どれだけ早い矢であっても、握られれば意味がない。おまけに矢が飛んできた方向で、クロエはリヴォルに、自分がどこにいるかを教えてしまってもいるのだ。

「見ぃつけたあぁっ!」

 葉っぱによるカモフラージュすら見抜き、目を細めるクロエを悪鬼のような形相で捉えるリヴォル。ここから彼女の元まで跳び、首を刎ねるのは容易い。
 尤も、リヴォルはまだ分かっていない。掴んだ矢の、本当の目的を。

「あぁー……あれ?」

 しゅう、しゅう、と何かが鳴る音で、ようやくリヴォルは握り締めた矢を見た。鏃の少し後ろに、妙な音と匂いを放つ液体が塗りたくられている。今の今まで察せなかった理由は、どうやら別の液体を塗布してコーティングしていたからだろう。
 この匂いに、何かが擦れる焦げた匂いに、リヴォルは覚えがある。
 灰色の液体が、どんな目的で使われるかも知っている。仮に知らずとも、液体が微かな煙を立て始めているのを見れば、嫌でも悟ってしまうだろう。

(これは、火遁の……っ!)

 咄嗟に、彼女は矢から手を離し、レヴォルを引き寄せた。
 ほぼ間髪入れず、矢がたちまち炎を纏い、耳を劈く爆発を起こした。
 液体が起こした爆発は、とてつもない威力を伴っていた。レヴォルを盾にしていなければ、恐らくリヴォルの顔面の皮が剥がれていただろう。事実、妹人形の黒い衣服がたちまち焼け焦げ、顔の一部が溶けてしまっている。
 地面を擦るようにして仰け反ったリヴォルには、正しく驚愕の事態だった。人形の無機質な肉体を再び自分の手元に手繰り寄せながら、彼女は顔を歪めた。

(今の爆発、火遁『爆火の術』! 忍者でもない女が、忍術を!)

 彼女の疑問は、沸々と怒りに変換されてゆく。

(まさか、お兄ちゃんが! あんな凡人共に、忍者の技術を教えたの!?)

 リヴォルの予想は、誰も答えを告げないが、正解である。
 クロエが放った矢には忍者が使う着火剤と爆薬が絶妙な配分で塗られており、摩擦が発生すると爆発する仕組みだ。リヴォルが余裕をもって掴むのが前提となっているのだ。
 だとしても、矢を射ったのはフォンではない。つまり、どこかで現状を見ている彼がリヴォルの行動と思考を読み、尚且つクロエに技術を分け与えなければできない。

「――お前みたいな死にぞこないが、忍者の力を使うなああぁッ!」

 自分よりもただの人間に力を与えたと知り、リヴォルの怒りは瞬時に頂点を突破した。

「よくも、よくもッ! 私だって、お兄ちゃんに忍術を教えてもらったことなんかないんだぞ! 私のお兄ちゃんから、お前、殺されたいのかああぁッ!?」

 フォンに対してではない。自分より寵愛を受けているとしか見えない――彼女の歪んだ思考ではそうとしか思えない相手がいるのに、彼女は耐えられなかったのだ。
 頬から露出した歯をこれでもかと食いしばり、何としてでも人形で切り刻んでやるべく突進しようとしたリヴォルだったが、彼女が忘れた頃に、またもやナイフによる襲撃が再開される。しかも今度は、前後左右からの突撃だけではない。
 殆どの刃物はレヴォルで弾いたが、弾き損ねたナイフが、川辺に生えた木と木の隙間に張られた細縄を切った。次の瞬間、勢いよくしなった木に貼り付けられていた杭が宙に打ち上げられ、尖った方を下にして、姉妹目掛けて落ちてきたのだ。

「ちいぃッ!」

 四方ならまだしも、立体的な攻撃となると、回避は急に難しくなる。
 軽やかな移動に急な制限が欠けられ、刃物と杭で埋め尽くされて足場も減る。幸い、まだリヴォル自身は負傷していないが、盾として使っているレヴォルにはナイフが刺さり、腕よりやや細いくらいの杭が足を貫通している。おまけにまだ、攻撃が止む様子がない。
 矢のせいで、たちまち優勢を崩されてしまった二人。しかも絶え間ない刺突の雨霰は、どうやら不規則な攻撃というわけではなく、どこかに彼女達を誘導しているようなのだ。

(私達を押し出すように罠が作動してる……レヴォル諸共、滝壺に落とすつもり!?)

