ハクの誘拐未遂事件から、ひと月ほどが過ぎた。
 それ以来、彼は魔術学校への付き添いを控えている。週に一度あるかないか――それほど、ゲルトの魔道具は脅威だった。
 ヘルプ機能の解析によれば、あの魔道具は魔力の消費が激しく、普通の術者には扱えない。
 それをウーリッヒ教授が使いこなしていたのだ。教授の魔力量を考えれば、どうにも辻褄が合わない。

《推測ですが、ウーリッヒは一時的に魔力を底上げしていた可能性があります》

 やっぱり、そうか。

《MP回復薬を連続使用しても、彼の魔力では足りません。外部補助があっても完全な運用は難しいでしょう》

 つまり、特別な手段が必要ということだ。最近の教授は顔色が悪く、痩せてもいた。

《闇市で流通するMP回復薬を使った可能性があります。魔術学校製との噂もあります》

 魔術学校製? そんなものが闇に出回っているのか。

《研究段階の薬を試験目的で流すケースもあるようです》

 たしか研究棟は、許可された教職員とごく一部の特待生しか出入りできないんだよね。
 棟全体に『守り』や『隠蔽』の魔法がかけられていて、出入りも厳重に管理されている。
 あの閉ざされた場所なら、なにが行われていても不思議じゃない。

《調査も可能ですが、研究棟の情報は外部から制限されています》

 今はいいよ。材料が足りないし、ハクたちを危険に晒すわけにはいかない。

《承知しました。ご主人様、レオポルトが屋敷に到着しました》

 時間通りだ。あいつらしい。誘拐未遂の件もあり、アーベル侯爵家は後日レオポルトを正式に招待していた。今日がその日だ。
 玄関へ向かうと、ハンスや侍女たちに迎えられ、マリー姉様とテオ兄さんが正面に立っていた。ディアーナ、セラ、エマも控えている。
 レオポルトは、どこか落ち着かない様子だった。

「ジーク、お客様を待たせするなんて」
「申し訳ありません」

 姉様は小さくうなずき、テオ兄さんはやれやれと目を向ける。
 軽く咎められたあと、俺はようやくレオポルトへ視線を向けた。
 彼はぼんやりとマリー姉様を見つめていた。

「来てくれて嬉しいよ。ようこそ我が家へ」
「……ああ。ご招待、感謝する」

 声はいつもの芝居がかった調子ではなかった。
 どうも姉様に意識が向いているようだ。


 昼食の席では、彼はすっかりいつもの調子に戻っていた。
 父上は辟易していたかもしれない。
 食後、父上は執務へ戻り、客間に俺たちだけが残る。

「ハク様とスラ様がお越しです」

 ハクが姿を見せ、背にはスラが乗っていた。

「ガウッ〈派手な人、よく来たな〉」

 ハクはレオポルトの足元まで歩み寄ると、ふと立ち止まり見上げた。
 顔を少し傾けて、嬉しそうに喉を鳴らすような声を漏らす。
 その背中で、スラがぴょんと跳ねた。

「ピッ!〈よく来たな!〉」

 ふたりなりの歓迎だった。
 マリー姉様が微笑み、ハクをなでるとスラも寄り添う。
 レオポルトは固まったまま、その手元を見つめていた。
 やっぱり、いつものレオポルトじゃない。

「また妾だけ、仲間はずれなのじゃ!」

 シルビアが黒剣ゼレムを抱えて客間へ飛び込んでくる。

「そなたが喧しいから外されたのではない、か」
「妾は静かじゃ! ゼレムこそ、いちいち一言が多いのじゃ!」
「シルビアも、ちゃんと昼食の席に呼んだよ。でも、かたっ苦しいのはパスって断ったじゃないか」

 シルビアはきょとんとした顔で首をかしげる。
 どうやら、忘れていたらしい。

「……そう、だったかえ?」
「そなたが断っているではない、か」
「なっ、ゼレム。うるさいのじゃ!」

 シルビアは睨みながら、剣を軽く振って抗議した。

「……今、剣が……喋ったのか?」

 レオポルトがぽつりとつぶやくと、姉様が慌てて笑顔で割り込む。

「ゼレムは特殊なのよ。ねえ、テオ」

 テオ兄さんも早口で補足する。

「叔父様の趣味で喋る機能をつけたんだ」
「喋る機能……なんて素晴らしい!」

 レオポルトが、マリー姉様の手をぱっと掴んだ。
 目を輝かせて、ぐっと身を乗り出してくる。

「マリアンネ嬢、どこでそれはつけられますか?」
「えっ、えっと……」

 マリー姉様が引きつった笑みのまま、ちらりとテオ兄さんに視線を送る。

「テオ……」

 テオ兄さんは、目を泳がせながら、わずかに肩をすくめた。
 そのとき、扉の向こうから、控えめなノックの音が聞こえた。
 一瞬、部屋の空気が止まる。

「失礼する」

 ゆっくりと扉が開き、カミルが姿を見せた。
 無駄のない動きで一礼し、視線をまっすぐシルビアに向ける。

「シルビア。俺とゼレムが話してる最中に、よくも連れて行ったな」
「う、うるさいのじゃ。妾は、ちょっとだけ……」
「戻るぞ。政務が途中だ」

 カミルがそう告げたとき、ゼレムがふとつぶやいた。

「我のように話すには、どうすればよいか、と、そなたらは聞いたのだった、か」

 部屋の空気が、再び揺れる。

「ん……おまえのように話せる、か」

 カミルが少しだけ目を伏せ、それから周囲を見渡した。
 そして、マリー姉様の手を握ったままのレオポルトに目を留める。

「マリアンネ嬢」

 カミルが一歩近づき、自然な動作でレオポルトの手からマリー姉様の手をそっと外した。
 レオポルトは、ようやく自分が握っていたことに気づいたらしく、ぱっと手を引き、わずかに顔を赤らめた。

