俺は保管庫の前で、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
 叔父によって張られた強力な結界が、扉の縁にうっすらと揺れている。

《保管庫の整理作業が終了し、通常の重警備区域に戻ったようです》

 ヘルプ機能の声が、淡々と響く。
 えっ、じゃあ俺は、どうすればいいんだ?

「ジークベルト様、今は授業時間では?」

 背後から突然声をかけられ、俺は思わず肩を跳ねさせた。
 振り返ると、穏やかな微笑をたたえた執事のハンスが、静かにそこに立っていた。
 口調はいつもどおり淡々としているのに、不思議と落ち着く。

「ハンス……どこから出てきたの?」
「企業秘密ですよ、ジークベルト様」

 柔らかな声色なのに、じんわりと圧が滲む。
 俺は息をひとつ吐いてから、正直に状況を話した。

「──そういうわけなんだ」
「シルビア様たちが保管庫内に……なるほど」

 ハンスは一拍おいて、静かにうなずく。

「私が確認した時点では、全員退室されたはずでしたが……承知しました」

 含んだ笑みを残したまま、彼はすっと扉へと歩み寄る。

「ギルベルト様には、内密にしておきましょう」

 そう告げて、何気ない仕草で保管庫の扉を開いてくれた。
 ハンス、その笑顔が、逆にこわいよ。

「では、お気をつけて。いってらっしゃいませ」

 背後から響いた声に、俺は深くうなずいた。
 保管庫の中へ足を踏み入れ、扉が閉まる音を背に受けながら、一瞬だけ目を伏せる。
 ……なにかがおかしい。

 叔父の結界内にいるはずなのに、魔力の濁りが渦を巻いている。
 外からの干渉ではない。空間そのものが、内側から曇っている。
 指先がかすかにざわついた。
 黒い剣が、わずかに震えた気がする。

 反応している?
 なにかに、呼応して……?

 その瞬間、保管庫の奥に潜んでいた魔力が、微かに波打った。
 気配の方向が変わる。魔力が傾いている。
 奥から漂う気配は、空気の層をゆっくりと押し返していた。

 俺の周囲には、誰もいない。
 ──はずなのに。
 誰かの呼吸が、耳の奥にふれてくる。

 足元にまとわりつく魔力のざらつきは、地面そのものが拒絶しているようだ。
 ひと呼吸ごとに、層の中へ沈み込んでいく感覚が、じわじわと深くなる。

 なんだ、この力は……。
 魔力じゃない。もっと大きくて、圧倒的で……威圧的な力。

 思い浮かぶのは、ただひとつ。
 湖畔の神殿で、シルビアを覆っていた、あの気配。

 彼女の主様の力──神力と呼ばれるものだ。

 黒い剣が、脈を打つ。
 かすかな震えが、柄から腕へ、そして胸へと、静かに波及してくる。
 感覚だけで言えば、鼓動だ。
 けれど俺の心臓とは、違うテンポで動いている。
 神力の波動と黒い剣が共鳴しているのか。

《ご主人様、保管庫内部に異常を検知しました。検出された力は魔力ではなく、神力です。空間全体に浸透しており、内部構造に歪みが生じています》

 その報告を受けても、なぜか俺の呼吸は乱れなかった。
 柄から伝わる黒い剣の熱と、俺自身の直感が、妙に落ち着かせてくれる。
 この状況でも『まだ大丈夫だ』と、確かにそう思えていた。
 そのときだった。
 保管庫の空間が、ぐにゃりと歪む。
 内側から、弾けるように影が飛び出してきた。

「なんじゃえー!」

 シルビアが半ば転げながら飛び出し、勢いのまま叫ぶ。

〈……たすかった〉

 ハクは床に着地し、ほっとしたように息を吐いた。

〈主! たすかった!〉

 スラは俺の足元へ、跳ねるようにまっすぐ転がってくる。

 その瞬間、足元に光の粒がぱっと弾けた。
 舞い上がる光が空間を満たすと、魔力のざらつきがすっと消える。
 さっきまで空間を圧迫していた気配は、もうない。
 保管庫の空間が、ゆっくりと静けさを取り戻していく。

