ほんの微かに狂った手元。縄を震動が伝い、微かに苦無の飛来がずれる。
そのおかげで、リヴォルに向かって放たれるはずだった苦無のうち九十九本は、彼女に突き刺さらなかった。白いワンピースを破り、肌を裂く程度に留まり、致命傷どころか肉を貫通すらしなかった。
残る一本だけは違った。
勢いを失わなかった唯一の苦無は、リヴォルの右目に刺さった。
「っがぎゃああぁぁぁ――っ!」
またも、人間とは思えない悲鳴が響いた。
右目を潰されたリヴォルは大きく仰け反り、獣の如く叫んだ。苦無は幸いにも彼女の眼窩を貫通して脳にまで届かなかったようだが、どろりとした赤い液体が黒い刃と肉の隙間から漏れ出し、ぼたぼたと落ちて地面を汚した。
右目と右手を失ったリヴォルは目に刺さった苦無を引き抜き、右目を閉じたまま、残った左目と鬼のような形相で喚きかけたが、忍者らしく何をすべきかを見忘れてはいなかった。
動きを止めてしまったフォンへの反撃など考えず、レヴォルの唯一残された胸元の部位――恐らくは宝玉を埋め込んだ箇所である――を掴むと、苦無の結界から逃れるかのように彼女は距離を取った。
フォンはというと、彼女を追わず、声の主を呆然と目だけで探しているようだった。苦無も宙を舞わず、地面にばらばらと落ちてしまっている。
渦巻く黒い瞳がそれを見つけるよりも先に、もう一度彼を誰かが呼んだ。
「フォン!」
木々と茂みの間から姿を現したのは、クロエだった。
傷口が開いたとアンジェラは言っていたが、どうやら動けないほどの痛みを伴っているようではなさそうだ。腹を貫通する一撃を受けて半日で、攻撃を受けた部位を抑えていれば動ける程度に回復している彼女が異常であるとも言えるが。
邪魔物の乱入に苛立って、ぎろりと睨みつけるリヴォルを睨み返しながら、クロエはフォンの傍に駆け寄った。どうやら極端に目立った傷はないが、何かしらの内的要因で自失状態に陥っているようで、目の焦点が合っていない。
「あんた、フォンに何したの!?」
息を切らしながらも弓を構えるクロエに対し、リヴォルは明確な殺意を向ける。
「邪魔しないでよ……お兄ちゃんと私の間に入ってくるな、ゴミ風情の分際でッ!」
「質問に質問で返さないで! フォンに、アンジェラに何をしたかって聞いてんの!」
「うっさい、ムカつく、黙れ、この蛆虫女! まだまだ私はお兄ちゃんと殺し合うってのに、お前みたいなのがいると楽しめないだろうがァ!」
「話す気がないなら、ふんじばって歯ァ全部へし折って、無理矢理口を割らせてやる!」
じりじりと怒りをぶつけあう二人だったが、激突するよりも早く介入者が現れた。
「師匠、クロエ、無事でござるか!?」
「仲間に手を出す、サーシャ、許さない!」
少し遅れてやってきたカレンとサーシャが、クロエと同じ茂みからやってきたのだ。
同じ道を使って滝の上から滝壺辺りまで下りてきたらしい。二人も顔色を悪くしているが、それなりに動けるくらいの余力を残しているようで、フォン達のもとまでやって来る。
「カレン、サーシャ! 手伝って、あいつを捕まえるのを……」
「それよりもクロエ、師匠の介抱が優先でござる!」
クロエと違うのは、カレン達が彼女よりも冷静で、大事なことを見失っていない点だ。師匠であるフォンの教えをしっかりと活かしているのか、戦いよりも命を優先している。
どうにもクロエは納得していない――リヴォルが簡単に自分達を逃すとも思えないと考えている様子だったが、フォンが糸の切れた人形のようにゆらりと体を揺らし、その場に倒れ込んだのを見ると、彼を抱きかかえた。
「フォン!?」
彼は呼吸こそしていたが、何度も体を揺らしても目を覚まさない。疲労と蓄積した負傷が緊張と共に一気に解き放たれ、肉体の限界値を越えてしまったのだろう。その域も相当荒く、クロエが憤ったまま戦いでもしようものなら、今度こそ本当に彼の命が失われてしまう。