 リヴォルが必死に攻撃を防ぎながら振り向いたのは、轟轟と鳴る滝口。
 成程、じりじりと後退した先にある死への入口に自分を叩き落とすつもりなのだと、リヴォルはフォンの考えを読んだ。だが、随分と悠長な発想だとも思った。

(でも、滝口までは遠いし、そもそも足でも滑らせないとあんなところまで行くわけないよ! だとすれば、お兄ちゃんとあいつらの本当の目的は何!?)

 ひたすら攻撃を続けるつもりだとしても、刃物と杭の数には限界がある。
 降り注ぐ死の雨の終焉とレヴォルの限界、どちらが先に来るかといえば、間違いなく前者だ。そう理解できている以上、フォンが呑気に無意味な時間を過ごすはずがない。
 何が狙いか、何を目的としているのか。レヴォルに無数の傷を付けながらぎょろぎょろと辺りを見回すリヴォルに、とうとう答えが与えられる瞬間がやってきた。

「……?」

 ふと、足元に目をやった。隠すように小さく彫られた、バツマーク。足で擦ればすぐに消えるほど微かな文字にリヴォルが気づいた瞬間、木陰から誰かが飛び出してきた。

「なッ、どこから!?」

 すぐ傍から出てきたのは、メイスを携え、黒いマントを羽織ったサーシャだった。
 彼女が纏うマントに、リヴォルは見覚えがあった。どうして近くにいたのに気配を悟れなかったのか、答えは忍者が使うあの布だ。特殊な素材の布で匂いを内側に閉じこもらせ、光の屈折で背景と同化して見せる忍術、『纏隠れの術』だ。これもまた、フォンの入れ知恵だ。
 こんな近距離で、しかも刺突の雨に降られている今では、サーシャを見つけても攻撃には回れない。凝視するだけのリヴォルを攻撃するかと思ったが、彼女は敵に近づかず、地面に向かって、思い切りメイスを叩きつけた。

「でえりゃあああッ!」

 鈍撃が地面を揺らすのと同時に、リヴォルの視界が遮られた。

「な、ん、だってぇッ!?」

 目を閉じたのでも、夜闇が深くなったのでもない。
 サーシャの打撃に反応して、リヴォルの足元からせり出た四つの木板が、逃げる間も与えずに彼女を閉じ込めたのだ。
 真下に罠が仕掛けられているのなら、本来ならば槍の時のように即座に発動と思っていたのだが、そこがフォンの狙い目だった。サーシャのメイスによる強打以外では起動しないように、わざと発動条件を鈍らせたのだ。
 結果として、リヴォルは接地面に罠はないと思い込んでしまった。延々と続く攻撃とクロエの忍術に対する怒りが思考を鈍らせ、彼女を木の板に閉じ込めてしまった。
 とはいえ、この程度であれば人形の殴打で破壊できる。即座にリヴォルがそうしなかったのは、土がこびりついた分厚い板から漂う、つんとした匂いで手を止めてしまったからだ。
 さっきとは違うが、同じように目がひりつく匂い。何かは、知っている。

(この匂い……爆薬!)

 彼女を囲んでいるのは、これでもかと爆薬を貼り付け、塗りつけ、最早これそのものが爆弾と化してしまった木板だ。つまり、対象を焼き尽くす為のキル・ボックスだ。

「まずい、早く――」

 理解した時点で、遅かった。
 彼女からは見えないが、サーシャの後ろからもう一つの影が突出した。ちりちりと燃える枯草を片手に、手首をしならせ、細い黒点で箱を睨むのは、青い髪の忍者。

「――忍法・火遁! 『牢獄猛火の術』ッ!」

 フォンの一番弟子、カレンが火種を投げつけ、箱に触れるか、触れないかの刹那。

「――――ッ!」

 鼓膜を破りかねない炸裂音。肌を舐め回す炎の応酬の果て。
 箱の内側からの途轍もない絶叫を掻き消すかの如く、大爆発が巻き起こった。