――どれくらい、時間が経っただろうか。
 ぼんやりとした思考が、微かに戻ってきた。
 生きているのか、死んでいるのか。暗い世界の中で、最初に浮かんだ疑問はそれだった。
 少しずつ復活する脳の機能に伴い、四肢の存在が伝わってくる。掌に当たる柔らかい何かの感触、静かに目を開いた先にある見慣れない天井が、カレンが生きていて、仰向けになってどこかに寝かされているという証明となった。
 獣の姿には戻っていない。人間の格好のまま寝かされていると気づけたのは、自身のみを纏っているのが軽い衣服と肌で、毛並みではないと感じ取れたからだ。

 一つ目の疑問は解消された。ならば二つ目の疑問――どうしてここにいるかを解かねば。
 確か、カレンはクロエ、サーシャと共にクラーク達を追っていた。彼らが今回の事件に大きくかかわっているところまでは問い詰められたが、クロエが奇襲を受け、斃れた。サーシャと自分で応戦したが、あまりに強い敵に手も足も出ず、敗れた。
 事件の主犯である忍者のリヴォルの目的である拉致と拷問から仲間を守るべく、最も守らなければならない者を敢えて呼び出す、派手な忍術を狼煙に用いた。
 誰を呼ぶ為か。
 確か、己に道を説いてくれた、忍術の師――。

「――師匠おぉッ!」

 フォンだ。
 自分達にとって、カレンにとって最も価値のある恩師、フォンを呼ぶ為に放ったのだ。
 結果はどうなったのか。自分は無事だとしても、クロエ達は、何よりフォンはどうなったのか。炸裂しそうな心臓を抑えて跳ね起きたカレンだったが、全身に激痛が奔った。

「おっ、ぐぐぅ……!」

 背骨を直に締め付けられるような痛みに、思わず彼女は悶えた。雷を流されたのかと錯覚する激痛の中で、カレンは自分が上半身の衣服を脱がされ、胸元と背中にかけて包帯をぐるぐる巻きにされているのと、顔や腕にガーゼを貼りつけられているのに気付いた。
 スカートはそのままだが、足にも包帯は巻かれている。彼女が獣ではなく人間の姿を保てているということは、体力は相応に回復している証だが、飛び出た青い尻尾が完治はしていない証拠でもある。
 色々と負傷はしているが、とにかく自分は生きている。紛れもない事実に僅かだが安堵しつつ、まだ背中の痛みをじくじくと生の実感としていると、左側から声が聞こえてきた。

「……寝ていた方がいい。まだ怪我は治ってないから」

 顔だけを振り向かせると、そこには背中を向けて床に座っているフォンがいた。
 ここでようやく、カレンは自分が、新しい宿の借りた部屋にいるのだと把握できた。
 爆風で吹き飛ばされた部屋よりもやや小綺麗で、寝ているのは二人が泊まる部屋のベッド。二部屋しか取れなかったので、隣はクロエとサーシャの部屋が共同で使う部屋だ。ついでに窓から差し込む光はまだ明るく、昼間だと分かる。
 段々とカレンの疑問が解けていく。陽の光が溜まる部屋で、フォンは話を続ける。

「傷が酷かったけど、忍者の秘薬を背中に塗っておいた。マツクリソウとゲキトリカブト、トゲアロエを調合した薬だ。暫くひりつくけど、傷は半日で塞がる」
「……かたじけない、で、ござる」
「謝るのは僕の方だ。君達がいなくなったのに、リヴォルに襲われたのに気付けなかった」
「どうして、あの女の仕業と……?」
「君達三人を纏めて倒せるのと、あんな傷痕を作れるのはリヴォルだけだ」
「君達……クロエとサーシャ、二人はどうなったでござるか!?」
「隣の部屋で寝てるよ。かなりの怪我だったけど秘薬を塗って縫合して、隣の部屋に寝かせてある。アンジーが見張っててくれてるから、奇襲の心配はない」
「そうで、ござる、か……」

 仲間達も無事だった。その事実だけで、カレンは安心してベッドで横になれた。
 ところが、一つだけまだ気になることがあった。フォンの様子だ。
 自分に対して過剰な評価をしているわけではないが、フォンは人以上に他人を心配する性格だ。駆け寄ったり、安堵したりといった反応をしてくれると予想していたし、怒っているなら怒っているで、説教の一つでもあるだろう。
 しかし、今のフォンは違った。まるで何かの準備を執り行っているかのように、ずっと体で隠れたものを弄繰り回している。ただ黙々と、カレンを一瞥もしないままに。

「師匠、さっきから何を……?」

 カレンが問うと、フォンはぴたりと手を止めた。

「……僕が甘かった」
「え……?」
「リヴォルの、彼女の蛮行に怒るだけだった。君達に僕を守らせるのも過ちだ。何より、まだ『止める』なんて考えで動こうとしていた。忍者にあるまじき、恥ずべき甘えだ」
「ど、どうしたのでござるか、師匠! 何を言って――」

 真意を問い質そうとして、カレンは思わず息を呑んだ。

「――『殺さないと』いけない。あれだけは、絶対に殺さないと駄目だ」

 ほんの少しだけ顔を見せたフォンの目は、どす黒く濁っていた。
 クラークに埋められた時、貶められた時など比ではない。あらゆる要素がフォンであるのに、その瞳だけが、彼をフォンではない、別の何かへと昇華させていた。
 理由は二つ。仲間を傷つけたリヴォルへの怒りと、それを遥かに上回る自分への怒りだ。つまり、無力さと不殺の掟に縛られてしまった我が身の間抜けさに対してだ。
 何度も自分の甘さに苛立ってきたフォンだったが、今回ばかりは違った。誰も殺さないと決意した鉄の掟を破り、彼は今、リヴォルを絶対に討つ準備をしている。それがどれほど重く、恐るべき事実か、カレンは嫌でも思い知らされた。

「今夜、リヴォルをおびき出す。近くの山にキル・ボックスを作って、そこで始末する」

 キル・ボックスとは、敵を仕留めるべく準備された三次元的領域である。簡単に言えば、罠や有利な状況を設定し、状況を有利に運ぶ為の空間だ。そしてその名の通り、大体の場合対象を殺める前提で作る。
 やはり、フォンはリヴォルを殺す気だ。弟子としては、とても見過ごせない。

「で、でも、師匠は殺さずの誓いを立てているはずでござる」
「温い考えは、もう終わりだ。誰も殺さず守り抜くなんて夢物語だったんだ」
「師匠、そんな……!」
「とにかく、作戦は今夜決行する。カレン、君は他の二人と一緒にこの宿に――」

 再び床に散らばった大小様々な武器や道具と睨み合いながら呟く彼だったが、カレンが体を起こして反論しようとするよりも早く、宿の扉が開いた。

「聞き捨てならない話ね、フォン。私を置いて、あの忍者を殺すなんて」

 乱暴に扉を開けたのは、隣の部屋を監視しているはずのアンジェラだ。どうやらフォンの話を聞いて、割って入るべくやってきたようである。何故かなど、決まっている。

「アンジー……」
「本気になってくれるのは嬉しいけど、フォン、敵を討つべきは私よ」

 リヴォルは家族の仇。そんな相手を別の誰かに殺させるなど許せるはずがない。

「反論は聞かないわ。戦いの地へ、連れて行ってちょうだい」

 澱んだフォンの目が、アンジェラを見据えた。
 彼女の紫色の瞳もまた、純粋な殺意に満ちていた。