革張りのソファの背もたれが、妙に硬く感じる。
たぶん、緊張のせいだ。
背中の力がうまく抜けないまま、小さく息を吸った。
ここは、父上の執務室。
どの部屋とも違う、緊張感を持って整えられた場所だ。
俺は応接用のソファに腰を下ろしている。
向かいには叔父がいて、主座には父上が、いつも通りの穏やかで厳しい気配をまとい、黒い剣を見つめていた。
張り詰めた沈黙の中で、叔父が、ゆっくりと口を開いた。
「君からジークに接触した理由は、なんだい?」
その問いは、俺に向けられたものではなかった。
ゼレムが、沈黙を破る。
「無意識だ。我と同じ欠片を持つ者、『アーベル家の至宝』だったから、かもしれん」
ああ、またそれか……。
『アーベル家の至宝』と俺が呼ばれる理由を、俺はまだ知らない。
生まれた時からずっと、その名でささやかれてきた。
家の中でも、外でも、みな一様に、それが俺だと認識していた。
だから、俺のことを指しているのは分かっている。
けれど、その意味を知らない。
何度か尋ねたこともある。
けれど、いつも、はぐらかされるだけだった。
──あの時、叔父に俺の秘密を告白したあと、父上にも、勇気を出して打ち明けようとした。
その気配を感じ取ったように、父上は、先に静かにこう言った。
「ジークベルト、まだいい」
拒むでも否定するでもなく、迷いごと、包み込むような、穏やかでまっすぐな響きだった。
焦りも、不安も、言葉にしなくても伝わっていたんだと思う。
そしてその時、もうひとつ言葉が添えられた。
「成人を迎えた時に、すべてを話そう」
それが、父上との約束になった──。
それなのに、ゼレムは今の俺をそう呼び、その意味まで、知っているようだ。
保管庫で、俺が黒い剣に手を伸ばした理由さえ、あの選択が、初めから定められていたかのようだった。
俺はゼレムを見た。
「ゼレムは、僕のことを知っていたの?」
鍔の深紅が、ほんのりと脈打った。
「知らぬ……いや、知らぬとは言えぬ、か。すべてではない。我もまた、過去を持たぬ者のひとりだ」
叔父が、わずかに目を細める。
「なるほどね。君は、彼とは別の人格なんだね?」
ゼレムは、なにも答えなかった。
ヴィリー叔父さんの言う、別の人格って、どういう意味なんだろう。
ゼレムのような黒い剣が、他にもあるってことだろうか。
「兄さん」
叔父が声をかけると、父上は、短く、けれど確かに、うなずいた。
「『アーベル家の至宝』とは、創造主の魂の欠片だと伝承されている」
「創造主……ですか?」
「突拍子のない話だよね。でも、それは、たしかに存在するんだ」
叔父の赤い瞳に、影が差す。
その深みは、底知れず、冷たい。触れてはいけないものが、そこに潜んでいるようだった。
思わず、声が漏れる。
「ヴィリー叔父さん……?」
その呼びかけに応えるように、叔父はゆっくりと瞬きをした。
次の瞬間には、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
「とまあ、今伝えられるのは、ここまでかな? ねえ、兄さん」
「そうだな」
話が終わりかけるのを感じて、思わず前のめりになる。
場の流れに置いていかれる前に、事実を知りたくて、言葉がこぼれた。
「待ってください。僕は、その魂の欠片を見たこともないし、受け継いでなんて、いません」
鍔の真紅が、ふわりと脈打った。
ゼレムの声が、低く響く。
「そなたの母が、そなたを宿した時に『アーベル家の至宝』は、受け継がれた」
執務室の空気が、ぴたりと止まる。
誰もが言葉を発することなく、ただその一言を深く、受け止めていた。
ゼレムは、周囲の気配に気づいたのか、すぐに言葉を継いだ。
「これは、まだ語るべきではなかった、か」
俺は息を呑む。
それでも、言葉は止まらなかった。
「母上が、『アーベル家の至宝』だったことは、聞いています」
沈黙のなかで、父上と叔父の視線が、わずかに揺れる。
その動きに、説明されていないなにかを感じ取った。
胸の奥に、違和が広がっていく。
あの時、叔父が俺に語ったことは、嘘だったのか。
そんな馬鹿げた疑念が、頭をよぎる。
