誕生日の前日。
週に三日通っている魔術学校で、それは唐突に起きた。
授業がすべて終わり、帰り支度をしていた時、ふと気づく。
ハクが、いない。
「しまった」
気づいた時には、もう遅かった。
《ご主人様。ハクは、ウーリッヒの魔道具で眠らされているようです》
ヘルプ機能が、冷静に告げる。
やっぱり、あいつか。
入学して以来、ウーリッヒ教授は、あらゆる手段でハクを狙ってきた。
その執着を、ことごとく玉砕してきたけれど、相手にしなかった俺にも、落ち度はある。
油断していた。
ハクなら大丈夫だと、信じきっていた。
ハクが希少な聖獣だってこと、誰よりも俺がわかっていたのに。
どうしよう。
ハクの正体が知られるのは、まずい。
体液なんか採取されたら、終わりだ。
そんなこと、絶対にさせられない。
それにしても、どうして今まで気づかなかったんだ?
《申し訳ございません、ご主人様。高精度な阻害と隠蔽、さらに複数の遮蔽処理により、位置検知が妨げられていたようです》
どういうことだ?
ウーリッヒ教授が、そんな高精度の魔道具を入手するなんて、できないはずだ。
協力者がいる。
そう考えるのが妥当だ。
《ご主人様。ハクの位置が判明しました。研究棟前の廊下で、レオポルトと対峙しています》
レオポルトと?
状況が掴めない。
助けに入ったのか、それとも、協力者として動いているのか。
……まさか、敵なのか?
その判断ひとつで、俺の動きも変わる。
ハクを守る。それが、今の最優先事項だ。
「スラ、移動魔法で先行して。見つからないように、映像を送って」
「ピッ!〈任せろ!〉」
俺はスラを手のひらに包み隠しながら、移動魔法を展開する。
魔力の波が広がり、ぷるりとした感触がふっと消えた。
それと同時に教室を飛び出し、『倍速』で速度を上げる。
視界が流れ、重力が遅れてついてくる。
ほどなくして、スラからの念話映像が、頭の中に直接流れ込んでくる。
視覚だけじゃない。
空気の揺れ、声の温度、場の緊張。すべてが脳に触れる。
水の気配が立つ。
研究棟の入り口前に、揺らぐ壁が張られていた。
侵入を遮るように、波打っている。
「ベルク君、そこをどきなさい」
ウーリッヒ教授の声が、硬く響く。
レオポルトが壁の手前で立ちはだかっている。
「教授、なぜジークベルトの魔獣を?」
「少し借りたんですよ」
「やれやれ、嘘はやめてもらいたい」
レオポルトは大袈裟に肩をすくめて、両手を広げた。
「何度も教授がジークベルトの魔獣を狙っていたのを、俺はこの目で見ているんですよ」
教授はあからさまに顔を顰め、吐き捨てるように言った。
「まったく、どいつもこいつも……厄介な」
その声と同時に、スラの映像が消え、現実の空気が肌に戻ってくる。
教授の姿が、視界に映る。
レオポルトが水の壁のすぐ前に立ち、盾のように教授と向き合っていた。
教授の腕には、眠ったハク。
全身が、瞬間的に熱を帯びる。
俺は前へと歩み出た。
「ウーリッヒ教授、ハクを返してください」
「ちっ、もう来たか」
教授がゆっくりと振り返る。
その視線の奥に、苛立ちだけではない、わずかな焦りの色が見えた。
「大人しく返してくれるなら、危害は加えません」
「ちっ、魔力が底をつきそうだ。仕方がない、今回は引き下がろう」
そう言うと、教授は腕の中で眠るハクを、ためらいもなく地面に投げた。
「ハク!」
咄嗟に体が反応する。でも、間に合わない。
『守り』
レオポルトの水魔法が、揺れる膜となってハクを優しく包み込む。
地面への衝撃を、すべて吸収してくれた。
俺はすぐに駆け寄り、ハクを腕に抱きとめる。
よかった。怪我はないみたいだ。