「……失礼」

 その声は、いつもの調子とは少し違っていた。

「ゼレムは、鍔に埋め込まれた深紅の宝石を媒介にして、意思を伝えている」

 カミルが、鍔の縁に視線を落としながら、淡々と告げた。

「発話の際に光るのは、その宝石が魔力の共鳴を受けているからだ」

 もっともらしい説明だった。
 少なくとも、レオポルトにはそう聞こえたはずだ。
 実際には、そんな仕組みではない。
 けれど、ゼレムはなにも言わず、鍔の深紅を静かに明滅させていた。

「そうですよね、テオバルト殿」

 カミルが、さらりと視線を向ける。

「ああ、そうだね。たしか、叔父様がそういう魔道具の構造にこだわっていたはずだ。ただ、ゼレムみたいにちゃんと話せる例は、ほとんどないと思う」

 テオ兄さんは、迷うことなく、すっと話に乗った。
 そして、ふと目元の笑みが消えた。

「ただ、この剣のことは、他言無用で頼むよ」

 声は穏やかだったが、どこか底の見えない圧があった。
 テオ兄さんを、本気にさせてはいけない。
 それを肌で感じとったのか、レオポルトが、無言でうなずいたのを、俺は見逃さなかった。
 そんな中、カミルは、なにも言わずにシルビアの背後へと回り込む。
 ためらいなく、襟元を掴んだ。

「う、うぬっ、なにを……!」

 シルビアが抗議の声を上げるが、カミルは無言のまま、ぐいと引き寄せる。

「妾はまだ話の途中なのじゃ! 離せ、カミル!」

 襟元を引っ張られながら、シルビアはじたばたと足を踏み鳴らす。

「ゼレムも、なにか言うのじゃ!」
「我は、連れ戻されるのが妥当だと思う、が」
「うるさいのじゃ!」

 その騒ぎの中で、テオ兄さんは、ふと視線を俺に向けた。
 目元には、いつもの柔らかさが戻っている。

「ジーク。さっきの話は、後で少し整理しよう」

 穏やかな声だった。
 けれど、俺の胸には、さっきの圧がまだ残っていた。

「はい」

 声が、少しだけ硬くなった気がした。
 カミルは、シルビアの襟元を掴んだまま、扉の前で静かに一礼する。

「失礼する。政務に戻る」
「うぬぬぬぬ……妾はまだ話の途中なのじゃ……!」

 シルビアはじたばたと抗議するが、ゼレムは冷静に言葉を添える。

「そなたの話は、また後で聞くとしよう」
「うるさいのじゃ!」

 そんなやりとりを残したまま、三人は扉の向こうへと消えていった。
 部屋に、ようやく静けさが戻る。
 すると、扉の向こうから、聞き慣れた声が響いた。

「ったく、あいつら、どこに行きやがった……」

 次の瞬間、また扉が開く。
 ニコライがいつもの雑な足取りで、客間に踏み込んでくる。
 ちらりとセラに視線を向けるが、なにも言わずに俺たちを見渡した。

「おチビ。カミルとシルビアは、もう出てったか?」
「はい。ゼレムも一緒に」
「ったく、報告もなしに勝手に動きやがって……」
「ちょっと、あなた」

 マリー姉様の声が、静かに割り込んだ。
 その語尾には、いつもの柔らかさとは違う鋭さがあった。

「ジークの前で、乱暴な言葉遣いはやめてちょうだい」

 ニコライは、わずかに眉を動かした。

「……悪かったよ。つい口が滑った」
「滑りっぱなしじゃ困るのよ」
「あんたに言われたくねえな」
「私以外に誰が言うのかしら」
「……ったく、口だけは達者だな」
「あなたこそ、口だけで動いてないといいけれど」

 ふたりの言葉の応酬は、次第に熱を帯びていった。
 空気が、じりじりと軋む。

「まあまあ、姉様もニコライも、その辺にして」

 テオ兄さんの声が、穏やかに割って入った。
 けれど、その響きには、場を収めるだけの芯があった。
 さすがテオ兄さんだ。
 あの緊張を、無理なくほどいてしまう。

「だって、テオ。彼、ジークの前なのに……」

 マリー姉様が、わずかに眉を寄せる。

「わかってる。だからこそ、だよ」

 ニコライは、肩をすくめてそっぽを向いた。

「俺が悪かったって言ってんだろ」
「言葉だけじゃなく、態度も改めてちょうだい」
「……心得た。マリアンネ嬢」

 その呼び方に、マリー姉様は一瞬だけ目を細めた。
 けれど、すぐに視線を逸らす。
 俺は、ふたりのやりとりを見ながら、さっきまで張りつめていた空気が、いつのまにか和らいでいることに気づいた。
 そんなとき、レオポルトがぽつりとつぶやいた。

「あのふたり、親密なのでは……?」

 俺は、思わずむせかけた。