フォンの目がはっと見開き、光が戻った。
 一同にとって、フォンは家族だった。
 彼だけではない。クロエも、サーシャも、カレンも、互いがもう友人や仲間以上のかけがえのない存在であるならば、どうして犠牲を見過ごせるだろうか。
 ゆっくりと肩の力が抜けたフォンに、涙を拭ったクロエが微笑みかけた。彼女と同じ気持ちであるサーシャやカレンも、我が一番気にかけていると言わんばかりに言った。

「サーシャ、トレイル一族の、最後の生き残り。家族、いなかった。でも、今は違う」
「……それを、それを言うなら、拙者も一人だったでござる! でも今は師匠が、皆がいるでござる! 共に居る家族が一人で死地に赴くなど、絶対に、絶対に嫌でござる!」

 サーシャは悲しげに、カレンは落涙を止めようともせず、自分達がどれほど大事に思っているのかを叫ぶ。これを無下にできないと、アンジェラも悟っている。

「私からは、家族を亡くした人生の先輩としてアドバイスしとくわね。死すらも決意した思いを蔑ろにしたら、どんな結果だろうと後悔するわよ?」

 だからこそ、彼女は先陣としての教訓だけを、静かに囁いた。
 彼の目は、とうの昔に迷っていた。
 一人で死に遂げるなど――鋼の如き決意など、彼女達の前では氷の柱も同然だった。陽の光で照らされ、あっさりと溶けてしまうほど脆く、儚い概念でしかなかった。
 それがフォンの弱さではなく、彼が持ち得る忍者に最も不要な感情の一部であると知っていたクロエは、だからこそ、彼の前に回って手を握った。酷い怪我を負って間もないはずの、冷たいはずの手は、どうしてかフォンよりも暖かかった。

「……フォン、あたし達にも戦わせて。フォンの誓いを、フォンを守らせて」

 いや、理由など分かり切っている。この手の暖かさは、愛情だ。
 フォンが他者に対して無私の愛情を注ぐように、今、自分に対してもそれが向けられているのだ。例え無力でも、無用でも、死のうとすらしている家族を見捨てられない愛情だけが、三人を突き動かしているのだ。
 守ってもらわずとも、ただ最期の時まで傍にいる。
 そう聞いて、何もかもが矛盾して合理的でないとしても、フォンの結論は定まった。

「――分かった。掟は破らない……『人不殺』を貫き、皆で彼女を止める」

 彼は決めた。守れないのではなく、死を選ぶのではなく、共に歩むと。
 カレンは胸を撫で下ろし、サーシャは大きく鼻を鳴らした。アンジェラは肩を持ったとはいえ強情な彼女達に内心呆れ、クロエは心から彼の決断を嬉しく思っていた。
 今、この部屋には結束ができていた。誰にも崩せない、黒鋼の結束が。
 同時にフォンは、そうと決めれば即座に動く方だった。

「やると決めたからには、皆にも、ほんの少しだけ作戦を手伝ってもらうよ。その前に三人とも、詳細を聞きながらでいいから、これを呑んでくれ」

 彼はカーゴパンズのポケットから小瓶を取り出し、掌の上に中身を転がした。ベッドからゆっくりと這い出たカレンにも見えるように出てきた球体は、おどろおどろしい色の丸薬。クロエにはこの正体が勘付けているようで、顔色がさっきより少し悪くなる。

「師匠、それは……?」
「兵糧丸だ。二十種類の薬草と生薬、虫を混ぜ合わせてある。一時的にだけど、自然回復力と体力を高めてくれるだけじゃなく、痛覚を鈍らせてくれるんだ」
「……味は……?」

 クロエが問うと、フォンは答えをはぐらかした。

「……良くはないけど、呑まないと碌に動けないと思うから……はい、どうぞ」

 今まで何度もお世話になってきた忍者の携帯食にして薬、兵糧丸。何れも苦く、特にサーシャがゴブリンから受けた毒を無効化する際に食べたものは彼女ですら吐き出しそうになったほどだ。今の彼女達の怪我を緩和するくらいの兵糧丸は、最早毒と同じ味だろうか。

