の秘策だ」

 そんな彼の不安を埋もれさせるように、タープ付きの特設会場の長椅子に座ったウォンディが、再び魔法を使った拡声器で周囲の人々に聞こえるように言った。

「第一試合の選手が出揃ったみたいだな! クラークパーティからは武闘家のサラが、フォンパーティからは田舎者の乱暴者サーシャがエントリーだ! ここからは冒険者組合の受付嬢、スモモに司会進行を執り行ってもらおう!」
『司会を代わりました、受付嬢を担当していますスモモです! それでは改めまして、双方、中央で向かい合ってください!』

 組合長の隣に座る、桃色の髪の受付嬢が拡声器を受け取ったが、進行役に指示されずとも、サラとサーシャは既に向き合っていた。
 サラが親でも殺されたかのような形相で睨みつけているのに対し、サーシャはいつもの仏頂面を崩さなかった。表情一つ変えない彼女が癪に障るのか、サラは唾を吐き、吼えた。

「ようやく来たな、この時が。あんたの顔をぶっ潰してやれる時が!」
「弱い犬、よく吼える。サーシャ、子犬と話す趣味はない」
「はっ! すましたツラしてそんな戯言吐いていられるのも、今のうちだ!」

 この顔を壊したい。自分を何とも思っていない顔を後悔に染めてやりたい。
 自らの衝動に突き動かされたサラは、もう迷わなかった。深緑色のズボンのポケットに手を突っ込んだ彼女は、わざわざサーシャに見せつけるようにして、黒い丸薬を取り出した。

「……それは?」
「直ぐに分かるよ、あんたの敗北でな! ゴングを鳴らせ、受付嬢!」

 サーシャから僅かにも目を離さないサラの命令で、スモモ受付嬢は身を震わせた。

『は、はい! では……試合、開始ッ!』

 そして、慌てて手元のゴングを勢いよく鳴らした。
 これこそが決闘開始の合図であり、どちらかが心を折られるか、死ぬまで続く戦いの開幕を知らせる号令である。睨み合う二人の形相を見るに、恐らくは死ぬまでの激闘となる。
 怒りを孕んでいたのはサラの方だったが、先に駆け出したのはサーシャだった。

「サーシャ、お前を倒して、飯食ってさっさと寝る!」

 布を巻いたメイスを掴み、石畳で整えられた広場の床を引きずりながら激走する。削られる小石の音、振動を無視して振り上げた彼女だったが、サラの異様さに気付いた。
 サラは拳を構えず、ただ手にした丸薬を口に運び、呑み込んだだけだった。それ以上でも以下でもなく、戦闘態勢すら取らず、ただサーシャを見下すように嘲笑う。

(避けない? だったら、サーシャ、あいつの頭を叩き潰す――)

 何かの作戦だろうか。そうでないなら、戦いを諦めた大間抜けだ。
 仮にそうだとして、情けをかけてやる理由はない。ここできっちりと決着をつけてやるのが、彼女の為でもあり、フォン達の勝利にも貢献するのだ。
 だからこそ、彼女は躊躇いなくメイスを叩きつけた。
 顔面を破壊し、一撃のもとに昏倒させるべく、叩きつけた。

 ――はず、だった。

「……な、ん、だと?」

 跳び上がった彼女が振り下ろしたメイスは、サラの顔には触れなかった。
 彼女は片腕で、飛んできたボールを掴むよりも簡単に、渾身の一撃を掴んでいた。
 よく見ると、鉄製のメイスに彼女の指がめり込んでいる。幾ら怪力でも鉄を砕けはしないサーシャの目が見開き、驚きに顔を染めると、サラは邪悪な笑みを浮かべた。

「何だと、だって? 現実が脳味噌に追いついてないの?」
「ぐ、この力は……!?」

 地面に降りられもせず、動けもしないサーシャをメイスごと下ろしながら、サラが言う。

「あんたのしょぼい打撃を止めてやったんだよ。すっとろい動きをしてたから掴んで、これから現実ってのを叩き込んでやるって、それだけだ――」

 勿論、暴力的なサラのことだ。攻撃を止めただけでは終わらない。
 ぐっと握り締めたサラの拳は、思い切り引き絞られて。

「『覚醒蝕薬』で最強の筋肉を手に入れた、私の――あたしの拳でなあぁッ!」

 サーシャの腹部目掛けて、強烈なパンチが放たれ、直撃した。
「お、ごぁ……ッ!?」

 みしみしと、体の内側で何かが砕ける音がした。
 骨か、臓器か、はたまたそのどちらもか。激痛と鈍痛を織り交ぜたサラの強打は、サーシャの腹に深々とめり込み、体を容易く宙に浮かせた。
 恐るべきカウンターと早すぎる試合展開を前に、誰もが目を見張る。クラーク達はさもこの事態を展開していたかのようにほくそ笑み、フォン達は無意識に汗を流す。
 しかし、サラの反撃はこれだけでは終わらなかった。

