第二魔術団の任務を終えたゲルトは、研究棟の裏手にある専用通路から、静かに帰館した。
 黒いマントの裾をわずかに揺らしながら、建物の奥、自室へと歩みを進める。
 その背を、横手から現れた男の声が追う。

「ゲルト殿」

 立ち止まることなく、ゲルトは声の主に目を向けた。
 ウーリッヒだった。
 書類を小脇に抱え、広場側の階段から姿を見せたところだった。
 その顔を目にした途端、ゲルトはマントの内側で、わずかに眉を顰めた。

「先日、弟君にお会いしましたよ」

 会釈すら伴わない、声の調子だけが妙に朗らかだった。
 わざとらしさが、見え透いていた。

「……それで、今日は何用ですか?」
「依頼した魔道具が、どうも欠陥品のようでしてね」

 その場で、ゲルトの足が止まった。
 背筋は伸びたまま。顔を向けることなく、会話に応じる姿勢を取る。
 ウーリッヒは、その仕草を目にしてすぐに動いた。
 腰元の魔法袋に手を滑り込ませ、迷いなく魔道具を取り出す。それをゲルトに差し出した。
 ゲルトは無言のまま、それを受け取る。
 指先から魔力を通すと、構造の歪みを探るように状態を確認していく。
 魔力の流れを肌に受けながら、目を細めた。
 しばらくして、短く言葉を落とす。

「……? どこも壊れていませんが」
「使用中に、隠蔽の効果が途切れました。すぐに阻害と遮蔽も停止して、獲物の捕獲に失敗したのです」
「単純に、教授の魔力が底をついたのでは?」
「なっ、なにを」

 ウーリッヒの声が一瞬、うわずった。
 目に怒気が差し、書類の端を無意識に握り直す。
 若者に侮られた屈辱が、喉元に溜まったまま言葉にならない。
 ゲルトは、魔道具からゆっくりと視線を外し、教授に向き直った。
 語調に変化はない。実験結果でも述べるような、口ぶりだった。

「作製の際にお伝えしたはずです。構造上、魔力の消費が大きく、実用性に乏しいと。それでも問題ないと判断されたのは、教授ご自身です」

 ウーリッヒの眉が跳ねる。
 指先が書類を握り込み、喉の奥で声が噛みついた。

「それは……だが、MP回復薬を五回使用して、それでも、研究棟まで持たなかったのだ!」

 ゲルトは一拍、視線を落とす。
 魔道具の表面に触れながら、再び口を開いた。

「ですから、実用性が皆無であると。……魔術学校製(・・・・・)のMP回復薬を、五回も連続で使用されたのですか?」
「そうだ、だからっ──」

 ウーリッヒは身振りを交え、なおも自らの正当性を押し通そうとしていた。
 ゲルトの視線がその顔に滑る。
 痩せこけた頬には覇気がなく、肌の艶は落ち、顎の輪郭は骨ばって見える。
 一カ月前の彼とは、様が変っていた。
 ゲルトは表情を変えぬまま、淡々と言った。

「なるほど。教授は、他にも魔術学校製の薬を服用されていますね」
「そんなことは今どうでもいい! 魔道具だ! もっといいものをよこせ!」

 ウーリッヒの怒声が、研究棟の廊下に空しく響いた。
 ゲルトは眉ひとつ動かさず、ただ一言、切り捨てるように返す。

「無茶です。教授の方が……」

 その一言を最後に、ゲルトは背を向けて再び歩き出す。
 廊下に残されたのは、身じろぎもせず立ち尽くすウーリッヒだけだった。


 ***


 自室の扉が音もなく閉まり、ゲルトは小さく息を吐いた。
 数日前に広げたままの資料が、机の上に整然と並んでいる。
 隅には、一輪の白いリーリアが、静かに佇んでいた。

「ただいま、母上」

 花に向け、誰に聞かせるでもなく声を落とす。
 マントの裾を払って顔を上げると、その右半分に、紋が淡く刻まれていた。
 ゲルトは一度視線を伏せ、ウーリッヒに返しそびれた魔道具を資料の隣へ無造作に転がす。
 肩からマントを外し、手袋に指をかけ、それを脱ぎながら、椅子の背に掛けた。
 しばし、指先を見下ろす。
 右の甲には、顔と同じ紋が浮かんでいた。
 ゲルトは胸の内で、数日の出来事をなぞった。

「情報は得た。団の評価には繋がらないだろうが、目的には、近づいた」

 視界の端、資料の陰に転がる魔道具が目に入る。
 無意識に手を伸ばした。
 指先が触れた瞬間、過ぎったのは、ウーリッヒの言葉だった。

『先日、弟君にお会いしましたよ』

 魔道具を使用した相手、それを知らないはずはない。
 ジークベルトの姿が脳裏に浮かび、ゲルトは視線を落とした。
 瞼の裏に映るのは、魔術学校での日常。
 廊下の端。
 昼下がりの光に包まれて、いつも同じ面子を引き連れて歩く姿。
 ただ、真っ直ぐ前を向く。馴染めていないのに、堂々とした振る舞いは変わらない。
 周囲の生徒が距離を置くのも、当然のことだった。
 名門の家に生まれ、容姿にも能力にも恵まれた少年。
 その顔立ちは、鬱陶しいほど母に似ていた。
 ゲルトの目に映るその色は、ただただ鼻についた。
 視界に入るだけで、吐き気がする。
 あの色に触れるたび、胸の奥でなにかが軋む。
 奪われた家族。
 歪められた居場所。
 ジークベルトの存在そのものが、癒えぬ痛みだった。
 あいつが傷つく瞬間だけを、心のどこかで、ずっと待ち続けていた。
 だが……少しずつ変化が訪れる。
 教室で笑い、廊下で言葉を交わす。
 ひとりの生徒と親密に話す姿を目にした時、軋みは限界を超えて、裂けた。
 机を、魔道具ごと叩いた。
 ゲルトの手元でわずかに魔力が揺らぎ、手のひらに細い稲妻が絡みつく。

「あいつは……傷ついていない」

 ゲルトは、喉元で苦味を噛み潰しながら、ただ白いリーリアを見つめた。