「やはり、僕を宿したから、『アーベル家の至宝』が僕に移ったから……母上は、亡くなったんですか……? だから、ゲルトも、僕をっ」
「ちがう!」
涙がこぼれる直前、父上の声が鋭く空気を断ち切った。
拳が重厚な机を打ち、大きな音が響く。
その衝撃に、言葉が止まった。
「ジークベルト、リアは、お前に救われたんだ」
父上は拳を固く握ったまま、俺をまっすぐに見つめていた。
「ち、父上……」
「ゲルトは我々大人の責任なのだ。ジークベルトは、なにひとつ悪くはない」
握られた拳が、わずかに震えていた。
ゲルトの名を口にする直前、父上の瞳に痛みが走った気がする。
それは、父上がずっと背負ってきた苦しみに見えた。
「それに、リアは……仮の至宝だっただけだ」
「仮至宝であっても、体に影響はない」
ゼレムの声は、静かに添えるようだった。
それは、俺に向けられた気遣いにも思えた。
「君は、どこまで知っている」
叔父の声には、探るような鋭さがあった。
ゼレムは答えず、ほんの一瞬だけ沈黙する。
「今、それを語るべき、か」
その言葉の響きに、叔父の瞳が細く揺れた。
ゼレムを見つめたまま、ゆっくりと口角を上げる。
「君にお願いがあるんだ」
急に態度が変わった叔父を見て、ゼレムの言葉が、叔父のなにかを動かしたように思えた。
「なんだ」
「長年追っている事象があるんだ。どうしても、その糸口が見つからなくてね。君には……その調査に協力してほしい」
「我は構わぬが」
その言葉が、どこか俺への問いにも聞こえた。
叔父はゼレムに視線を落とし、それから俺をまっすぐに見つめる。
「ジークベルト、当分の間、この黒い剣を私に預けてくれないか?」
突然の申し出に、意味は掴めなかった。
けれど、叔父が協力を要請するほどのことだ。
ゼレムは魔剣で、俺には想像もつかないほどの時を生き、豊富な知識も持っている。
それに、ゼレム自身も受け入れている。
俺がここで断る理由は、ない。
「わかりました」
その言葉が、執務室の空気に沈んだ。
誰もなにも言わなかったが、なにかが決まった気がした。
***
「そろそろ、私は帰るよ。フラウも待っているしね」
叔父はカップを持ち上げ、残った紅茶をゆっくりと味わったあと、静かに置いた。
所作は最後まで優雅で、さすが叔父だと密かに感心する。
「もうそんな時間か……すまないな、ヴィリバルト」
父上がゆったりと立ち上がり、窓の外へ視線を移す。
茜の光が差し込み、執務室の空気は静かに夕の色へ染まり始めていた。
「久しぶりに、兄さんとジークと話せて、楽しかったよ」
そう言いながら、叔父は俺の方へ視線を向ける。
その瞳には、柔らかい温度と、少しだけ皮肉めいた光が滲んでいた。
「はやく、魔術学校の生徒たちと馴染めるといいね」
「頑張ります」
素直にうなずきながら、少しだけ背筋を伸ばす。
口にした言葉に、自然と力がこもっていた。
「じゃ、ジーク。彼を借りていくよ」
「はい、お願いします」
俺は両手で、黒い剣を丁寧に持ち上げ、叔父へと差し出した。
鍔の深紅が、静かに脈打つ。
「いってくる」
ゼレムがそう告げると、叔父は「じゃあね」とだけ残し、魔力を呼び起こした。
光が音もなく揺れ、ゼレムとともに、叔父の姿は執務室から消えていった。
わずかな静けさのあと、俺は父上の方へ向き直る。
「では、父上。僕も部屋に戻ります」
礼節を整えて一礼し、扉へ向かおうとした、その時だった。
執務室の扉に、控えめなノック音が響く。
「入れ」
父上が許可を与えると、静かに扉が開き、マリー姉様が現れた。
柔らかなドレスに身を包み、頬を少しだけふくらませながら、そのまま優雅に一礼する。
「申し訳ありません、お父様。なかなかお声がけがないもので」
父上は眉をひそめ、少しだけ困ったように答えた。
「マリアンネ……すまない。もう話は終わった」
マリー姉様は一瞬、目をぱちぱちと瞬かせてから、ふわりと父上のそばに寄る。
「お父様、ひどいです。私、ジークとの会話を楽しみにしていたんですよ」
俺は苦笑いを浮かべながら、そっと執務室をあとにした。
背後では、マリー姉様に問い詰められている父上が、やや押され気味に立っていた。