「オラオラァ! この程度じゃ済ませねえぞ、っとォ!」

 彼女はメイスをサーシャから引き剥がすと、足元に叩きつけ、無防備となった彼女目掛けて空いた方の手で再び殴りつけた。
 今度は体が浮くほど重い一撃ではなかったが、代わりにすかさず、素手にサーシャの腹から離れた握り拳を胸に叩き込む。右腕のパンチが命中すると、即座に左腕の殴打が直撃し、防御する猶予も与えないラッシュ攻撃へと変貌する。
 十発、二十発、もっと多くの打撃がサーシャに吸い込まれる。衣服が早々にぼろぼろになり、口から体液と血を吐き出した彼女を見て口元を吊り上げるサラは、最後に強烈な回し蹴りを脇腹に打ち込み、噴水の方へと吹っ飛ばした。

「がああぁぁッ!?」

 石造りの噴水を粉々に砕き、ずぶ濡れのサーシャが呻く。

「サーシャ!」

 仲間の身を案じるカレンの声は、観客の大歓声で簡単に掻き消されてしまった。一方でクロエは、サーシャを心配する気持ちは同じだが、サラに起きている異常に注目していた。

「嘘でしょ、あいつ、あんなに強かったの!? サーシャのメイスを片手で止めるなんて!」
「違う、強かったんじゃない!」

 観客の声に消えないように叫びながら、サラの変貌を目の当たりにするフォンが言った。

「強くなったんだ、今この瞬間から……!」

 彼の目に飛び込んできたサラは、もういつもの彼女ではなかった。
 もとより比較的筋肉質ではあったが、今のサラは筋肉が膨張し、肌の色もやや赤黒く変色している。しかも血管がぶくぶくと浮き出て、瞳は猛禽類の如くぎらついている。漏れ出る息は白く、短い髪は命を吹き込まれたかのように、踊るかのように揺れている。
 少し足に力を入れただけで広場の床にひびが入るほど力が増しているその様は、明らかに異形と呼べる変貌ではあるが、当の本人のサラは奇怪な進化に歓喜している。

「はああぁ……サイコーだ、サイコーだよ、この力! 体の内側からエネルギーが湧きだしてくる、体力も、魔力も満ち満ちてくる! 『覚醒蝕薬』、効果は確かみたいだなァ!」

 げらげらと笑いながらサーシャに近寄る彼女を指差し、カレンがフォンの裾を引っ張る。

「師匠、なんでござるか、あいつの姿は! どう見ても異常でござるよ!」
「分かってる。恐らくドーピングだろうけど、そんな域の話じゃない。瞳孔が開き、筋肉膨張、血管の肥大化……少なくとも十種類以上の薬物反応が出てる!」

 ただの増強剤であれほどの効果が出ないのは、毒物や薬に精通したフォンは知っていた。そんな代物をいつ服用したのかも分かる――試合が始まった瞬間の、黒い丸薬だ。

「成程、さっきの丸薬か! しかも違法薬物でもなければ、あれだけの効果は出ないはず!」
「違法薬物ねぇ、ものによっては所持だけで投獄もあり得るわよ?」

 興味深そうなアンジェラの呟きを聞くよりも早く、フォンは大声を張り上げた。

「ウォンディ組合長、サラがたった今呑んだ丸薬には違法薬物の可能性がある! 今直ぐ決闘を中止して、彼女達の身体検査を行って欲しい!」

 フォンは真剣に、特設会場に向けて珍しいほど大声を出したが、肝心のウォンディはちらりとも彼を見なかった。声が聞こえてはいるようで、放送担当のスモモに何かをぼそぼそと耳打ちすると、代弁者のスモモが結論をアナウンスした。