 そしてその静寂の中、黒い塊がぽとりと足元へ落ちてきた。
 ……うん? これは。
 俺が塊に手を伸ばそうとすると、〈主! きけん!〉と、スラが叫び、俺の腕にしがみつく。
 全身を震わせて、まるで塊そのものからなにかを感じ取ったようだった。

「大丈夫だよ、スラ」

 俺は声を抑え、安心させるように言った。
 けれどスラは、そばを離れようとしない。

 ……これは困ったな。

 そう思いながら、俺はもう一度、塊に視線を落とす。
 塊は動かない。ただそこにある。
 けれど、見えないなにかが、ゆっくりと俺の背中を押しているような気配があった。
 黒い剣だ。
 静かに柄へ手を添えると、黒い塊がわずかに揺れた。
 触れていない。
 なにもしていないのに、空気がきゅっと音を立てた気がした。

「おぬし、神力は消えておらぬぞ! 油断するのではないのじゃ!」

 シルビアの声が響いた瞬間、ハクがすっと俺の前に立ちはだかった。
 毛並みが逆立ち、爪が床をかいた音が耳に届く。

〈ジークベルトは、ハクが守る!〉

 その声は低く、しかし確かな意思を帯びていた。
 ああ、シルビアの余計な一言で、ハクが完全に戦闘モードに入っちゃったか。
 どう収拾するの、これ?

「ハク、本当に大丈夫なんだよ」

 一応、窘めてみるが、その背は少しも緩まない。
 そのときだった。
 黒い剣が激しく震え、俺の手元から滑り落ちた。
 落下の途中で、剣の軌道がぐいと逸れる。
 ハクの前をすり抜け、黒い塊の上へ、吸い寄せられるように落下した。

「「「「あっ!」」」」

 その場にいた全員の声が重なる。
 衝突の瞬間、黒い塊が強く金色の光を放った。
 空気が震え、保管庫全体が、息を呑んだように静まり返る。
 光の中心で、黒い剣の根元に霧のような影が絡みつく。
 それは糸のような形にほぐれながら、ゆっくりと剣の輪郭に沿って編み込まれていく。

〈……なんか、つくってる?〉

 スラが俺の腕にしがみついたまま、ぽつりとつぶやいた。

「ああ、妾の目に偽りはなかったようじゃの」

 シルビアが腕を組み、どこか得意げに鼻を鳴らす。
 神力の残滓が剣を受け入れた。そんな確信に満ちた表情だった。

 なるほどね。
 あとでシルビアには、たっぷり事情を説明してもらわないと。
 そうだよね、ヘルプ機能?

《申し訳ございません、ご主人様。ヴィリバルトが『ご主人様が判断すること』と申しており、危険はないものかとばかり》

 ヴィリー叔父さんが関わっているの?

《いえ、その……最初に検出したのは、フラウでして……》

 歯切れの悪い回答に、俺はすべてを察した。
 まさかとは思うけど、ヘルプ機能、フラウへの当てつけだったの?

《いえ、まさかそのようなつもりは。ただ、ほんの数%ほどの可能性は……。それでも、ご主人様のお役に立てると判断した結果です》

 そういうことだよ、ほんと。
 俺は大きく息を吐き、目を伏せる。
 手元に視線を戻すと、そこには、もう黒い鞘ができていた。
 霧のような糸は、すでに剣の根元に定着していた。
 光の名残を帯びながら、黒い輪郭に沿ってぴたりと形を取っている。
 俺はそっと剣を持ち上げ、鞘に収めてみる。
 抵抗はない。
 むしろ、自然に吸い込まれるように納まった。
 音も、圧もない。
 ただ、空気がひとつだけ揺れた。
 それは、なにかが戻ったときの、静かな反応。
 融和。
 そう呼ぶしかない感覚だった。
 そして、声が聞こえた。

「長き眠りから覚めたこと、礼を言うぞ」

 俺は、鞘に手を添えながら、黒い剣を見下ろす。
 剣には、もはや熱も光も残っていなかった。
 けれど、その声は、間違いなくこの剣から聞こえた。
 空気が、ほんのすこしだけ薄くなる。
 俺は目を閉じ、息をひとつ吐いた。
 これは、また始まったのかもしれない。