不運からの最強男


 アーベル侯爵家、執務室。
 報告の場に立つマリアンネの姿は、講師として過ごした日々の名残がまだ抜けきっていなかった。
 任期を終えたばかりの彼女は、わずかに緊張を滲ませながら父へ向き直る。

「お父様……その、我儘を聞いてくださって、ありがとうございました」

 ギルベルトは短くうなずいた。
 その仕草はねぎらいではなく、任務を終えた部下に向けるものに近い。

「マリアンネに潜入捜査を依頼したのは我々だ。よくやってくれた」
「……お役に立てたなら、よかったです」

 マリアンネは目を伏せる。
 報告者としての冷静さと、娘としての揺れが、胸の奥でせめぎ合っていた。
 ギルベルトは答えず、視線を横へと流す。
 そこではヴィリバルトが、小型の魔道具の魔力回路に指先を滑らせていた。
 集中しているはずなのに、呼ばれればすぐ返せる程度の余裕はあるらしい。

「教室棟や院棟には形跡なし。となると、彼らの拠点は研究棟かな……。でも、あそこは一度、視てるんだけどな」

 ヴィリバルトのつぶやきが落ち着いた空気に溶けていく。
 ギルベルトはその言葉を受け止めるように小さく息をつき、再びマリアンネへ視線を戻した。

「潜入中に得た情報は、報告書に記してあるな?」
「はい。追加の資料も添えてあります」

 返した声には、ほんのわずかに緊張が混じっていた。
 ギルベルトはそれに気づいたのか、先ほどより柔らかな声音で問いかける。

「マリアンネ、ゲルトには会えたのか?」
「はい、一度だけ。私の姿を見るなり、すぐに立ち去ってしまって……」
「……そうか」

 ギルベルトはそれ以上、言葉を続けなかった。
 沈黙が、ふたりの間に落ちる。
 言葉では触れられないものの重さを、互いに知る者同士の沈黙だった。

「第二魔術団は特殊任務が多いからね」

 空気を変えるように、ヴィリバルトが口を開く。

「管轄が違うし、私もなかなか会えない。いや、むしろ避けられてる気がするけどね」

 冗談めかして肩をすくめるヴィリバルトに、マリアンネも小さく笑みを返す。

「叔父様に会えば、根掘り葉掘り問い詰められるからでしょう?」

 それは、ヴィリバルトの冗談に乗ったというより、場の重さをそっと支えるための言葉だった。

「かもしれないね」

 ふたりのやりとりを見守っていたギルベルトは、弟の機転に感謝を滲ませながら目を伏せた。
 ゲルトにまつわる記憶が、胸の奥で静かに動き始めていた。
 誰も会えない。
 それはギルベルトが背負った責務でもあり、同時に、彼自身が選んでしまった隔たりでもある。

 ──ゲルト。必ず、救ってみせる。

 声にはならず、ただ深く沈んでいくその誓いだけが、彼の内側に残った。


 ***


 マリアンネが退室したのを見届けると、ヴィリバルトはすぐに指先を動かした。
『空間』と『遮断』――ふたつの魔法が重なる。
 壁面に淡い紋様が浮かび、空気が低く唸る。
 執務室の気配が閉ざされ、外界とのつながりが完全に断たれた。
 ひと呼吸置いてから、ヴィリバルトは声を落とす。

「ゼレムの協力もあって、『神の呪い』がどのルートでアーベル家に侵入したのか、やっとわかりそうだよ」

 そう言って、魔法袋から古びた魔道具の欠片を取り出した。
 壊れかけたそれを手のひらに乗せ、光の角度を変えながら、内部構造を示すようにゆっくり傾ける。

「間接的だけど、魔術学校は関与しているよ。この欠片、最近出回っている魔術学校製の魔道具に使われてる素材と、構造がよく似ているんだ。ただ、これだけじゃ決定打にはならない。関与は否定されるだろうね」
「そうだな」

 ギルベルトは目を閉じ、胸の前で手を重ねた。

「それと兄さん。デボラの消息が帝国で消えたことは関係しているよ」
「……そうか。だが、リアとの約束がある」

 ギルベルトはゆっくりと目を開き、強い眼差しをヴィリバルトへ向けた。
 その視線を受け、ヴィリバルトの眉がわずかに動く。
 それでも彼は視線を逸らさず、手のひらの上の欠片を指先でゆっくりとなでた。

「義姉さんは優しい人だった。人に寄り添える、希少な人だ。でも、ジークに危害が及ぶ可能性があると知れば、約束を反故にしても、きっと許してくれるさ」
「影による監視は続けている。だが、動きはない」
「それはわかっているさ。だからこそ、接触をしたいんだ」

 ヴィリバルトの声には、焦りに近い切迫が滲んでいた。

「ヴィリバルト、彼女はいまや帝国の伯爵夫人だ」
「そうだね、素性を隠したね」

 ふたりの視線がぶつかり合う。
 沈黙の中で、互いの思惑と感情が重なり合い、見えない駆け引きが進んでいく。

「兄さん、帝国はそう甘くない。能力のある者を放置するなんて、まず考えられない」

 ヴィリバルトが低く、短く言い切った。

「……許可を」

 その一言が落ちた瞬間、空気がわずかに軋んだ。


 ***


 紅茶の湯気が、執務室の空気にふわりと溶けていく。
 ヴィリバルトは背もたれに身を預け、どこか余裕のある仕草で茶を口へ運ぶ。
 対面のギルベルトも、肩の力を抜きながら視線を落とした。
 ふたりの間に、言葉にならない穏やかな時間が流れていた。
 茶器を静かに戻したヴィリバルトが、ふと思い出したように口を開く。

「ああ、そうだ。帝国はハクを諦めてないようだね」

 ギルベルトは反射的に背筋を伸ばし、短く息を吸い込んだ。

「なんだとっ」
「ああ、ちがった。聖獣を探しているらしい」

 ギルベルトはヴィリバルトを軽く睨み、眉をわずかに吊り上げる。

「どうも、珍しい素材を集めているようなんだ」
「うむ。誘拐未遂事件があって、魔術学校への付き添いを減らしたが、外出も制限すべきか」
「うーん、それはハクが納得しないんじゃない?」

 ヴィリバルトは顎に指を添え、ゆっくりと首を傾げる。

「今だって、ジークのそばにいない日は、シルビアを連れてダンジョンや迷宮でレベル上げをしているでしょ」
「そうだな」

 ギルベルトは短く肯定したが、その表情にはわずかな迷いが滲んでいた。

「一応、カミルかニコライのどちらかを護衛につけてるけどね」
「……難しい問題だな」

 ギルベルトはそれ以上なにも言わず、思考の底へと沈んでいった。