「それじゃあ、フォン。作戦を説明して」

 渋い顔をしながら薬を受け取った三人をよそに、アンジェラに急かされ、フォンは床に大きな紙を広げた。狭い範囲の地図に、これでもかと赤い文字や円が記され、中央には赤い棒人間が描かれている。これがリヴォルだろう。

「まず、殺さないとは言ったけど、殺す気でやる。リヴォルほどの忍者からすれば、それでようやく死なない程度に止められるはずだから」
「それは問題ないわよ。殺すのは私の役目だから」
「うん、そもそも時間もないからね、簡潔に皆の役割だけを教えておく。キル・ボックスは街から北西に進んだ先にあるポルデン山に設置するから、作戦会議を済ませたらリヴォルに気付かれないよう、服を全て着替えてアンジェラと一緒に向かってくれ」
「三人は参加する予定がなかったのに、分担があっさり決まっちゃうのね?」
「元々僕一人でやる予定だったのを分けただけだよ。皆、この地図を見てくれ……」

 こうして、作戦会議は始まった。
 作戦を開始するのは、その日の夜。不確定要素が多い上に時間がない中、それでも淡々と作業は進んだ。全てはただ一つ、リヴォルを抹殺する目的に辿り着くべく。
 宿の部屋から四人が出たのは、それから間もなくのことだった。

 ◇◇◇◇◇◇

 その日の夜、ギルディアの街はいつも以上の静けさに包まれていた。
 昼ですら人の通りも少なく、誰もが家に閉じこもっていたのだから、夜ともなれば通りには誰もいなくなる。家屋の戸も厳重に閉められ、酒場は開かれず、街そのものが死んでしまったかのような雰囲気だ。
 さて、死に恐れ慄く街を創り出した張本人はというと、その街で一番大きな通りを練り歩いている。文字通りがらんどうの道なので、真ん中を歩いていても何にもぶつからないし、上から下まで黒ずくめのコートを纏っているから、猶更目立たない。
 悠然と闊歩する二人組の目的は、当然今日の生贄を探すこと。

「んー、結局お兄ちゃんは来なかったなあ」

 あどけない顔で犠牲を物色しながら周囲を見回すのは、リヴォルだ。
 妹にして自我のない人形であるレヴォルを引き連れた彼女は、今朝の約束通り、待ち合わせ場所に来なかったフォンを怒らせるべく、新たな悲劇を生み出そうとしに来たのだ。
 朝のうちに彼の仲間を傷つけてからは、何度か街を徘徊してみたが、フォン一行を一度も見ていなかった。上手く逃げ切ったのだろうか、それとも。

「子供が多いとお兄ちゃんが怒ってくれそうだし、三人は絶対必要だね。あとは……」

 生贄の絶対条件を呟きながらレヴォルと歩くリヴォルは、ふと立ち止まった。

「……ん? この匂い……?」

 つんと鼻を突いたのは、ツブシサザンカの匂い。普通なら気づかない程度の匂いは、忍者同士の暗号や道案内に用いられる。つまり、街唯一の忍者であるフォンが、自分に向けて何かしらのメッセージを送っているのだ。
 鼻をひくつかせながら、すたすたと彼女は歩いてゆく。通りから家屋の影に入り、別の小さな道に出て、昨日家族の首を吊らせた公園とは別の広場に出る。
 そのまままっすぐ歩くと、直ぐにツブシサザンカの匂いの発生源――五色の米が、木の下に乱雑に置かれているのを見つけた。

「五色米かあ。どうしてこんなところに……あっ」

 リヴォルは首を傾げたが、たちまち五色米を置いてある理由を知った。
 木の幹には、苦無で忍者文字が彫られていた。これでもかと力強く刻まれている棒状の暗号がリヴォルに伝えた内容は、こうだ。

『仲間は死んだ。北西のポルデン山に、道標を辿って来い。決着をつける』

 罠か。仲間の死に駆られた復讐か。
 どちらでも、リヴォルにとっては良かった。

「……ようやくその気になったんだね。待っててね、お兄ちゃん」

 彼女と妹の姿は、夜の闇に紛れるように消え去った。
 音を置き去りにするほど速く駆け抜けていく彼女の目的は、フォンとの決戦である。
 生贄も自身の待つ場所も忘れて、嬉々として口を裂かすリヴォルは街を出て行った。