『……えー、組合長は明確な証拠がないとしていますので、提案は却下されました!』

 残酷な贔屓が言い渡されるのを待っていたように、サラがサーシャを蹴飛ばした。
 最初から乗り気ですらない態度の組合長を見て、クロエもカレンも憤慨する。 ウォンディは最早、冒険者の味方ではない。クラーク達の味方だ。

「何だって!?」
「組合長、舐めたクチを!」

 身を乗り出して怒りを叫ぶ二人と静かに組合長を見たサラは、メイスを持ったままわざとらしくサーシャの頭を掴み、三人の関心を力の入らない仲間に向けさせる。

「おいおいおいおい、フォン! あたしとこいつの決闘を邪魔すんじゃねえよ! ほら、立ちやがれ、このメイスみたいにブチ壊してやるからよォ!」

 言うが早いか、サラは何と素手で、手にしたメイスを握り砕いた。
 長年苦楽を共にした武器の破壊に目を見開くサーシャだが、次に自分の身を案じる必要があった。抵抗する気力を一時的に失った彼女に、サラが暴力を加え始めたからだ。
 拳打、殴打と称しなかったのは、膨れた筋肉から放たれる打撃に武闘家としてのセンスがなく、繊細さをかなぐり捨てた純粋な――文字通り、暴力でしかなかったからである。

「ほらほら! さっきまでの! 威勢は! どうしたってんだ!」

 殴り、蹴り、砕き、潰す。たちまち、サーシャの体は血と青痣で埋まってゆく。
 観客の中からも心配する声が上がるが、アドレナリンが噴出する者達の方が多く、最早この広場は処刑場のようだ。苦痛で足が震え、左目が腫れ上がり、片腕が折れた様子のサーシャの惨めな様は、クラーク達を絶頂へと導く。

「いいぞ、サラ! そのまま滅茶苦茶に潰して、ブチ殺せッ!」
「ボコボコにしちゃえー! 私達に喧嘩を売ったのを後悔させてやれーっ!」

 パトリスを除いた仲間達の声に後押しされ、サラの暴力は加速する。純粋な筋力と腕力での勝負は、一度劣勢になると逆転が難しい。相手が違法薬物で強化しているのであれば、理性や道徳心も喪失され、一層隙を突けない。
 しかも、殺す気で戦っているのならば猶更だ。

「まずいよ、あのままじゃサーシャが、サーシャが死んじゃう!」

 切羽詰まった顔でフォンを見つめるクロエに対し、遂にフォンはサーシャに降参を促すよう叫ぼうとした。いかに負けるとしても、仲間が死ぬよりはずっとましだ。
 水と血に塗れたサーシャに降参するよう叫ぼうとした時、フォンは口を噤んだ。

「サーシャ……!」

 胸倉を掴まれ、目が虚ろを見つめるサーシャは、彼らに向かって親指を上げていた。
 どう見ても勝ち目のない、恐るべき蹂躙を受けているというのに、まだ彼女は諦めていなかった。その表情は、怒り狂うサラとは対照的に、何と笑っていた。

「……負け、ない……サーシャ……余裕……まだ、ここ、から……」

 血をごぼごぼと吹き出しながら、掠れた声で呟くサーシャ。

「……ああ、そうかい。だったら、もうちょっといたぶってやりたかったけど――」

 そんな彼女を見て、サラは嗜虐心よりも、確実な殺意が勝った。
 ずるずると彼女を引きずり、処刑するべく中央へと戻ってゆく。そして彼女の胸倉ではなく足を掴むと、瞳を血走らせ、血管を浮き出させ、勢いよく彼女の体を振りかぶり――。

「ここでくたばっちまいなああぁッ!」

 雑巾を地面に叩きつけるかの如く、サーシャを床に直撃させた。
 彼女の体が跳ね、血が噴き出し、衣服全てを赤く染める。メイスで地面を打ち付けるよりも激しくひびが入り、肉体が意識とは裏腹に痙攣する。
 空を仰ぐサーシャ。仲間達が叫び、敵が彼女を殺せと喚く。観客が怒鳴る。
 死に瀕した彼女の隣に立ち、サラは自身の足裏を持ち上げ、顔を踏み砕こうとする。

「あたしの、勝ちだァ――ッ!」

 間髪入れず、避ける間も与えず、サラは全精力を込めて、足を振り下ろした。
 足裏が目の中に飛び込んでくるサーシャの脳裏を過るのは、一族の掟ではない。これからの未来でも、山盛りの料理でも、魔物への闘志でもない。

(――フォン、お前ら)

 自分を信じてくれた、共に居てくれた――仲間の、姿だった。
 フォンの静かな笑顔。お節介なクロエの微笑み。カレンの満面の笑み。

(なんで、あいつらの顔を思い出す?)