だからこそ、カレンは敵との戦いではなく、師匠の命を最優先とした。
「そこの忍者、お主も最早限界でござろう! 双方共に戦い続けても疲弊し、目的を果たせぬまま散るだけでござる! なれば今は、互いに手を引くのが得策かと!」
「お前、不利! サーシャ達、お前、見逃す!」
「目と手を片方失い、武器である人形も損傷しているならば、妥当な判断でござる!」
仲間達に諭され、ようやくクロエも小さく頷き、撤退を促す。
「こ、の、クソ共があァ……」
忍者でもない敵に撤退するよう勧告され、感情を爆発させて血管を浮き立たせ、憤死しかねないほどの表情で目をぐるぐると動かし回すリヴォルだったが、二人の説得はどうにか通じたようだった。
「……お兄ちゃんに伝えろ……絶対に諦めないと、また会いに来ると!」
血走った左目で呪うかの如く三人を凝視するリヴォルは、レヴォルを抱えたまま、どこからか小さな黒い球を取り出して地面に叩きつけた。
地面に直撃した球は炸裂し、もうもうと黒い煙が巻き上がる。クロエ達が、何が起きたのかを確かめる間もなく、煙が晴れた時にはリヴォルの姿は影も形もなくなっていた。忍者の常套手段、忍具『煙玉』を使って消えたのだ。
「……撤退、した……?」
「みたいでござるな……殺気ももう、遠くへ行ったようでござる……」
うっすらと空が白んでいく中、敵の気配を感じなくなった。
「……ありがとうね、カレン」
「礼には及ばんでござるよ」
安全を頭ではなく肌で感じ取り、どっと汗が噴き出してきた三人は、やっと互いと仲間の無事を確かめられるほどの余裕も出てきた。クロエもまた、何をすべきかを冷静さと共に把握し始めたようで、普段の的確な指示を下せるようになった。
「サーシャ、アンジェラの様子を見てきて。フォンを連れて、速めに山を下りよう」
頷いた仲間が、倒れたままのアンジェラに走ってゆく。
彼女の腕で眠るフォンが二度と目を覚まさないような気がして、クロエは思わず、思い切り彼を抱きしめた。微かで弱々しい呼吸に耳を傾けるよう、胸の中に抱き入れた。
空の白みが明るみに変わる中、太陽が山の頂点から昇りつつあった。
◇◇◇◇◇◇
その頃、煙玉を用いて目を晦ましたリヴォルは、既に林の奥まで逃げていた。
ワンピースの裾を歯で千切り、右手の基部に巻き付け、筋肉に力を込めた無理矢理な止血をした彼女は、未だに右目から血を垂れ流しているのに、心底楽しそうに笑っていた。
「――そっか、成程。お兄ちゃんは作り替えたんだね、自分の記憶を」
レヴォルの残骸を足元に転がし、座り込んだ彼女は、気付いていた。
フォンの変貌の理由を。今の彼と、里の彼との違いの原因を。
「記憶に蓋をするんじゃなくて、壊れた自我を守る為に、記憶そのものをすり替えたんだ。今のお兄ちゃんが偽物にすら見えるほどに……ううん、今のお兄ちゃんは偽物だよ」
言動の矛盾。記憶の欠落。僕を俺と名乗る人格。
全ての答えに、リヴォルは辿り着いていた。
「安心して、今度はちゃんと見つけてあげる……次に来る時は、私と『彼』でね」
だからこそ、彼女は今度こそ、真の彼を取り戻す執念を燃やしていた。
「そうすれば、お兄ちゃんはまたあのお兄ちゃんに戻らざるを得ないもんね! 安心してね、お兄ちゃんもハンゾーが望んだ『忍者兵団』の仲間に入れてあげるから! ずっと一緒だからね、ずっと見てるからね、あははは!」
最凶最悪の忍者が齎す悪夢は終わっていない。ここからが始まりだ。
夜が明け、陽の光が木々に差し込んでも、闇に染まる彼女は暗がりで笑っていた。
「あははは、あは、あはははは――ッ!」