「これはいけないですね。魔術学校内での私的な魔法は禁止されているはずですよ」
教授がいやらしい笑みを浮かべながら、レオポルトに告げる。
「一度は見逃せますが、二度目はね」
レオポルトは小さく肩をすくめ、皮肉げに笑った。
「教授こそ、見逃してもらえる回数、残っているんですか?」
ほんと、その通りだ。
自分のことを棚に上げて、よく言うよ。
「大丈夫です。レオポルトはハクを助けたと、僕が証人になります。証拠もあります」
「ピッ!〈見てた!〉」
茂みの陰からスラが飛び出し、俺に駆け寄ってくる。
肩にぴょんと跳ね乗ると、胸を張るように鳴いた。
俺は立ち上がり、教授を真っ直ぐに睨みつける。
「ウーリッヒ教授、今回の件はアーベル侯爵家を通して正式に抗議します」
「ふん、できるかな。この魔道具はゲルト殿に提供してもらったのだ」
「ゲルト……」
胸の奥が、小さく軋む。
名を口にしただけで、体の芯が冷えるような感覚が走る。
ゲルト、そんなに俺を、恨んでいるのか。
「アーベル家の兄弟間でのことだ。私はなにも知らない」
教授の言葉は逃げだった。けれど、権威としては十分すぎるほど重い。
レオポルトが顔を強ばらせ、半歩踏み出す。
「なっ、なにを言ってる? ジークベルトの魔獣を誘拐したのは教授だろ?」
「レオポルト」
俺は首を横に振った。
その動きだけで、彼は察する。顔をわずかに歪ませながらも、一歩下がった。
「なかなか、良い判断ね。アーベル君」
教授の声に応じることはなかった。
俺はハクを腕に抱いたまま、静かに背を向ける。
レオポルトも、なにも言わずにそのまま俺に付き添った。
「レオポルト、ハクを助けてくれて、ありがとう」
「たまたま通りがかっただけだ」
広場のベンチに腰を下ろし、ハクが目を覚ますのを待ちながら、俺はもう一度礼を伝えた。
「うん。それでも、助かったよ」
レオポルトは視線を空に向けたまま、軽く肩をすくめた。
なにも言わなかった。けれど、口元に浮かんだ笑みだけが、少しだけ長く残っていた。
そして、ふと思い出したように魔法袋に手を突っ込む。
「……ああ、別に、忘れてたわけじゃない」
そう言って、ずしりとした大きな袋を取り出す。
「明日、誕生日だろ」
「ありがとう」
俺に袋を手渡しながら、レオポルトは何気なく続けた。
「俺と同じマントにしようと思ったんだが、親衛隊に止められてしまってな。俺だから似合うって」
「えっ、いらない」
「はあ?」
「ううん、なんでもないよ」
「だから、人気のシリーズにした」
「えっ、まさか……」
俺は貰ったプレゼントの袋を開けた。
中で鎮座していたのは、もう嫌というほど目にしてきた、例のシリーズの主役。
ぴたりと、くまの顔がこちらを向いていた。
「『くまサン』だ。俺には劣るが、なかなかのものだろ」
「……あっ、ありがとう」
どうして、よりによってくまサン。
いや、くまサンは悪くはない。レオポルトも悪くない。
「ジークベルト、どうした? やはり、俺とお揃いのマントがよかったか」
「それはいい」
俺が首を振ると同時に、腕の中でハクがふいに身じろぎした。
「ガウッ……。〈ジークベルト、ごめん。油断した〉」
「怪我はない?」
「ガウッ……?〈眠いだけ……。派手な人?〉」
「レオポルトが助けてくれたんだよ」
そう言うと、ハクは腕の中から抜けて地面に着地した。
そのままレオポルトの足元に寄り、尻尾をふわりと振る。
「ガゥー〈ありがとう〉」
「まあ、俺の友人であるジークベルトの魔獣だからな。感謝するがいい」
レオポルトが、いつもの調子でそう言った。
あれ、いつの間にか、友人設定……。
まあ、悪くはないかも。