 死に直面している最中に浮かんだ面々に、サーシャは自ら疑問を呈した。
 全てがスローモーションに感じ、足もまだ彼女を潰していない。ただ、サーシャは己の謎を解くのに頭がいっぱいで、圧死に対する恐れなどまるでない。思い浮かぶのはひたすらに、彼らと過ごした何でもない日々のワンシーン。
 どうしてだろうか。孤独な戦士である自分が、どうして死の間際に彼らを想うのか。

(サーシャ、いつも一人。あいつらとは目的が同じだけ。勝つのも、一族の誇りの為――)

 彼女は勝つ為に来た。サラとの因縁の決着をつける、一族の掟に従うべく。

(……どうして、勝つ? 誰の為に、勝つ?)

 ――いつからか。いつから、一族の掟を忘れていたのか。
 ――違う。忘れていたのではない。掟よりも大事なものを、見出していた。

(違う、分かってる。サーシャ、一人じゃない。勝つのも、サーシャの為じゃない)

 フォン、クロエ、カレン。ついでに、おまけ程度に、アンジェラ。
 自分一人ならば、ここで決着を付けようとも考えなかった。死に恐れを抱かなかったし、誰かへの侮辱で怒りを燃え上がらせなかった。何より、己の死が齎す悲しみを知らなかった。

(ここで死ぬ、あいつら、泣く。そうなったら、辛い)

 血に濡れた顔が、瞳が、虚空を見つめるのを止める。代わりに、迫る足を睨む。
 自分はまだ死んでいない。敗北もしていない。そのいずれも許されない。

(サーシャ、死ねない、負けられない――ッ!)

 掟でも何でもなく、仲間の為に、勝つ。
 心に浮いているばかりの意志が糸で繋がり、サーシャの目が闘志に覚醒した時、彼女の体はサラが足を踏み下ろすよりも速く――人間の思考を超越して動いた。
 足がサーシャの頭を粉々に砕くよりも先に、彼女は折れた方の腕を振るい、今まさに超速で人を殺そうとしていた者の脛を打ち抜いた。

「……えっ?」

 折れた腕。しかし、凄まじい速度。サラのみならず、観客すらも押し黙る、衝撃。
 思考を超え、反射のみで殴り抜いたサーシャの拳は、自らの指諸共サラの脛をへし折った。

「あ、え、な、なんでええええぇぇぇッ!?」

 骨が飛び出た脛を凝視するサラは、思わず後方に倒れ込んだ。いかに薬物で眼球が飛び出るほど高揚しているとしても、痛みは感じる。いや、あらゆる身体能力が過敏なほど強化されている今は、余計に激痛として刺激されているのかもしれない。
 喉が裂けるほど叫ぶサラの醜態に、残虐な観客が再び沸き上がった。
 クラーク達はというと、状況が未だに呑み込めていなかった。ついさっきまでサーシャを始末できる一歩手前までいったというのに、どうしてこうなったのかが分からない。

「ど、どうなってんだ!? なんで踏み潰したサラの足がへし折れてんだ!?」

 戸惑うクラークへの返答ではないが、反対側のフォンは彼女の攻撃を見抜いていた。

「踏みつけをかわして、残った拳で脛の骨を砕いたんだ……けど、あれだけ負傷したサーシャが、どうしてあそこまで動けるんだ!?」

 フォンの見立てでは、サーシャはほぼ動けない。だが、仲間達は応援を優先する。

「何だか知らんがとにかく良しでござるよ、師匠!」
「いけええぇーッ! サーシャ、ぶちかませええぇーッ!」

 仲間の復活に目が血走るほど熱く煮えたぎったクロエとカレンの声援が、サラの耳に飛び込んでくる。喧しいと怒鳴ってやりたいが、鋭く鈍く、凄まじい痛みだけが脳を支配する。

「あっ、あぎ、足、足があぁ!」
「馬鹿野郎、立て、立ちやがれ! あともうちょっと殴ってやれば死ぬんだ、反撃しろ!」

 じたばたともがくサラに対し、投げかけられたのは残酷な言葉。
 脛を破壊された当の本人でもないのに無責任な、とサラは怒り散らしたかったが、サーシャに意識を向け直さなければいけないのも事実だ。そういう意味では、クラークの助言は正しいともいえる。