瞳をぎらつかせ、ただただ、延々と哂っていた。
そのおかげで、リヴォルに向かって放たれるはずだった苦無のうち九十九本は、彼女に突き刺さらなかった。白いワンピースを破り、肌を裂く程度に留まり、致命傷どころか肉を貫通すらしなかった。
残る一本だけは違った。
勢いを失わなかった唯一の苦無は、リヴォルの右目に刺さった。
「っがぎゃああぁぁぁ――っ!」
またも、人間とは思えない悲鳴が響いた。
右目を潰されたリヴォルは大きく仰け反り、獣の如く叫んだ。苦無は幸いにも彼女の眼窩を貫通して脳にまで届かなかったようだが、どろりとした赤い液体が黒い刃と肉の隙間から漏れ出し、ぼたぼたと落ちて地面を汚した。
右目と右手を失ったリヴォルは目に刺さった苦無を引き抜き、右目を閉じたまま、残った左目と鬼のような形相で喚きかけたが、忍者らしく何をすべきかを見忘れてはいなかった。
動きを止めてしまったフォンへの反撃など考えず、レヴォルの唯一残された胸元の部位――恐らくは宝玉を埋め込んだ箇所である――を掴むと、苦無の結界から逃れるかのように彼女は距離を取った。
フォンはというと、彼女を追わず、声の主を呆然と目だけで探しているようだった。苦無も宙を舞わず、地面にばらばらと落ちてしまっている。
渦巻く黒い瞳がそれを見つけるよりも先に、もう一度彼を誰かが呼んだ。
「フォン!」
木々と茂みの間から姿を現したのは、クロエだった。
傷口が開いたとアンジェラは言っていたが、どうやら動けないほどの痛みを伴っているようではなさそうだ。腹を貫通する一撃を受けて半日で、攻撃を受けた部位を抑えていれば動ける程度に回復している彼女が異常であるとも言えるが。
邪魔物の乱入に苛立って、ぎろりと睨みつけるリヴォルを睨み返しながら、クロエはフォンの傍に駆け寄った。どうやら極端に目立った傷はないが、何かしらの内的要因で自失状態に陥っているようで、目の焦点が合っていない。
「あんた、フォンに何したの!?」
息を切らしながらも弓を構えるクロエに対し、リヴォルは明確な殺意を向ける。
「邪魔しないでよ……お兄ちゃんと私の間に入ってくるな、ゴミ風情の分際でッ!」
「質問に質問で返さないで! フォンに、アンジェラに何をしたかって聞いてんの!」
「うっさい、ムカつく、黙れ、この蛆虫女! まだまだ私はお兄ちゃんと殺し合うってのに、お前みたいなのがいると楽しめないだろうがァ!」
「話す気がないなら、ふんじばって歯ァ全部へし折って、無理矢理口を割らせてやる!」
じりじりと怒りをぶつけあう二人だったが、激突するよりも早く介入者が現れた。
「師匠、クロエ、無事でござるか!?」
「仲間に手を出す、サーシャ、許さない!」
少し遅れてやってきたカレンとサーシャが、クロエと同じ茂みからやってきたのだ。
同じ道を使って滝の上から滝壺辺りまで下りてきたらしい。二人も顔色を悪くしているが、それなりに動けるくらいの余力を残しているようで、フォン達のもとまでやって来る。
「カレン、サーシャ! 手伝って、あいつを捕まえるのを……」
「それよりもクロエ、師匠の介抱が優先でござる!」
クロエと違うのは、カレン達が彼女よりも冷静で、大事なことを見失っていない点だ。師匠であるフォンの教えをしっかりと活かしているのか、戦いよりも命を優先している。
どうにもクロエは納得していない――リヴォルが簡単に自分達を逃すとも思えないと考えている様子だったが、フォンが糸の切れた人形のようにゆらりと体を揺らし、その場に倒れ込んだのを見ると、彼を抱きかかえた。
「フォン!?」
彼は呼吸こそしていたが、何度も体を揺らしても目を覚まさない。疲労と蓄積した負傷が緊張と共に一気に解き放たれ、肉体の限界値を越えてしまったのだろう。その域も相当荒く、クロエが憤ったまま戦いでもしようものなら、今度こそ本当に彼の命が失われてしまう。