「分かってらあ、今度こそ確実に……あれ?」

 ただ、まだ起き上がらない、起き上がれないサラにとっては、最早手遅れだった。
 上体すら半分も起こせていないサラの正面に、陽を背に浴びるサーシャが立っていた。

「……なんで、なんでまだ意識があるんだよ、この女は……!」

 心底ぞっとした。こいつは、人間ではないとサラは確信した。
 逆光のせいで真っ黒に染まった体と顔、滴る血の量、爛々と光る真紅の瞳がサラを捉えた時、獣の如く開いた口から、掠れた言葉だけが漏れ出してきた。

「…………サーシャ、負けない」
「つべこべ言ってねえで死んでろ――おぼごぁああぁッ!」

 辛うじて反論し、強がったサラだが、余計なことを言う前に逃げるべきだった。
 超強化されたはずの彼女の目ですら追えない速度で、サーシャのストンピングが、彼女の残った足を踏み抜いたからだ。普段の彼女の力ではない――意識を超越した、ただ執念のみが生み出した怪力によって。
 赤黒い肌が破れ、筋肉が露出し、骨が飛び出る。グロテスクな光景に叫ぶ観客の声が示す通り、奇怪な方向に曲がった両足は、もう彼女から動く手段を失ったと言っていた。

「骨、ほ、骨がぁ!? 見えでる、出でる、骨、やべえよ、やべえよぉ!?」

 狂いそうなほど痛い。喉が潰れるくらい叫ばないと、正気を失う。

「ふっ、ふざけ、ふざけんなああああ! あたしがずっと有利だったろうが、優勢だったろうが! どうして逆転されるんだ、おかしいだろ、おかしいぶぎゅえッ!?」

 そんな無駄な雄叫びを封じるべく、サーシャは彼女が振り回していた右腕を殴り潰した。
 悶え苦しみ、吐瀉物と唾液の混合物を撒き散らしながら喚くサラ。追い詰められてはいるが、サーシャもすでに限界を迎えようとしているのか、ふらふらとサラの上に跨る。
 ただし、今は決して気絶しない。死にもしない。最後の一撃を、叩き込むまでは。

「サーシャ……これ以上……殴らない、あと、一発……だけ……」
「あ、ああ、あああ、あひいいぃぃ……!」

 サラの顔が恐怖に歪む。薬物による覚醒の強さなど、忘却の彼方に押しやられる。
 小指から順に折り曲げ、握りこぶしを作ったサーシャはサラの顔の横に掌をあてがい、太陽に届くほど高く、高く拳を振り上げ――。

「――フォン、サーシャ、勝ったぞ」

 口元に笑みを浮かべ、先程のサラのように、とどめの一撃を顔面目掛けて振り下ろした。
 誰にも邪魔されない、誰も止められない、ありったけの力を込めた拳。

「あああああああああああんぶッ」

 それは果たして、サラの顔面に直撃した。
 鼻、目玉、唇、全てがめり込んだ。血は噴き出しこそしなかったが、手足が大きく震え、力なく垂れ下がった姿こそが、サラが再起不能になった証拠でもあった。
 しかし、サーシャも同様だった。拳で顔を破壊したまま、動かなかった。

「……どう、なったの……?」

 クロエが息を呑む。フォンですら、戦いの良く先を見守ることしかできない。

『両者動きが止まりました! 私が状況を確認します、救護班も急いでください!』

 広場を静寂が包む中、スモモがタープの下から飛び出し、動かなくなった二人に駆け寄る。特設診療所からも白衣の男女が何人かやってきて、状況を確認する。
 どうなるのか、どうなってしまうのか。双方のパーティが不安そうに見守っていると、スモモはサーシャの顔を見て頷き、サラの顔を見て顔を顰め、その場で宣言した。

『……クラークパーティのサラ、顔面陥没により再起不能! フォンパーティのサーシャ、出血多量に伴う意識喪失! よって――』

 どちらも戦えないのであれば、尚且つ同時に動けなくなったとすれば、答えは一つである。

『この試合は、引き分けとなります!』

 第一試合は、勝ちでも――負けでもない。
 引き分けの宣言がなされた途端、会場に歓喜とブーイング、二つの轟声が鳴り響いた。