だからこそ、カレンは敵との戦いではなく、師匠の命を最優先とした。
「そこの忍者、お主も最早限界でござろう! 双方共に戦い続けても疲弊し、目的を果たせぬまま散るだけでござる! なれば今は、互いに手を引くのが得策かと!」
「お前、不利! サーシャ達、お前、見逃す!」
「目と手を片方失い、武器である人形も損傷しているならば、妥当な判断でござる!」
仲間達に諭され、ようやくクロエも小さく頷き、撤退を促す。
「こ、の、クソ共があァ……」
忍者でもない敵に撤退するよう勧告され、感情を爆発させて血管を浮き立たせ、憤死しかねないほどの表情で目をぐるぐると動かし回すリヴォルだったが、二人の説得はどうにか通じたようだった。
「……お兄ちゃんに伝えろ……絶対に諦めないと、また会いに来ると!」
血走った左目で呪うかの如く三人を凝視するリヴォルは、レヴォルを抱えたまま、どこからか小さな黒い球を取り出して地面に叩きつけた。
地面に直撃した球は炸裂し、もうもうと黒い煙が巻き上がる。クロエ達が、何が起きたのかを確かめる間もなく、煙が晴れた時にはリヴォルの姿は影も形もなくなっていた。忍者の常套手段、忍具『煙玉』を使って消えたのだ。
「……撤退、した……?」
「みたいでござるな……殺気ももう、遠くへ行ったようでござる……」
うっすらと空が白んでいく中、敵の気配を感じなくなった。
「……ありがとうね、カレン」
「礼には及ばんでござるよ」
安全を頭ではなく肌で感じ取り、どっと汗が噴き出してきた三人は、やっと互いと仲間の無事を確かめられるほどの余裕も出てきた。クロエもまた、何をすべきかを冷静さと共に把握し始めたようで、普段の的確な指示を下せるようになった。
「サーシャ、アンジェラの様子を見てきて。フォンを連れて、速めに山を下りよう」
頷いた仲間が、倒れたままのアンジェラに走ってゆく。
彼女の腕で眠るフォンが二度と目を覚まさないような気がして、クロエは思わず、思い切り彼を抱きしめた。微かで弱々しい呼吸に耳を傾けるよう、胸の中に抱き入れた。
空の白みが明るみに変わる中、太陽が山の頂点から昇りつつあった。
◇◇◇◇◇◇
その頃、煙玉を用いて目を晦ましたリヴォルは、既に林の奥まで逃げていた。
ワンピースの裾を歯で千切り、右手の基部に巻き付け、筋肉に力を込めた無理矢理な止血をした彼女は、未だに右目から血を垂れ流しているのに、心底楽しそうに笑っていた。
「――そっか、成程。お兄ちゃんは作り替えたんだね、自分の記憶を」
レヴォルの残骸を足元に転がし、座り込んだ彼女は、気付いていた。
フォンの変貌の理由を。今の彼と、里の彼との違いの原因を。
「記憶に蓋をするんじゃなくて、壊れた自我を守る為に、記憶そのものをすり替えたんだ。今のお兄ちゃんが偽物にすら見えるほどに……ううん、今のお兄ちゃんは偽物だよ」
言動の矛盾。記憶の欠落。僕を俺と名乗る人格。
全ての答えに、リヴォルは辿り着いていた。
「安心して、今度はちゃんと見つけてあげる……次に来る時は、私と『彼』でね」
だからこそ、彼女は今度こそ、真の彼を取り戻す執念を燃やしていた。
「そうすれば、お兄ちゃんはまたあのお兄ちゃんに戻らざるを得ないもんね! 安心してね、お兄ちゃんもハンゾーが望んだ『忍者兵団』の仲間に入れてあげるから! ずっと一緒だからね、ずっと見てるからね、あははは!」
最凶最悪の忍者が齎す悪夢は終わっていない。ここからが始まりだ。
夜が明け、陽の光が木々に差し込んでも、闇に染まる彼女は暗がりで笑っていた。
「あははは、あは、あはははは――ッ!」
瞳をぎらつかせ、ただただ、延々と哂っていた。